認識 ① 経済的な決定と言われる政策決定の多くは、政治的な決定である
…普通の市民が決定する権利があるものを、決定論的な歴史過程の結果であるように言いくるめる、反民主的な力が「経済の論理」の中に潜んでいる。
経済成長を止めるかどうかは、市民の選択である。客観的には選択であるはずのことを、前から決定されていたかのように切り替える力はどこから来るか?-経済システムだけが現実であるという「タイタニック現実主義」から。
認識 ② 民主主義は人々の団結の力であり、あらゆる権力の源泉は人々である
…今さらなことだが、我々はややもするとそのことを忘れがち。1,2年に一度、投票所に足を運べば民主主義はOK、ではないのだ。
また端的には、資本家を食わせているのは労働者であるということも、思い出す必要がある。
経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか
by C.ダグラス ラミス
http://www.amazon.co.jp/経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか-C-ダグラス-ラミス/dp/4582702279
海兵隊員として沖縄に駐留した経験を持ち、1980年から20年間にわたり津田塾大学の教授を務めた著者。その後は沖縄を拠点に執筆や講演を中心に活躍し、『憲法と戦争』などの著書がある。語り下ろしである本書は、タイトルどおりのテーマを「発展」「現実的」といった当たり前に使われる言葉とともに考え直していく過程が興味深い。
第1章で語られる「タイタニック現実主義」というたとえが、著者の現状に対する憂いをよく表している。もし、エンジンを止めたら仕事が無くなるから非現実的だとして、目の前の氷山に突き進むタイタニック号があったとしたらどうだろうか。環境問題、南北問題がなかなか改善されないこと、しかし実際には多くの人々がその原因には気付いていることを考えると、この世はまさにタイタニック号であるのかもしれない。第4章の「ゼロ成長を歓迎する」では、ゼロ成長を「エンジンの故障」ではなく機会ととらえ、経済以外の価値を発展させていく「対抗発展」が説かれる。
たとえば平和を口にする人間が理想主義者として嘲笑される。著者の憂慮するそんな傾向は確かにあるようだ。しかしそこで一歩進んで、現実的に考えよと説く人々にとっての「現実」を分析してみると、必ずしも大多数の人間にとっての幸福にはつながらない、つまり現実的ではない点も多いことがわかる。本書のターゲットは、主に漠然とした危機感を抱いている人々であるというが、むしろ自分は現実主義者であると自負する人こそ、本書に目を通してみるべきかも知れない。そこに生まれる論議こそ、実りあるものではないだろうか。
(工藤 渉)
弱い文明
la civilisation faible
http://civilisation2.web.fc2.com/32_Lummis3.htm
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第五章 無力感を感じるなら、民主主義ではない
ラミス氏が「ラディカルな民主主義」と言う時、その「ラディカル」とは、一般に政治的用語として使われている「急進的」「過激」という意味合いではない。言葉の語源そのままに、「根源的」「根本的」という意味である。民主主義はいつでも政治的に“ラディカル”である。そのことをいちいち確認しなければならないとしたら、私たちの世界、今生きている時代が、民主主義とは程遠い何かの中をさまよっている証左ではないだろうか。ラミス氏は言う。
「〔‥‥〕民主主義とは未来の政府、歴史的発展の自動的プロセスの終点として考える人たちがいるのは注目に値する。実際には、民主主義は政治支配としてはもっとも古い形態に入る。民主主義精神は歴史上しばしば民衆がそのためにたたかう瞬間に出現する。その到来を待つという方法で民主主義を達成しようとすれば、永遠に待つことになるだろう」
「民主主義は権力があると『感じる』ことではない。実際に権力を手にすることである」
「国家の宣伝というウソの下で抵抗もせずに生きている人びとは、権力の持ちようがない。食うか食われるかの競争は宿命であり、人間はそこから逃れられない、〔‥‥〕と信じている人びとには、権力の持ちようがない。制度が変われば、こうした精神状態にとらわれている人たちの膝元に権力がころがり込むだろうし、これが民主主義をもたらすというのは幻想にすぎない」
(引用はいずれも『ラディカル・デモクラシー』第一章より)
○その社会の基本的な構造・傾向を国民が変えられないのなら
-どこか別のところで決定されたものだったり
-なにか歴史の必然のように思わされたり
・・・すなわち「どうせ自分の力じゃどうにもならないんだ」と思わされるような、そんな政治を民主主義と呼べるか?
(原初に遡って・・・)
◆ デモクラシーの語源は、古代ギリシア語のデモス(民衆)+クラティア(集合によって生まれる力)
◆ 民主主義は本来 「直接民主主義」 - 「代表民主主義」 は本当に民主主義か?
アリストテレスは、選挙は貴族制だと言う ・・・ 選ばれるのは財産のある、有名人である貴族ばかりだから。
古代ギリシアでは、くじで代表者を選んでいた-合理的かつ直接民主的
・市民なら誰でも、代表になる心の準備、責任感が必要とされる
・選ばれたことを威張る理由がない
・同じ人が続けて選ばれることが稀なので、利権等によって堕落する心配が少ない
<選挙制が民主主義と呼ばれるようになったカラクリ>
1781年 アメリカの(のちに建国13州と呼ばれる)13の主権国家(state)の間の連合規約-今でいう国際条約にあたるもの
→それに対する反動が起こった…規約改正のための委員会により、強力な中央政府が各stateを統制する連邦主義(federarism)を柱にした憲法制定=「民主主義ではなく、共和制」←民主主義者は反対運動を起こしたが、つぶされた
○選挙によって、大統領という新たな国王を作るだけではないか
○平時に軍隊を持つのは、民主主義に対する脅しではないか 等々・・・民主主義は中央集権勢力に対する反対派の思想だった。
1830年代~ 参政権の制限緩和・・・平等とはすなわち(財産の平等ではなく)機会の平等であるという、無産階級への教育・馴致の完了を受けて⇒代表制は民主主義であるという認識が広められた。
<国家の三つの身体 - 政治的な身体 軍事的な身体 経済的な身体>
たとえ「政治的身体」が民主主義を標榜していても、
◎軍隊がある限り、民主主義国家とは呼べない。軍事行動・軍事組織、いずれも非民主的な行為、存在。(第二章も参照)
○経済的身体の中心である会社組織あるいは官僚制度も、軍隊組織の模倣である点で、非民主的である。つまり、民主主義と呼ばれる国の中に、相対的に自由で民主的な領域と、全体主義的領域とがある。
R.S. 同様に、民主的な運営がなされない政党が民主的に国を運営できるという幻想についても想起せよ。
そしてもうひとつ、
○暇がなければ民主主義は成り立たない。
●勤務時間以外の余暇・自由時間が、文化や公の領域-議論のための空間をつくる
↓
・そういう領域がおろそかにされるなら、国家の経済的身体は民主主義の足を引っ張っている。
・ ヨーロッパでは長らく(20c前半まで)、賃金労働は侮辱である(奴隷と同じ)という価値観が残っていた
◇ 歴史における最初の「労働者」は、16c以降の 囲い込み(エンクロージャー)運動 によって農村を追い出された人たちが、街に流入し、「産業化」の尖兵として働くことを余儀なくされる暴力的過程から生まれた…
◇ 後に列強の植民地においても、現地の住民を同じく「労働者」に変えた=「労働」という観念がない人たちに、それを強制した(近代ヨーロッパの発展を支えたのは、公にはされないこれらの強制労働だった)
◇ 現代に至るまで、今では一般的になっているこの長時間の労働形態を、誰もみずからすすんで選んだ例はない。誰もこんなに働きたくなかった。
<経済を民主化せよ>
社会主義の約束-経済の民主化はソ連・東欧その他で失敗
…だからといって社会主義が解決すべきだった問題そのものがなくなったわけではない。
認識 ① 経済的な決定と言われる政策決定の多くは、政治的な決定である
…普通の市民が決定する権利があるものを、決定論的な歴史過程の結果であるように言いくるめる、反民主的な力が「経済の論理」の中に潜んでいる。
経済成長を止めるかどうかは、市民の選択である。客観的には選択であるはずのことを、前から決定されていたかのように切り替える力はどこから来るか?-経済システムだけが現実であるという「タイタニック現実主義」から。
認識 ② 民主主義は人々の団結の力であり、あらゆる権力の源泉は人々である
…今さらなことだが、我々はややもするとそのことを忘れがち。1,2年に一度、投票所に足を運べば民主主義はOK、ではないのだ。
また端的には、資本家を食わせているのは労働者であるということも、思い出す必要がある。
個人の力=
a.経済的役割
b.政治的役割
c.文化的役割
それぞれの役割において変えていくこと-それはもはやイデオロギーや主義主張というより、サバイバルのための条件だ。
a. 職場内の自由を拡張すること(労働者としての取り組み)
消費者としてのふるまいに、(これまで述べてきた)新しい「常識」を採用すること
b. 政治活動への参加が当たり前になるよう、自分自身が「民主化」すること
c. 主流の文化は政治経済システムに組み込まれたものであると認識すること
(R.S …以上はもちろん、個々の取り組みがその後に続くための、大まかな前提だと思う。具体的にどうするか、自分で考え自分で実践してみること。正しいとか上手くいくとかよりも、各自トライすること自体が民主主義の価値を高めるのだから)
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第六章 変えるものとしての現実
本書のまとめ。このレジュメでは、「あとがき」で書かれていることも交えてまとめてみる。
○現代文明の中で我々が直面している破局の影
・ 死ぬ人間
・ 死ぬ生物種
・ 死ぬ生物圏
・ 死ぬ言語 ……
★ヴァーチャルな技術の発達が、我々が居られるもう一つの場所ができつつあるという幻想を助長している。
(R.S ネットに飛び交うデマの類ばかりではない。知識人の一部もしっかりそれに加担している。「高度資本主義が社会主義の課題を達成してくれた」などとのたまう吉本隆明。「湾岸戦争は起こらなかった」と真顔で言ってのけたボードリヤール。ボードリヤールはある意味正直だ。何かのインタヴューで、「私はヴァーチャルで生計を立てているのです」と言ったとか…)
○「正当な暴力」を独占する国家を単位として競争しながら、産業革命から始まった経済システムを世界の隅々にまで広げる
~第二次大戦までは主に「帝国主義」と呼ばれ、
~大戦後は「経済発展」と呼ばれ、
最近は「グローバリゼーション」と呼ばれるシステム化の波──
だが、人間が根源的に従属しているものは、タイタニックではなく、あくまでタイタニックが浮かぶ海という自然環境である。それを意識するのが本来の現実主義であるというパラダイムの変換が求められる。
○イデオロギーとは、それを選べばそれ以上考える必要がなくなるものだ
…近代以降、イデオロギーは「常識」の仮面をかぶっている。
だが、ある考えが「常識」になって覇権をとることと、その考えが人道的か、人間の解放につながるかどうかは別問題である。
今はもう、イデオロギーやその他のバラ色の考え方に逃げこむときではない。とりわけ
国家が信用できるとか、
政府が正義の体現者であるとか、
政治家が智恵を持っているとか、
会社の経営者が公共心を持っているとか、
軍隊が平和を守るとか、
そういうことを信じるような、子供だましのロマンティシズムのなかにいる時ではない。
今こそやらなくてはならないことは、想像上の世界ではなく、現実の世界について考えることなのだ。
○反原発運動にしろ、環境保護運動にしろ、反戦平和運動にしろ、それに参加するかしないかがイデオロギーの問題などである時代は終わった。問題は、破局の前に間に合うかどうかだ。
さらに、もっと厳しい認識も必要だ。パラダイムの変換が大きな災難を回避したとしても、もはや成り立つのは放射能つきのユートピアでしかないということ…傷だらけであっても、文化と自然の回復力を信じるしかない…
それすら失う前に、間に合うかどうか。
…あとがきで、ラミス氏は書いている。
著者の希望として、この本を読んだことで何かを失った、何かを奪われたと感じてほしい。読者が今後「考える代わりに常識で判断する」ことができなくなってほしい、と。