信じる(石川明人)

わざわざ現金を手にして「私はこれら貨幣の価値を信じています」と口に出す人はいません。なぜなら、ほぼ全ての日本人は貨幣の価値を本当に信じきっているからです。ルーブル美術館に行ってモナ・リザを指差し、わざわざ「私はこれを本物だと信じます」と口に出す観光客もまずいません。なぜなら、誰もがそれを本物だと信じきっているからです。
本当に何かを信じ切っている人にとっては、自分自身のその「信じる」という行為は透明になって見えなくなるはずです。「私は○○を信じています」と自覚し、そう口に出すのは、疑う余地もありうることや、実は十分には信じきれていないことの暗示になってしまう場合もあるように思います。そうした意味で、私は信徒たちが「○○を信じます」とわざわざ口に出すことに、そこはかとない違和感を覚えるのです。

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  1. shinichi Post author

    キリスト教徒たちは何を「信じ」ているのか?

    by 石川 明人

    非科学的な神という存在をなぜ信じるのか。神がいるならなぜ悪があるのか。宗教は平和をもたらすのか。素朴な疑問をもとに宗教と人間の関係を解き明かす1冊『宗教を「信じる」とはどういうことか』より本文の一部を公開します。

    https://www.webchikuma.jp/articles/-/2942

    そもそも何を信じているのか

     例えばキリスト教徒たちは、具体的にはいったい何を「信じ」ているのでしょうか。この問いに対しては、とりあえずは「使徒信条」を参照すると話が早いかと思います。「使徒信条」というのは、日曜の礼拝ですべての信徒が声を揃えて唱えるものです。信徒であれば小学生でも暗唱しているくらいのもので、全文は次の通りです。

    「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦(ゆる)し、身体のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。アーメン」

     これは要するに、キリスト教徒が「信じ」ている事柄を要約した文章です。一読しておわかりの通り、ここでは、「○○を信じます」というフレーズが繰り返されています。これらの「信じ」ている内容そのものについては、科学的・合理的には検証のしようがありませんので、今ここではそれらについては問題にいたしません。しかし、信じているその内容についてではなく、皆でそろって「○○を信じます」と口に出す行為そのものついて考えてみますと、やはりどうしても気になることがあります。というのは、「信じます」とわざわざ口に出す行為に固執すること自体が、そもそもの前提として、実は「疑う」という選択肢が頭の中にあるからではないか、という推測もやはり捨てきれないからです。

    本当に信じていたら、むしろ「信じている」と言わなくなるのでは

     一般に、人は、本当に心から何かを信じきっていたら、「疑う」という発想自体がなくなるので、実際には「信じます」とか「信じましょう」という言葉は口から出てこなくなるものではないでしょうか。私たちは、心から何かを信じていれば、ただ信じているその事柄を前提に、考えたり行動したりするだけになるものです。逆説的な言い方になりますが、「信じている」という自覚さえなくなったときに、ようやくその人は本当の意味で「信じている」ということになる、と言ってもいいでしょう。

     例えば、わざわざ現金を手にして「私はこれら貨幣の価値を信じています」と口に出す人はいません。なぜなら、ほぼ全ての日本人は貨幣の価値を本当に信じきっているからです。ルーブル美術館に行ってモナ・リザを指差し、わざわざ「私はこれを本物だと信じます」と口に出す観光客もまずいません。なぜなら、誰もがそれを本物だと信じきっているからです。めでたく大学入試に合格した青年に対して、友人や家族が「私たちは君がカンニングなんかせず、正々堂々と試験を受けたのだと信じているよ」なんてわざわざ言ったら、その青年はひどく傷つくでしょう。「信じている」と言われたことで、かえって「疑われている」と感じるからです。

     本当に何かを信じ切っている人にとっては、自分自身のその「信じる」という行為は透明になって見えなくなるはずです。「私は○○を信じています」と自覚し、そう口に出すのは、疑う余地もありうることや、実は十分には信じきれていないことの暗示になってしまう場合もあるように思います。そうした意味で、私は信徒たちが「○○を信じます」とわざわざ口に出すことに、そこはかとない違和感を覚えることもあるというわけです。

     ただし、次のように考えれば、違和感はなくなるかもしれません。すなわち、信徒たちはこの「使徒信条」やその他における「○○を信じます」という言葉を、実は神さまに対して言っているのではなくて、あくまでも教会の仲間たちに対して言っている、というふうに捉えるのです。神さまに対して「信じています」と言っているのではなく、教会の仲間同士で「私は神を信じているけれど、あなたも信じていますよね」「私たち、同じものを信じていますよね」と互いに確認し合って、宗教団体としての連帯を意識し、団結を強めることが真の狙いなのかもしれません。もしそうだとするならば、こうした「○○を信じます」という定型文を作って、皆で一緒にそれを口に出して唱えることの意義もよくわかります。

    「信じています」と言えば信者なのか

     しかし、また別の疑問も生じてきます。それは、ある宗教について誰かが「私は信じます」と自己申告をしたとしても、他人にはなかなかその真偽や程度を確かめることができない、という問題です。

     イエスが十字架にかけられて死んで以降、キリスト教徒はものすごいハイペースで増えていきました。新約聖書の「使徒言行録」二章四一節には、人々はペトロの言葉を聴いて、洗礼を受け、「その日に三千人ほどが仲間に加わった」とも書かれています。一六世紀末の日本でも、ザビエルがやって来てからのわずか数十年で何十万人というキリスト教徒が誕生しました。宣教師が一日で何百人にも洗礼を授けた、という話も残っています。しかし、そういった人たちは、そもそも、キリスト教というのがどのような宗教であるのか、その教義や信仰内容はどのようなもので、何を「信じ」るものなのか、本当にきちんと理解できていたのでしょうか。一六〜一七世紀にかけての日本では、まだ日本語訳の聖書は流通していませんでしたし、神学や教会史を学ぶ機会もほとんどありませんでした。日本語のつたない宣教師の説教くらいしか、その宗教について知る手がかりはありませんでした。では、彼らはいったい何を「信じ」たのでしょうか。とても不思議です。

     日本だけの話ではありません。ヨーロッパでは長い間、一般人の読めないラテン語訳聖書が使われていましたし、印刷機が発展する以前は聖書そのものが貴重品で、一般の信徒一人ひとりが聖書を所有して自宅でそれを読むことなどありませんでした。各国語訳の聖書が簡単に手に入る現代においてさえ、洗礼を受ける時点であの分厚い旧新約聖書をしっかり通読していたという人は稀でしょう。信徒になって一〇年がたっても、「三位一体(さんみいったい)」や「贖罪(しょくざい)」などの概念について正確に説明できる人は、実際にはけっこう少ないと思います。

     また、今でもいくつかの教派には「幼児洗礼」といって、赤ん坊や子供にも洗礼を授けることがあります。そうした子供たちは、自分はその宗教の教義をちゃんとわかっていない、ということさえよくわかっていません。しかし、それでも「信徒」にカウントされます。では、いったい「信徒である」とか「信仰をもつ」とはどういうことを指すのでしょうか。何を「信じ」ているのかさえよく知らなくても、とにかく自分は信徒だと称したり、この赤ん坊は信徒だと主張したりしさえすれば「信仰」があることになるのだといたしますと、それはけっこういいかげんであるようにも思えてしまいます。「信じています」とか「信仰をもっています」という自己申告そのものにどんな意味があるのかについても、よく考えてみる必要がありそうです。

    キリスト教徒は、本当に聖書を「信じ」ているのか

     キリスト教信仰においては、まず聖書の権威を「信じ」て、そしてそこに書かれている内容も正しいと「信じ」ることが大前提となります。しかし、キリスト教徒は聖書に書かれていることを本当にすべて「信じ」ているのでしょうか。実際の信徒たちを見ていると、はっきり言って、そのようには見えません。

     例えば、新約聖書の「コリントの信徒への手紙一」の一一章には、「男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります」と書かれています。聖書にそう書かれているのなら、実際の礼拝では男性は頭に何もかぶらず、女性は頭に何かをかぶっていそうなものです。しかし現在は、一部の人たちを除いて、ほとんどの女性は礼拝中に何もかぶっていません。逆に男性の聖職者で、頭に大きな帽子のようなものをかぶる伝統のある教派もあります。これは、いったいどういうことなのでしょうか。また、聖書のこの箇所のすぐ後には、「男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなる」と続いています。そう書かれているのなら、キリスト教徒の男性は髪を短くし、女性は髪を伸ばしそうなものですが、実際には、牧師や信徒にも長髪の男性はいますし、ショートヘアの女性もいます。これも、いったいどういうことなのでしょうか。

     つまり信徒たちは、口には出しませんが、内心では「聖書といえども、この記述はさすがにどうでもいい」と判断しているということになりそうです。信仰の基準である聖書においても、「まともにとりあわなくていい部分」、すなわち「信じなくていい部分」がある、ということになります。髪の毛とかぶりものに関するこの箇所については、もちろん聖書註解書を開けば、いろいろな解説がなされています。この記述の背後には、当時の身なりに関する習俗や慣習があるわけです。しかし、いずれにしても、聖書のなかで、現代人がちゃんと「信じ」て実践すべき記述と、適当に読み流していい記述(あまり「信じ」なくていい記述)とは、どうやって区別するのかが、どうもよくわかりません。

     こんなことを言うと、些末な部分であげ足を取るな、と言われてしまうでしょうか。では、人生においてもっと大事な「お金」に関する記述を見てみましょう。

    お金についての教えも「信じ」ていない?

     福音書のなかに、イエスがある人から「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」と尋ねられるシーンがあります。イエスは、彼の問いに対して、「殺すな、姦淫(かんいん)するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」といった掟を言います。すると男は、そうした掟はずっと守っています、と答えました。するとイエスは、「完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言い、そして「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と付け加えたと伝えられています。これは非常に有名な箇所なので、キリスト教徒でこの話を知らない人はいません。

     しかし、ヨーロッパの博物館や美術館などに行きますと、金銀宝石で作られた豪華な十字架や、同じく金銀宝石で装飾されたきらびやかな聖書カバーなどを目にします。ものすごく高価なものであろうそれらは、文化的な遺産としては貴重なものでしょう。しかし、そうした物品が、イエスの思想や言動とはまったく異質なものであることは確かだと思います。では、そうした豪華絢爛な十字架や聖書カバーをありがたがったり、あるいは莫大なお金を投入して巨大な大聖堂を建てたりした人たちは、当然キリスト教徒だったはずですが、彼らは聖書のこの箇所を「信じ」なかったのでしょうか。なぜそのお金を貧しい人々に施さなかったのでしょうか。彼らの信仰とは、いったいどういうものだったのでしょうか。

     これは決して、非難しているのではありません。私は美術品も教会建築も好きです。ただ、彼らが「信じ」ているものとは何なのか、彼らの「信じる」とはどういう意味なのかが、素朴に疑問なのです。

    むしろ「信じ」られない部分が必要なのか

     キリスト教徒たちは、「金持ちが天の国に入るのは難しい」というイエスの言葉を知っています。しかし、世界のキリスト教徒たちのほとんどは、本当にその言葉を「信じ」ているようには見えません。むしろ、できるだけ多く稼ぎ、人並みに愚かな贅沢をして暮らしたいと思いながら働いているのが普通です。自分は生活を保てるギリギリのお金があれば十分だと言って、残りは全て貧しい人たちに寄付をしてしまうという人など、ごく一部の例外を除き、ほとんどいません。信徒たちは、聖書の言葉を文字通りには実践できないことに内心では後ろめたさを覚えつつも、それはそれでいいのだと正当化する言い訳も用意しながら生きているわけです。こうした傾向は、平和や非暴力に関する教えにおいても顕著です。よく知られていますように、聖書には「敵を愛せ」とか「右の頰を打たれたら、左の頰も向けよ」と書かれています。しかし、それを文字通り「信じ」て実践するキリスト教徒はほとんどいません(戦争や暴力の問題については、第四章で触れます)。

     要するに、ほとんどの信徒は、その宗教の価値観を全体としては受け入れつつも、いくつかの教えについては実践したくないので実践しないわけです。実践できないような教えをなんとか実践できるように努力することもありますが、多くの場合は、いくつかの教えについてはまったく実践する気もないまま、それにもかかわらず、その宗教を全体としては受容しようとします。全てを実践しなくても「信仰」であり、全てを「信じ」なくても「信仰」である、というのが多くの人々によって営まれている宗教の現実だと言ってもいいのかもしれません。

     宗教というのは、倫理的教説にしても、奇跡物語にしても、それらを信じられないからといって、単に「信じられない」で終わってしまうものではありません。むしろ「信じられない部分」や「実践できない部分」があるからこそ、その宗教は人々の心や社会のなかに引っ掛かり続け、継承されるのかもしれません。私たちは、抵抗のないツルツルとした物はつかみにくく、多少ザラついていたりデコボコしたものの方がしっかりと握れます。宗教においても、一般の常識的感覚からすればザラつきをおぼえる部分、つまり「信じ」るのが難しい部分が必要で、それでもそれを握り続けようとするときに生じる摩擦熱こそが、宗教というものの体温になっているようにも見えます。

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