日本という異端児(立花聡)

今年は、私が日本脱出30周年。その間、アフリカのナミビアから北極のグリーンランドまで、61か国を回った。そうした中で、日本がいかに世界の異端児であるか、その本質を理解した。
異端児は問題ではない。問題は異端児であることを知らないことだ。自己中心の発想と妄想で虚構の世界を作り出し、自分の基準で行動している。自分の基準で行動することも問題ではない。ただ他に頼らず自給自足の資源が必要だ。しかし、それがない。この致命傷にも気づかない。
大方の日本人は、世界に無知であり、世界の中に存在する自分のことにはもっと無知であり、何よりも「無知の知」を持っていない。日本人は謙虚を美徳としているが、それが真っ赤な嘘。日本に対する批判に耳を傾けようとせず、相手には「反日」レッテルを貼ったりもする。
多くの日本人は日々、「日本凄い」に酔い痴れる。未だに「日本技術」を信じ込み、「日本文化」の発信に熱中する。日本は基幹産業の電機を失い、自動車産業も崩壊しつつある。そこでインバウンドの観光立国を夢見る。江戸前寿司が日本を救ってくれるとでも思っているのか。
はっきり言おう。ほとんどの外国人は日本文化に興味がない。物珍しさと安さで日本に殺到している。それだけの話。日本は、安い!物価も、不動産も、企業買収も、みんな安い。日本はバーゲン国家だ。当然、給料も安い。日本には、一旦崩壊しない限り、将来がない。30年前という早い時期に日本を脱出した自分は、いかに幸運だったか。
導いてくれた神様には、感謝、感謝、また感謝。

2 thoughts on “日本という異端児(立花聡)

  1. shinichi Post author

    日本脱出30周年、日本にまつわる雑感雑想

    by 立花聡

    https://www.tachibana.asia/?p=61905

    ● 日本という異端児

     今年は、私が日本脱出30周年。その間、アフリカのナミビアから北極のグリーンランドまで、61か国を回った。そうした中で、日本がいかに世界の異端児であるか、その本質を理解した。

     異端児は問題ではない。問題は異端児であることを知らないことだ。自己中心の発想と妄想で虚構の世界を作り出し、自分の基準で行動している。自分の基準で行動することも問題ではない。ただ他に頼らず自給自足の資源が必要だ。しかし、それがない。この致命傷にも気づかない。

     大方の日本人は、世界に無知であり、世界の中に存在する自分のことにはもっと無知であり、何よりも「無知の知」を持っていない。日本人は謙虚を美徳としているが、それが真っ赤な嘘。日本に対する批判に耳を傾けようとせず、相手には「反日」レッテルを貼ったりもする。

     多くの日本人は日々、「日本凄い」に酔い痴れる。未だに「日本技術」を信じ込み、「日本文化」の発信に熱中する。日本は基幹産業の電機を失い、自動車産業も崩壊しつつある。そこでインバウンドの観光立国を夢見る。江戸前寿司が日本を救ってくれるとでも思っているのか。

     はっきり言おう。ほとんどの外国人は日本文化に興味がない。物珍しさと安さで日本に殺到している。それだけの話。日本は、安い!物価も、不動産も、企業買収も、みんな安い。日本はバーゲン国家だ。当然、給料も安い。日本には、一旦崩壊しない限り、将来がない。30年前という早い時期に日本を脱出した自分は、いかに幸運だったか。

     導いてくれた神様には、感謝、感謝、また感謝。

    ● 富裕層の誤認

     「不知天高地厚」。――という中国の諺がある。「天の高さと地の厚さを知らない」輩がいかに馬鹿かという意味。日本へ来ている中国人観光客の下品さを嘲笑するが、そもそもそのレベルの中国人(大方)しか日本へやってこないのだ。モナコのVVIPカジノ、タンザニアのブライベートサファリ、カリブ海の貸切クルーズ、そうしたところにいる本物の中国人富裕層のことを知らないだけだ。

     カジノを例に挙げよう。富裕層誘致でカジノというが、モナコのようなリッチさ満点のカジノは、パチンコ大国の日本には作れない。カジノとは、一攫千金の賭博場ではなく、紳士淑女の社交場なのだ。大方の日本人には理解できない。カジノは上流階級の場所なのだ。パチンコ、日本的賭博場は、所詮下層階級ならず者の溜まり場だ。

     富裕層という概念の捉え方が歪んでいる。資産1億円を富裕層と定義する日本自体が三流なのだ。ゼロの1つ違っている。年俸1000万円、資産1億円など、そんなことを言ったら、ベトナムの富裕層にも笑われる。

    ● 中国に負けたことを認めない

     日本人に分かってほしいこと――。善悪・美醜=主観的価値判断、強弱・勝敗=客観的事実判断。弱い日本が強い中国に負けたという客観的事実判断から逃避し、自分が善美、相手が悪醜という主観的価値判断で自己欺瞞するその姿こそが、一種の悪醜だ。

     日本人ほど豹変する民族も稀有だ。鬼畜米英から米国の飼い犬に豹変するのと同じように反中から親中に豹変するのも一瞬だ。だが、この無節操さは見下される主因だ。私が把握する限り、中国の社会学の研究は既にこれを把握している。中国の反日言論・運動が萎えているのは、その価値がないと判断したからだ。米国を制せば日本などは一瞬にして崩れるからだ。

     しかし、日本人にはその自覚がない。

    ● 日本人のゾンビ化と日本脱出

     日本脱出について、某氏から寄せられたコメントを掲載する――。
     
     「1972年先代が中国の大連に渡り、50年。今中国でも海運港湾事業、物流事業、販売事業を束ねて社員数も2万人の規模になったのが弊社。中国の富裕層にも沢山の友人がいるのは、長く外資系金融で役員を務めて来た時からの仲間が多い。日本人だが、中国も良い国だと思っている。

     どちらが優先かと聞かれると、息子たちもアメリカで生活しており、国内には家内と三男坊。いつでも脱出することは考えているし、既にその準備は終わっている。

     今日本では、半導体の子会社を含め沢山の半導体仲間と日本の二次産業を復活したいとやっている。しかしほとんどの日本人はゾンビ化して、下らない政治の茶番で楽しんでいる。下らない!これを民主主義と呼んでいることに、日本人の馬鹿さ加減を感じてしまう。ノーと言えない日本人、目覚めることもないだろうが、自分を上流階層に上げるなら、客観的な思考を高めて海外へ行くべきだ」(以上転載)

     本質の洞察である。

     「失われた30年」という捉え方は、間違っている。成功は偶然の産物だ。戦後40年は、たまたま時と場所等の諸条件がそろって、それに日本人の勤勉さ、集団性・全体主義が適合したところで、急速な経済成長を遂げたのだった。歴史的に見てその40年は、偶然・非常態的な「得した40年」だった。

     その後の30年いや40年はむしろ、「常態回帰」にすぎない。得した40年と相殺すれば、ほぼ失われていない。参照点の置き方だ。今の日本は、元来の姿に戻っただけだと考えれば、平常心でいられ、悲観することもない。

     盛衰栄枯のサイクルがあるとすれば、日本の次の繁栄はいつやってくるのだろうか。諸条件を想定するうえで、欠かせない(必要)条件は、リセットモード、つまり「日本がいったん崩壊すること」だ。今の日本は崩壊しそうで崩壊しない、最悪の状態である。日本人はゼロからの出発に強い民族で、一度ゼロへのリセットが必要だ。

     ただ時期的に、それがいつやってくるかが見えない。だから、賢い人たちは、まずいったん海外へ脱出する。海外でしっかり基盤を作っておきながら、日本の崩壊と再生を待つ。というのが合理的な選択になる。

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  2. shinichi Post author

    善か悪かの単純二択と思考妨害、ヒトラー式帝王学は脈々と・・・

    by 立花聡

    https://www.tachibana.asia/?p=10492

     東條英機のことや、あるいは戦争について、単純に「善」と「悪」で規定するのは、大きな罠である。

     「戦争は善ですか」という質問には、「イエス」と答えられる人は世の中にいない。「戦争は悪だ」という定論が固定すれば、「戦争を起こした人間も悪だ」が成立する。「善」と「悪」という両側面だけしか存在しない、世の中はそんなに単純だろうか。

     もし東條は戦争を起こし、戦争を遂行した悪人だというなら、彼の身には善というものはまったくなかったのだろうか。もし戦争が誤だとすれば、その戦争には正というものはまったくなかったのだろうか。

     ここまでいうと、「あなたは戦争を美化しようとしている」という否定や批判の罵声が多分飛んでくるだろう。そこだ。「善」や「悪」という一括りの曖昧な巨大概念を用いて、物事を全般肯定、あるいは全般否定し、議論の進行を妨害する。なぜ議論してはいけないのか。もし、戦争が確かに100%の完全悪であれば、どんな議論してもその結論は覆されることがないから、堂々と議論させればいいのではないか。

     そもそも、善とは何、悪とは何、正とは何、誤とは何、それを誰が規定するのか、規定する人自身の善悪と正誤は誰が規定するのか・・・。このような基本的なアジェンダは哲学の基盤をなすものであり、それ自体の議論は紀元前から今日にいたるまでなお定論に至っていないことに気付くだろう。

     先日読み終えたヒトラーの「わが闘争」に、ヒトラーが彼自身のプロパガンダ手法について次のように論述している(主旨)。

     「物事の『多面性』には触れるな。その『多面性』の細分化は禁物。肯定か否定か、愛か憎か、正か不正か、真か偽かで決めればよい。物事の一部がそうで、残りは違うとか、というような『多面性』に触れるな」。その点において、ドイツ人が客観的にものを言う習性があり、これが欠点であるとヒトラーは説く。

     このとおり、物事の多面性を客観的に分析する細分化作業は、ヒトラーにとって極めて都合が悪いからだ。彼が望んでいるのは、肯定か否定か、愛か憎か、正か不正か、真か偽かといった、まさに単純な「善」「悪」の両極端であり、そこで彼の理論を「善」という一括りの概念に収めそれを絶対的正当化することである。誰もが反論するどころか、疑問提起の場すら与えられない。なぜなら、「善」に疑問を提起し、反対すれば即ち「悪」となるからだ。

     戦争の「善悪」分類それ自体が、ヒトラーの論法に酷似している。さらに、ヒトラーは彼のプロパガンダの方法論に踏み込んで次のように論述する(主旨)。

     「大衆の受容能力は非常に限定的で理解力は小さく、その分忘却力は大きい。大衆は頭の回転が遅いために、一つのことについて知識を持とうと言う気になるまでに、常に一定の時間を要する。したがって、もっとも単純な概念を1000回繰り返して初めて、大衆はその概念を記憶することができる。だから、大衆の心を捉えるには、ごくわずかなポイントだけに絞り、そのポイントをスローガンのように利用する。そのことばを聞けば誰でもそのことばが指す内容を思い浮かべることができるようにせねばならない」(高田博行「ヒトラー演説 熱狂の真実」参照)

     大変明瞭な論述だ。まとめると以下の4点になる――。

     ① 物事の多面性に触れないこと
     ② 多面的な物事を細分化して客観的に分析させないこと
     ③ 極論を提示し「善悪」の単純二択から選ばせること
     ④ ポイントを絞り、単純概念を繰り返す、繰り返す、また繰り返すこと

     日本における戦後の教育や世論においても、よく気がつけば、ヒトラー式のプロパガンダの手法が見事に生かされている――。戦争は悪だ。戦争は悪だ。戦争は悪だ。

     終戦後のアメリカはナチスが残した先端兵器の開発・製造技術を手に入れただけではない。ヒトラーのプロパガンダ手法まで受け継いだのではないか。誤解のないように、私はそのプロパガンダ手法を「悪」と分類していない。それはあくまでも一種のスキルだ。「善」も「悪」もない。ただのスキル、政治スキル、しかも、あらゆる統治者や支配者にとって必要なスキルであり、必修科目である帝王学の中核的内容ある。

     考える民が、支配者にとって常に不都合である。だから、思考停止の民が必要だ。すると、支配者は民の思考妨害に乗り出す。これは遡って紀元前から今日にいたるまでの世界史を見ても、不変の真理である。ヒトラーは単なる一実践者に過ぎない。そして時代や世界秩序が変わっても、その実践者の成功率は基本的に、ほぼ100%である。

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