鉄眼禅師

このさとりをひらきて見れば、わが身はわが身ながら、
もとより法身の体にして、生まれたるにもあらず。
生れざる身なれば、死するという事もなし。
これを不生不滅といい、または無量寿仏という。
生ずると見、死すると見る、これをまよいの夢と名づく。

わが身すでにそのごとくなれば、人の身もそのごとし。
人間そのごとくなれば、鳥類畜類、草木土石まで、みなしからずという事なし。

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  1. shinichi Post author

    鉄眼禅師 仮字法語

    『第二章 色』

    【二の一】

    第一に、色というは、我この身なり。

    また世界の天地草木にいたるまで、形のあり、色のある物はみな、この色のうちなり。

    楞厳に、一切衆生無始よりこのかた、己にまよいて、物として、本心を失いて、物のために転ぜらる、といえり。

    【二の二】

    この意(こころ)は、一切万法はみな法身真如の体なる事を知らずして、かえって天地の中の万物と思いて、その万物の境界にまよいて、物のために、わが心を転ぜられて、さまざまの妄想を起こすという事なり。

    【二の三】

    また古人、法身は形殻のうちにかくるといえり。

    形殻とはこの身なり。

    この身は本より法身の体なれども、法身なる事を知らずして、わが身と思えるは、法身を見かくして、わが身と思い、わが身に迷いて、貪瞋煩悩をつくり、ふかく悪道にしずむなり。

    【二の四】

    本より法身の如来なるを、まよいて万物と思い、またはわが身と思うには、二重のまよいあり。

    【二の五】

    まず一重のまよいは、この身は、地水火風の四大を、仮にあつめて、つくりたてたるものなり。

    身の内の皮肉筋骨のたぐいは土なり。

    涙よだれ血などは水なり。

    あたたかなるは火なり。

    出入の息と、うごきはたらくは風なり。

    この地水火風をはなれては、わが身というべきものなし。

    ただ今なりとも命おわりて、地水火風もとにかえりぬれば、ただ白骨となりて、つゆほどもわが身とたのむべきものなし。

    かかるあさましき白骨を、わが身と思いて、千生万劫、このされこうべにつかわれて、地獄の業をのみつくりて、三途にしずみはつるは、おろかにあさましきことにあらずや。

    かかる地水火風の、仮なる身なることを知らずして、わが身と思いて、千万年も、死すまじきように思い、わが身ぞとかたく執着す。

    これ一重の、凡夫のまよいなり。

    【二の六】

    さてまた二乗は、凡夫よりも、智恵かしこきゆえに、この身は地水火風の、仮のものぞと、よく見あきらめて、この身をまことの白骨のようにみなし、身においてちりほども、執着の心なし。

    かつてこの身のために我執我慢をもおこさず、貪欲瞋恚をもおこさず、いつわりへつらいもなく、ねたみそしりもなし。

    かくのごとくのさとりはひらけぬれども、いまだこの身の、法身如来なることをしらず、これによりて、世尊、小乗とて大いにきらいたまえり。

    かの法身の当体をさとらざる故に、二乗の智恵にては、仏の内証、菩薩の境界は、いまだ夢にも見ず。

    これまた二乗の、一重のまよいなり。

    さきの凡夫のまよいとともには二重なり。

    二乗は法身にまようこと一重。

    凡夫は法身にもまよい、また二乗のさとりしところにもまよう故に、二重のまよいなり。

    【二の七】

    菩薩は、凡夫と二乗との、二重のまよいをこえて、この身をすなわち、法身如来と見たまう。

    これを心経には、色即是空、空即是色と説きたまえり。

    色というはこの身なり。

    空というは真空、真空は法身、法身は如来のことなり。

    さてはこの身すなわち法身、法身すなわちこの身という意なり。

    二乗は地水火風、本より法身の体なることを知らずして、地水火風は、非情の物なりと思えり。

    【二の八】

    菩薩の眼にて見たまう時は、地水火風、みな法身の真体なり。

    この故に楞厳には、性色真空、真空性色と説きたまえり。

    色というは地の事なり。

    性というは、この地は本より、法身の体なるゆえに性色という。

    性色なるゆえに、すなわち真空なり。

    また同じ経に、水を性水真空、真空性水ととき、火を性火真空、真空性火ととき、風を性風真空、真空性風邪と説たまえり。

    これもはじめの地のごとく、水すなわち法身、法身すなわち水、火すなわち法身、法身すなわち火、風すなわち法身、法身すなわち風という意なり。

    かくのごとくなれば、地水火風は、もとより地水火風にあらず、法身真如の妙体なるを、二乗と凡夫とは、まよいて地水火風と思えり。

    【二の九】

    もし地水火風、本より仏なる事をさとりぬれば、わがこの身、はじめより法身なるのみにあらず。

    天地虚空、森羅万象にいたるまで、みなことごとく法身の妙体なり。

    このさとりのひらけし時を、諸法実相ともいい、草木国土悉皆成仏ともいえり。

    【二の十】

    草木国土のみにあらず、虚空にいたるまで、法身の体なるを、まよいて虚空とおもえり。

    このさとりのひらくる時、虚空とおもいしもきえて、万法一如のさとりとなる。

    このゆえに、楞厳には一人真を発して、源に帰すれば、十方の虚空一時に消磒すととき、円覚経には、無辺の虚空、覚に顕発せらるともいえり。

    禅家には、大地平沈し、虚空分砕すといえり。

    また極楽を黄金の地とときたまうも、この事を凡夫のために、名をかえて説かれたり。

    【二の十一】

    このさとりをひらきて見れば、わが身はわが身ながら、本より法身の体にして、生まれたるにもあらず。

    生れざる身なれば、死するという事もなし。

    これを不生不滅といい、または無量寿仏という。

    生ずると見、死すると見る、これをまよいの夢と名づく。

    【二の十二】

    わが身すでにそのごとくなれば、人の身もそのごとし。

    人間そのごとくなれば、鳥類畜類、草木土石まで、みなしからずという事なし。

    水鳥樹林、念仏念法、念僧の声を出すと、弥陀経にとき、また十方の諸仏、広長の舌相を三千大千世界に出して、法をときたまうと、のたまいしも、この時のことなり。

    法華経の中に、諸法は本よりこのかた、つねにおのずから寂滅の相といい、または、法は法位に住して、世間の相は常住なりと、とかれたるも、みなこのさとりのひらけたるをのべられしところなり。

    よくよく坐禅工夫して、かかるさとりにかない、色蘊のまよいをこえて、法身実相の体にかなうべし。

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