En attendant Godot (Samuel Beckett)

サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』に久しぶりに触れた
そして僕の印象の変わりように とてもとてもびっくりした
ウラジミールとエストラゴンをアフリカ人たちが演じていたからではない
本の表紙が変わったからでもない
私が変わったからでもない
社会が変わったから
たぶん そう
サミュエル・ベケットが先を見通していたから
きっと そう

言葉は交わされているけれど
コミュニケーションが成り立っているかといえば必ずしもそうではない
何かが起きるのかといえば 何も起きない
舞台の上はシンプルで 不合理さはあっても不条理さはなく 人はいてもリアルさはない
劇なのは間違いないのだけれど
演じられているのがいつのことなのかははっきりわからず
場所がどこなのかもはっきりわからず
登場人物が誰なのかもよくわからず
何をしているのかもはっきりしない
ゴドーを待ちながらと言いながら いったい誰を待っているのか 何を待っているのか
よくわからない
刑務所のなかの人間からは熱烈に支持されても 普通の人からは退屈だと言われてしまう
『ゴドーを待ちながら』はそういう劇だったはずだ

ところが初演から70年以上経って世界が変わってしまい
『ゴドーを待ちながら』の意味もすっかり変わってしまい
この劇を不条理だと感じる人はもうあまりいないのではないか
愛国心とか家族愛といった刷り込みが薄れ 難民のようなメンタリティーを持った人たちが
場所や時間といったものへの愛着もなく
いい場所やいい時間などないのだということは漠然とわかってはいても
誰もが(ウラジミールやエストラゴンのように)
どこかいい場所やいい時間に連れて行ってほしいと願っている
70年以上もかかって『ゴドーを待ちながら』の舞台上のことが現実の社会に移ってしまった
そんな感じだ

偽造パスポートをくれる人を待ったり
国境を越えて安全な場所まで連れて行ってくれる人を待ったりといった
難民だけが待っている人
減刑され突然死ぬことがなくなるとか
刑期が短くなり突然自由になるとかいった
刑務所のなかにいる人だけが待っていること
そんな難民や受刑者といった特殊な人たちだけがわかるようなことを
普通の人たちがわかるようになってしまった
以前は特殊な人たちだけが感じていたことを
今では普通の人たちが感じている
『ゴドーを待ちながら』が世界中で読まれ公演され続けるというのは
私たちにとって決していいことではないように思える

日本だけでなく世界中で
70年前に不条理と考えられていたことが
あたりまえのことになっている
世界は不条理なんかじゃない
変な希望を持つからいけないのだ
希望さえ持たなければ 不条理なんてない
今の若い人たちの希望のなさは 不条理さえも吹き飛ばしてしまう
今の若い人たちのことが なんだか可哀想に思えてきた

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