寺山修司

私たちは競馬新聞を買ってきて、レースの予想をするときに、常に理性的認識の力で勝ち馬を推理しようとしすぎるのではあるまいか?
血統、持ちタイム、展開、ハンディといった新聞のデータは、すべてコンピューターの予想と同じ方位をめざしている、一つの必然性志向の現われである。それは、人間が知らず知らずのうちに幸運の外へはみ出していって、「賭けないですましたい」と思う情熱の怠惰の現われである。予想紙はできるだけ「偶然」を排そうとこころがけ、幸運や不運に支配されないような必勝の原理を捜し当てようとするポーズを示す。そのくせ、本心では「必勝法」などありえないことを、ひそかに希んでいるのである。この矛盾は、実は科学という迷信におびえる時代の影の現われである。
必勝を獲得し、偶然を排した時、人は「幸運」に見捨てられ、美に捨てられる。「幸運は美以上のものである。だが、美はおのれの光輝を幸運から得ている」(ジョルジュ・バタイユ)だからこそ、私たちが賭博者として「競馬の美学」を樹立しようとするならば、危機と不安のなかで、常にコンピューターの論理との葛藤の時を惜しんではならないのである。

One thought on “寺山修司

  1. shinichi Post author

    ぼくが戦争に行くとき 反時代的な即興論文

    by 寺山修司

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