花のこころ(山本静山)

人間の世界には、ずいぶんとむだが多いように思えますが、そのむだが、なかなかたいせつなのです。
山へ登り、野にさまよい、または旅の車中から、ただ何とはなしに、あたりの風景をながめている。そのなにげなくながめているということが、数多く重なってゆくにつれて、自然の美しさ、草や木の在り方が、心の目に写されてゆくのです。そうして花を生けるときに、いつとはなしにそのことが、大きく役立っていることに気がつきます。おもしろいことです。

5 thoughts on “花のこころ(山本静山)

  1. shinichi Post author

    花を生けるとき

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    花のこころ

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    山本静山

    奈良の円照寺住職で山村御流の家元、山本静山の綴った花と心との過ごし方いろいろ。自然のままの姿と心は、「花は野にあるように」なにげない風情の中に活かすようにと諭されている。

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    1. Flower

      孤单一朵花
      草木相伴美
      孤独石一块
      遇水显灵性

      一盘一石
      一草一木
      鲜花一二
      巧装姿态
      取长补短
      各其所美
      各取所爱


      一生有花周围
      人人爱送献花
      花香优雅色艳
      献上一束爱慕
      献上一束道歉
      献上一束祝贺
      访客探亲献上
      出生来世献上
      婚姻宴会献花满
      死亡安息盖鲜花
      鲜花代表美心愿
      星星月亮我的心

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  2. shinichi Post author

    山本静山

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/山本静山

    山本 静山(1916年 – 1995年)は、日本の臨済宗の尼僧、華道家。

    子爵山本実庸の6女として京都で生まれる。俗名は絲子。5才で京都大聖寺に入り、のち大和圓照寺へ入山し、得度。伏見宮文秀尼・近衛秀山尼より仏学を修める。十世圓照寺門跡住職。また華道山村御流初代家元としていけばなの指導にあたった。

    著書
    『花のこころ : 奈良円照寺尼門跡といけばな』主婦の友社、1967年。ISBN 4079082258。
    『花のすがた : 円照寺山村御流のいけばな』主婦の友社、1973年。全国書誌番号:75042598。
    『花のむれ : 円照寺山村御流のいけばな』主婦の友社、1981年2月。全国書誌番号:81026594。
    『花のながれ : 円照寺山村御流のいけばな』主婦の友社、1992年10月。ISBN 4079386052。

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  3. shinichi Post author

    昭和天皇の妹君 謎につつまれた悲劇の皇女

    by 河原敏明

    文春文庫

    昭和天皇に隠された妹君がいた!この衝撃的な「三笠宮さま双子説」の真相を確かめるべく、皇室関係者百人近くに取材、月刊誌・週刊誌・TVで公表してマスコミの話題になった著者が、その後も調査を続け、「妹君」のおられる奈良円照寺を訪ね、面会もした上で、その検証の全てをまとめた。ミステリーの謎解きのようなドキュメント。

    目次 : 大正天皇の皇女/ 山村御殿・円照寺/ 証言続々/ 深まる謎/ 門跡の半生/ 貞明皇后/ 証言アラカルト/ 門跡身辺の話/ 門跡との一時間/ 里親は知っていた/ 双子説の確信

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  4. shinichi Post author

    三笠宮崇仁親王

    ウィキペディア

    https://ja.wikipedia.org/wiki/三笠宮崇仁親王

    「三笠宮双子説」をめぐって

    京都華族の山本實庸子爵の末子として育てられた奈良円照寺門跡・山本静山(1916年(大正5年) – 1995年(平成7年)、俗名・絲子)が、実は三笠宮の双子の妹だったと河原敏明が主張した。これは1979年(昭和54年)に『週刊大衆』に掲載された。宮内庁側は無視していたが、1984年(昭和59年)1月になって『週刊新潮』『現代』『フォーカス』で再度取り上げられ、今度は大きな話題となった。河原は、円照寺に住んでいたこともある末永雅雄が長井満に双子説を話したという情報を得、それをもとに関係者に取材を始めたところ、戸籍上静山の生母とされる山下志うの出身地・雄琴の身内が静山についてほとんど知らないこと、三笠宮の出産に立ち会った園祥子の実家である園家の26代当主園基久の証言、静山本人に直撃取材した際に母親の没年を間違え、父親の墓参にもほとんど行っていないこと、それと反対に皇族やその周辺とは親しい交流が長く続いていること、幼少期の静山の里親だった今井家の証言などにより双子説を支持し、記事化した(のちに『昭和天皇の妹君』として書籍化)。

    宮内庁は同年1月20日、この説を全面的に否定する声明を発表した。河原に対し、静山本人は直接「デマです」と否定し、また河原に有力証言者とされた末永雅雄は、証言そのものの存在を否定した。河原の「皇室が双子を忌み嫌う」「特に男女の双子は情死の生まれ変わりとして嫌われた」という主張に関しては、近代以降も伏見宮家の敦子女王と知子女王姉妹(1907年/明治40年生)が双子として誕生し、共に成長した事例があり、宮内庁も反証として挙げた。三笠宮夫妻も後年になって、『母宮貞明皇后とその時代 三笠宮両殿下が語る思い出』(工藤美代子著、中央公論新社、2007年)中のインタビューで双子説を否定した。

    なお、三笠宮の兄である高松宮宣仁親王による『高松宮日記』昭和15年(1940年)11月18日条には「15時30分 円照寺着。お墓に参って、お寺でやすこ、山本静山と名をかへてゐた。二十五になって大人になった」とある。円照寺は、高松宮が祭祀を継承した有栖川宮ゆかりの寺院である。山本静山が、高松宮から「やすこ」と呼ばれる特別な人物であったことが分かる。

    原武史は、①この高松宮日記の記述に加え、②『蘆花日記』大正4年(1915年)11月25日条および12月3日条、③『貞明皇后実録』昭和15年(1940年)9月30日条、ならびに④河原自身が、山本の誕生日(1月8日)と三笠宮との誕生日に1カ月あまりのズレがあることを認めていることを根拠に、山本は「崇仁とともに生まれた二卵性双生児の妹ではなく、嘉仁(大正天皇)とある女官との間に生まれた庶子ではなかったか」と推測している。

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