Tyranny of majority(熊谷 晶子)

トクヴィルは民主主義の欠点として「多数者の専制権力(tyranny of majority)」を指摘している。彼は「多数者の支配が絶対的であるということが、民主的政治の本質」であるといい、多数者の前には何者も無力で、少数派の声に耳を傾ける余裕も感じられないような事態は危険だと忠告している。世論が多数者を作り出す。立法団体も多数者を代表してこれに盲従している。執行権力も多数者によって任命される。警察は武装した多数者であり、陪臣は逮捕を先刻する権利を与えられている多数者、さらに判事たち自身も一部の州では多数者によって選ばれているという状況では、少数派は不条理に遭遇しても誰にも訴えられない。実際トクヴィルはこのような「圧制」が頻繁にアメリカで行われていたといっているのではなく、そのような「圧制」を防止する保障がないことを危険視していた。

5 thoughts on “Tyranny of majority(熊谷 晶子)

  1. shinichi Post author

    『アメリカの民主政治』

    by 熊谷晶子
    独立行政法人経済産業研究所(RIETI)

    https://www.rieti.go.jp/jp/special/2002_summer/kumagai_1.html

    『アメリカの民主政治』 A・トクヴィル著 井伊玄太郎訳 講談社学術文庫 (1987年)

    『アメリカの民主政治』表紙本書はフランス人貴族、トクヴィルによって約170年前に書かれたものである。王制から共和制へ向かう時代の流れの中、1831年、弱冠26歳のトクヴィルはアメリカの刑務所制度の研究をするという使命を受けて渡米、全国を精力的に旅行し、多くの著名人や一般の民衆からさまざまな話を聞いて回った。この経験を下に著された本書はトクヴィルの代表作の1つであり、彼は「アメリカにおいてアメリカ以上のものを見た」といっているが、民主主義そのものについての深い洞察が見られる。民主主義といっても単に政治学的な制度としてではなく、民主主義が知的運動、感情、風習(mores)に与える影響などが克明に描かれている。

    多くのトクヴィル研究者がさまざまな立場から彼に関する研究を行っており、トクヴィル学会があるのはもちろんのこと、トクヴィルに関するホームページのサイトもあれば「ネオトクヴィリアン派」などと呼ばれる政治学の一派もある。すでに有名な本著に学術的な批評をするつもりは毛頭ない。ただ、10代、20代のある時期アメリカで過ごした私は、外国人としてアメリカを観察した彼の視点に共感し、翻って外から日本社会を見る際の切り口をこの本から教わった気がする。トクヴィルが本書で記しているアメリカ人の国民性や社会のダイナミックさ、問題点は現代のアメリカに引き継がれている。

    私がアメリカに行って驚いたことの1つはアメリカ人が自分の住んでいる国や住んでいる土地に対して強い誇りを持っていることである。愛国心に関してトクヴィルは次のようにいっている。「ニュー・イングランドの住民たちはその共同体に強く執着している。けれども、それは彼らがそこで生まれたためではなく、彼らの一人一人が共同体の一部を構成していて共同体を統導しようとして払う苦労に値するだけの自由で強力な団結を、この共同体のうちに見出しているからである」。組織に属している人は自分の意思で組織運営に携わっているからこそ、その組織に強い関心を持つということだろう。さらに、トクヴィルは「地方分権の行政的諸効果ではなく、その政治的諸効果」に最も感銘を受けたと述べている。確かに大勢が参加すればするほど、物事を決定するのに要する時間がかかってしまう。それでも政治に参加することは最良の政治レッスンということだろう。アメリカ人はとことん議論するのが好きであるし、さまざまな活動に積極的に参加し、しかも楽しんでいた。トクヴィルはアメリカ人のことを「対談はできないが、討論し、談話しないが、論争する」と表している。日本人はどうだろうか。討論したり、論争したりする訓練をあまり受けていないので、そもそも何も議論しないか、喧嘩になってしまう場合もある。とことん意見を戦わせて違いを認識し、納得し合うプロセスが民主主義の第一歩なのかもしれない。

    また、トクヴィルは民主主義の欠点として「多数者の専制権力(tyranny of majority)」を指摘している。彼は「多数者の支配が絶対的であるということが、民主的政治の本質」であるといい、多数者の前には何者も無力で、少数派の声に耳を傾ける余裕も感じられないような事態は危険だと忠告している。世論が多数者を作り出す。立法団体も多数者を代表してこれに盲従している。執行権力も多数者によって任命される。警察は武装した多数者であり、陪臣は逮捕を先刻する権利を与えられている多数者、さらに判事たち自身も一部の州では多数者によって選ばれているという状況では、少数派は不条理に遭遇しても誰にも訴えられない。実際トクヴィルはこのような「圧制」が頻繁にアメリカで行われていたといっているのではなく、そのような「圧制」を防止する保障がないことを危険視していた。

    それにしても「多数派」は他でもない市民なのである。日本でも政と官の関係が問題になり、政治家の不甲斐なさを指摘する声も多い。また、マスコミの報道振りを嘆く人もいるが、代表を選ぶのは市民であり、メディアは多数の市民が好むものを提供しているのである。これらは市民のレベルを反映しているのである。しかし市民=衆愚ではない。情報化、グローバル化を利用してエンパワーされた新市民層が厚くなれば日本特有の民主主義も成熟すると思う。

    「北アメリカの地形」と題する最初の章では森林や大草原、イギリスの植民地が建設された大西洋岸などについて書かれている。アメリカはヨーロッパと全く異なる、恵まれた土地に生まれた新しい民主国家であった。トクヴィルは「諸民族は常に自らの起源を感知している。その出生にともない、そしてその発展に役立った諸事情は、その残りの全生涯に影響する」と述べている。トクヴィルは政治制度のみならず、アメリカ人の信仰心や感情、人間関係、女性の生き方、作法、新聞・ジャーナリストやお金に対する考え方など、社会学的な本質を詳細に観察し、民主主義がこれらの風習にどのように作用しているか、またこれらの風習が逆に民主主義にどのような影響を与えたのかを克明に描いた。さらに本書ではアメリカ人の持つ集団的な記憶が彼らの心理的な面に及ぼす影響をも分析されている。何度読み返しても新しい発見のある本である。

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  2. shinichi Post author

    トクヴィル「アメリカのデモクラシー」 「平等」であることへの執着

    by 大澤真幸

    https://book.asahi.com/article/11581558

     フランス革命が終結してから6年後に生まれた、フランスの名門貴族の息子アレクシ・ド・トクヴィルは、1831年に、アメリカで9カ月間の視察旅行を行った。このときの体験をもとに書いたのが『アメリカのデモクラシー』である。アメリカの政治家はしばしば、演説で本書の一節を引用する。
     26歳のトクヴィルは、アメリカ社会に衝撃を受けた。アメリカはデモクラシーの最も発達した国であり、デモクラシーこそ人類の共通の未来である以上、アメリカはフランスの未来である、と。日本人から見れば、革命によって絶対王制を倒し、人権宣言を発したフランスはデモクラシーの先輩だが、そのフランスに属する者が、アメリカに、自分たちとは異なる進歩的要素を見たところが興味深い。
     特にトクヴィルが強い印象をもったのは、平等であることへのアメリカ社会の強い執着だ。ここで言う「平等な社会」とは、無条件の不平等性がいかなる意味でも正当化されない社会という意味である。革命後も貴族制(アリストクラシー)の根を断ち切れないフランスとはまったく違っていた。
     あるいは、結社による社会活動が盛んなことにも、トクヴィルは驚嘆している。フランスでは、結社はたいてい特権集団であり、自由な職業活動の敵だった。ところが、アメリカでは、結社が自由を促進し、デモクラシーを補完している。
     宗教に対する感覚の違いにも注意が払われている。アメリカには、聖職者が公職に就くことを禁ずるなど厳格な政教分離の原則があるのに、政治の場に宗教的観念が浸透することをアメリカ人は少しも恐れていない。
     これらのトクヴィルの観察は、現在の観点から振り返っても実に的確だ。それだけになお、私たちは今日、より深い疑問の前に立たされる。たとえば、フランス人を賛嘆させたほど平等指向が強いアメリカに奴隷制や人種差別があったのはどうしてなのか。今日のアメリカに非常に大きな経済格差があるのはどうしてなのか。(社会学者)=朝日新聞2018年1月21日掲載

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  3. shinichi Post author

    2024年1月26日(金)

    トクヴィルが見たアメリカの民主主義

    今週の書物/
    『Democracy In America (Volume 2)』
    Alexis de Tocqueville 著、Project Gutenberg (Free eBooks):

    https://www.gutenberg.org/files/815/815-h/815-h.htm (Volume 1, 1997年刊)
    https://www.gutenberg.org/files/816/816-h/816-h.htm (Volume 2, 2006年刊)

    アレクシ・ド・トクヴィル(Alexis de Tocqueville)は、1805年生まれ。ウィキペディアには「フランス人の政治思想家・法律家・政治家。裁判官からキャリアをスタートさせ、国会議員から外務大臣まで務め、3つの国権(司法・行政・立法)全てに携わった」と書いてある。

    1789年から1795年にかけてのフランス革命、1804年から10年ほどのナポレオンの軍事独裁政権、その後 15年余りの王政復古、そして1830年の七月革命、1848年の二月革命。トクヴィルはナポレオンの軍事独裁政権誕生後に生まれ、混乱のなかパリ大学で法学学士号を取り、ヴェルサイユ裁判所の判事修習生になった。

    トクヴィルは 七月革命のあと 1831年から1832年にかけて、ギュスターヴ・ド・ボーモンと共にアメリカを旅行し、1833年にボーモンと共著で『Du système pénitentaire aux États-Unis et de son application en France – On the Penitentiary System in the United States and Its Application to France(合衆国における監獄制度とそのフランスへの適用について)』を出版。そして1835年に『De la démocratie en Amérique – Democracy in America(アメリカのデモクラシー)第一巻』を、1840年に『同 第二巻』を出版した。

    『第一巻』の出版のときに29歳だったトクヴィルは『第二巻』の出版のときには34歳。そのあいだに、結婚し、レジオンドヌール勲章(la Légion d’honneur)を受け、道徳・政治科学アカデミー(l’Académie des sciences morales et politiques)の会員になり、バローニュ選出の国会議員(le député)になっている。

    『第二巻』の出版後には、1841年にアカデミー・フランセーズ会員に選出され、1848年の二月革命の際には革命政府の議員として活躍し、1849年にはオディロン・バロー内閣の外相となった。ところが、1851年に ルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)のクーデターにより身柄を拘束され、以後政治の世界から身を引く。その後『回想録』と『旧体制と大革命』を書き残し、1859年に死亡した。

    とても濃い人生である。そして、すべてが特別だ。フランス革命があっても貴族は貴族であり、フランスに移民してきた平民階級のイギリス人の3歳年上の女性メアリー・モトレーとの結婚が家族から反対されたり、著作のなかの「貴族による政治の優位性」を説く部分が批判の対象になったりと、最後まで貴族であることから抜けきれない人生を送った。

    で今週は、そんなトクヴィルがデモクラシーのことを書いた一冊を読む。『Democracy In America 第二巻』(Alexis de Tocqueville 著、Project Gutenberg、1840年初版刊、2006年eBook刊)だ。なぜ『第一巻』でなく『第二巻』なのかというと、今の私の興味が「アメリカ」にではなく「デモクラシー」に向いているから、そしてデモクラシーと自由、平等についてのトクヴィルの考察をもう一度読んでみたいと思ったからだ。

    中身に入ろう。『第一巻』が「Book 1」から成っていたのと違い、『第二巻』は「Book 2」「Book 3」「Book 4」から成る。このうち「Book 3」の後半から「Book 4」にかけては圧巻だ。アメリカではじめて目にしたデモクラシー、自由、平等という新しい概念について、長い間ずっと考え続けた結果書かれた文章は、180年以上経った今も、読む者の目をくぎ付けにする。書かれたことは現在のフランスにも日本にもあてはまる。それは奇跡ではないか。

    貴族がいたそれまでのヨーロッパの社会では、個人の境遇が変わることなど、まずなかった。それが、トクヴィルの見たアメリカでは、デモクラシーのなかで、個人の境遇は常に変化する。これはトクヴィルにとっては大きな驚きだっただろう。そのせいか、デモクラシー、自由、平等についての考察はとても深いものになっている。

    トクヴィルが、デモクラシーの特徴として「多数者の専制(tyranny of majority)」を挙げているのはよく知られている。デモクラシーの本質は「多数者がすべてを決めてしまうこと」で、多数者の前には何者も無力であり、少数派の声は黙殺される。そんな状態を、デモクラシーはやすやすと作り上げてしまう。

    世論が多数者を作り出し。多数者が立法機関のメンバーを選ぶ。行政のトップも多数者が間接的に任命する。警察や軍隊も多数者の意を汲む武装組織となってゆき、裁判のもろもろのことにも多数者の意見が反映する。そんな状況では、少数派は不条理に対して何もできない。デモクラシーにはそんな危険が伴う。

    ところで、すべての人が平等であるというのは、どういう状態を言うのだろう。完全な平等などないにしても、デモクラシーの社会では、一人ひとりが自由になり、その結果、人は平等になってゆく。ところが、平等の度合いが高まると、人は自由でなくなってゆく。

    人が平等な社会は、人の境遇を不安定にする。「いいこと」は、得て間もないことばかり。しかも、いつ失ってもおかしくないことばかりだ。明日にはないかもしれないと思えば、今日持っていることを人にわかってほしいと思うのは自然の感情だろう。それを虚栄心と呼ぼうと呼ぶまいと、デモクラシーはそんな感情を呼び起こす。

    平等があたりまえになると、人は小さな不平等に敏感になる。特権に向かう憎悪は、特権が小さくなればなるほど増大する。すべてが不平等だった時には、どんなに大きな不平等も目障りではなかったが、平等のなかでは、ほんの小さな違いも目障りだ。平等を望む気持ちは、平等の度合いが増すほど大きくなってゆく。

    トクヴィルがアメリカに滞在し考察したアメリカの民主主義は、日本の敗戦によって日本に取り入れられ、トクヴィルが考えた通りの社会が日本に実現した。ここからは「Book 4」に書かれていたことのなかから、戦後の日本のデモクラシーを考えてみることにする。

    デモクラシーは、「多数決こそがデモクラシー」だと勘違いした人たちによって悪いかたちで社会に浸透し、先ほど書いた「多数者の専制」があたりまえの危険な社会になってしまった。議論が尽くされることはなく、少数派の声は無視され続けている。

    トータリタリアニズムの上に デモクラシーが重なって出来上がった社会は、穏やかだ。人々を苦しめることなく、貶める。自分たちは平等で、自分たちこそが主権者だと思い込んでいる人々は、見えてこない権力者たちがすべての権力を自分たちの手に収め、私的利益に干渉してきていることにさえ気づかない。

    人々のささいなことへの情熱、マナーの良さ、温和さ、教育の程度、純粋さ、道徳に裏打ちされた慎ましさ、規則的で勤勉な習慣、自制心などは、すべて美徳とされているが、その美徳が、権力者たちを守護神と錯覚させてしまう。

    抑圧の種類は、以前のものとは異なっている。大勢の人々が、みな平等で、同じように自分の人生を貪り、つまらない快楽を得ようと絶え間なく努力している。

    人々は孤立して暮らし、自分たち以外にとって見知らぬ存在になる。子供たちと友人たちだけが、人類全体を構成しているのだ。残りの人々が近くにいても、決して見ることはない。知ったり触れることがあったりしても、何も感じない。人々は、自分自身の中にのみ、そして自分自身のためにのみ、存在している。人々は、血族を失い、祖国を失ったのだ。

    権力者たちの力は絶対的だが、決して表には出てこない。その権威は親の権威のようなもので、人々を永遠の子供時代に留めおく。喜ぶことしか考えていない人々に喜びを与え、楽しみを促進し、主要な関心事に対処し、安全を確保し、必需品を予測して供給し、産業を指揮し、財産の降下を規制し、相続財産を細分化する。残っている仕事は、生きることの悩みを聞くことくらいしかない。

    デモクラシーの社会でこのように人々の管理が続けば、人々の自由や有用性は低下してゆき、自ら考え行動することの頻度は低下する。意志は狭い範囲に限定され、自分自身を利用するすべての手段は徐々に奪われてゆく。平等の原則は、人々に我慢することを覚えさせ、我慢を利益として見なす傾向を持たせる。

    人々は会社とか組織とかによって逐次強力に掌握され、形作られる。その後、権力者たちは会社や組織に腕を伸ばし、社会の表面を、細かくて、均一で、小さくて、複雑なルールのネットワークで覆ってしまう。

    最も独創的な心や最もエネルギーに満ちた個性がそれを通り抜けて出てくることはできない。それぞれの意志は打ち砕かれるのではなく、和らげられ、曲げられ、導かれる。人々が強制されて行動することはめったにないが、行動は常にを抑制される。力は破壊されるのではなく、存在を妨げられる。

    そんな社会を誰も圧政とは呼ばないが、人々を圧迫し、衰弱させ、消滅させ、呆然とさせ、ついにはみんなが臆病で勤勉な動物の群れに等しいものになり、権力者はその羊飼いになっている。

    トクヴィルが昔アメリカで見たように、規則正しく、物静かで、穏やかな、奴隷状態にある人々が組み合わされてできたような、そんな社会が、日本に出現したのだ。私が『Democracy In America 第二巻』に見たのは、まぎれもなく今の日本の姿だと、そう思った。

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