愛と欲望(山本芳久、若松英輔)

 山本 アーレントは次のように述べています。「『愛』caritasと『欲望』cupiditasは、それぞれの追求する対象によって互いに区別されるのであり、追求の仕方そのものによって区別されるのではない」。
 ラテン語には愛や欲求を意味する単語が結構たくさんあります。アウグスティヌスは、それをうまく区別しながら議論を組み立てていて、caritasとcupiditasは代表的なものなんです。caritasはキリスト教的な愛ですね。それに対して欲望cupiditasとは、特にこの世的なものを自分のものにすることを意味する単語だと言います。
 若松 愛と欲望について、アーレントは、愛は「善きもの」を希求すると言います。さらに愛は、「善きもの」だけでなく、永遠なるものと人間を結ぶ、とも書いています。一方で、欲望は時限的なもの、永遠ならざるものを求めていくといいますね。
 山本 さらに彼女は、「人間とは、その人が追い求めるものにほかならない」とも言います。「『欲望の人』は、自らの『欲望』そのものによって消えゆく運命へと定められるが、他方『愛』は、追求される『永遠性』の故に、自ら永遠なるものとなる」とも。儚いもの、この世的なものを欲望する人は、自分自身が儚い存在であることになってしまうわけです。
 欲望=クピディタスが軸になっている人は、本当に求めるべきもの、探究すべきものを見失って、その代わりに雑多な、この世的なものにとらわれる。それを「好奇心(curiositas)」とアウグスティヌスは呼びます。現代では「好奇心」はよいものと言われることが多いのですが、キリスト教哲学、アウグスティヌス以来の伝統では、「好奇心」はよからぬものなのです。

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  1. shinichi Post author

    対談 若松英輔×山本芳久 危機の哲学

    文學界1月号

    https://books.bunshun.jp/articles/-/5948

    世界を覆い尽くそうとする「凡庸さ」に、理性はどのように抵抗すればいいのか。
    『キリスト教講義』のコンビが再び結集し、ハンナ・アーレントをはじめとする哲学者たちの言葉から叡智を汲み取る。


    アウグスティヌスとアーレント

     山本 前回の対談(文學界八月号)は、危機の神学というテーマで『新約聖書』の「ルカ福音書」から「善いサマリア人」のたとえ、『旧約聖書』の「出エジプト記」から「神の名」についてのテクストを紹介して、「危機の中でもともにいてくださる神」という神観が一貫しているという話をしました。また、半分ぐらいは、西ローマ帝国における蛮族の侵入という危機的状況を背景に執筆されたアウグスティヌスの『神の国』と、彼の個人的な危機についての有名な記述が見出される『告白』について論じました。

     若松 今回「危機の哲学」を語る上でも、アウグスティヌスはキーパーソンのひとりになると思っています。彼は、神学と哲学の間に立つ人であり、後世においてその両方に、さらには文学にまでも大きな影響力を与え続けた人でもある。

     さらに、今、彼の言葉を読むことが重要なのには、もう一つ理由があります。危機の時代にとても重要なのが、「凡庸なる悪」という言葉を残したハンナ・アーレントの哲学です。ご存知のとおり、彼女の初期の重要な仕事である博士論文が、『アウグスティヌスの愛の概念』(一九二九年)です。

     私たちは今、とても凡庸さが際立った時代に入ってきている。凡庸なるものへの対処が十分でないとき、あることを契機に容易に状況は「悪」に飲み込まれていく。「悪」は凡庸な事象を飲み込みながら肥大化していくというべきかもしれません。アーレントはそこに警鐘を鳴らした。彼女はこんな言葉を残しています。「〈より小さな悪〉を実行した人は、すぐに自分が悪を選択したことを忘れてしまう」(「独裁体制のもとでの個人の責任」『責任と判断』中山元訳)

     哲学は理性の責務だけではなく、理性の限界を探り当てようとする責務もまた担っている。しかし現代哲学は、人間理性の可能性をどこまでも追求し、理性で世界を覆い隠そうとしてきた。理性を超えるものを緩やかに排除さえしていった。その結果、人間の愚劣さが際立つかたちで残ったともいえる。

    『アウグスティヌスの愛の概念』の中心的問題にあるのが愛と永遠、さらには隣人の問題です。こうした主題を論究することは現代ではとても難しくなってきています。しかし、愛も永遠も隣人も、その重みはやっぱり変わらない。

     山本 アウグスティヌスはまさに、神学と哲学の接点にいて、両方に対して現代に至るまで大きな影響を与え続けている巨人です。哲学において、特に危機という観点から、彼が与えてきた大きな影響を見るうえで糸口になるのはやはり、『告白』の第四巻、親友が亡くなる箇所です。「この〔友を亡くした〕かなしみによって、私の心はすっかり暗くなり、目につくものはすべて死となってしまった」(山田晶訳、中央公論社、一九六八年)。その結果、「いまや、自分自身が、自分にとって大きな謎となってしまいました」。アーレントのアウグスティヌス論では、序文をはじめとして、この言葉が複数回引用されています。アウグスティヌスの原体験を取り出そうとすると必ずこの一文に行かざるをえない。

     この言葉についてはまた後ほど立ち返ることにして、まずは、アーレントの『アウグスティヌスの愛の概念』(千葉真訳、みすず書房、二〇一二年)における「愛」についての論述を見ていきましょう。アーレントは次のように述べています。「『愛』caritasと『欲望』cupiditasは、それぞれの追求する対象によって互いに区別されるのであり、追求の仕方そのものによって区別されるのではない」。

     ラテン語には愛や欲求を意味する単語が結構たくさんあります。アウグスティヌスは、それをうまく区別しながら議論を組み立てていて、caritasとcupiditasは代表的なものなんです。caritasはキリスト教的な愛ですね。それに対して欲望cupiditasとは、特にこの世的なものを自分のものにすることを意味する単語だと言います。

     若松 愛と欲望について、アーレントは、愛は「善きもの」を希求すると言います。さらに愛は、「善きもの」だけでなく、永遠なるものと人間を結ぶ、とも書いています。一方で、欲望は時限的なもの、永遠ならざるものを求めていくといいますね。

     山本 さらに彼女は、「人間とは、その人が追い求めるものにほかならない」とも言います。「『欲望の人』は、自らの『欲望』そのものによって消えゆく運命へと定められるが、他方『愛』は、追求される『永遠性』の故に、自ら永遠なるものとなる」とも。儚いもの、この世的なものを欲望する人は、自分自身が儚い存在であることになってしまうわけです。

     欲望=クピディタスが軸になっている人は、本当に求めるべきもの、探究すべきものを見失って、その代わりに雑多な、この世的なものにとらわれる。それを「好奇心(curiositas)」とアウグスティヌスは呼びます。現代では「好奇心」はよいものと言われることが多いのですが、キリスト教哲学、アウグスティヌス以来の伝統では、「好奇心」はよからぬものなのです。

     この「好奇心」は、世界への従属が言わば習慣化した状態を表わすと同時に、他方「自己自身から」分離して生き、自己自身を回避して生きようとする人間的なものに固有の不確かさと虚しさを示すものにほかならない。自己自身の前でのこのような逃避に対して、アウグスティヌスは、「“自己探求”」を対峙させた。(『アウグスティヌスの愛の概念』)

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