四方の壁を見れば、是ぞ之れ、近世絵画家の尤も尊び模範となすべしといへる曇徴の筆痕なり。
蓋し、曇徴は推古天皇の朝百済国より帰化せしものにて、最勝王経の四方浄土を移し・・・着色にて描きしなり。
惜むらくは、堂内暗くして配色の妙・衣紋の精瞭らかに之を観る事能はず。
然るに希世の物品を撮影せん為め、図書頭に随行の小川一真氏は、ホッケットより一錫線を出し、之に点火すれば、堂内乍まち太陽を現じ光輝赫々、壁画の仏像は衣紋の皺襞、花蓋の小紋、隅から隅まで残る隈なく一見せり。
須臾にして錫線燃焼すれば、小川氏更に一粉薬を出し、板上に置きて之に点火すれば電光一閃、霹靂の声あるが如く、其火光は先の光力に十倍し、視神経の直射して外物を見る事なく、瞬時にして光り消たり。
這両薬は倶に夜間写真を採るの光線にして、麻倶涅臾母の原質に火綿を調和したる粉薬にて、其光力劇しく、秒時間に写真する事を得、鮮明なる事太陽の光線に劣る事なしと。
・・・銅仏の大なるもの、壁画を動かし難さもの等をも、意の儘に移し得たり。
法隆寺金堂壁画を調査した時の記事
日出新聞
明治21年 (1888年) 6月17日
近畿地方古社寺宝物調査
(写真はロシア皇太子が負傷した大津事件を伝える明治24年の日出新聞)
「日出新聞」記者 金子静枝と明治の京都
~明治21年古美術調査報道記事を中心に~
竹居明男編著
芸艸堂刊
345ページ、6000円
(写真は2013年11月に出版された本、『「日出新聞」記者 金子静枝と明治の京都』)
新刊・旧刊案内~「日出新聞」記者金子静枝と明治の京都・・・明治21年古美術調査報道記事を中心に
観仏日々帖
by 神奈川仏教文化研究所
http://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-46.html
(写真は日出新聞の記者、金子静枝)
(sk)
本になることなどあり得ない、マイナーな、ほとんどの人にとっては興味・関心の外といった内容の本。
日出新聞は、現在の京都新聞の前身。金子静枝は男。
芸艸堂
(うんそうどう)
http://www.unsodo.net/
宝の流出を止めた人々
東京新聞
私説・論説室から (桐山桂一)
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2014012202000161.html
幕末から明治初期にかけて、多くの美術品が日本から海外に流出した。仏像であったり、陶芸品であったり、浮世絵であったり…。国宝級、重要文化財級の品々もある。
排仏棄釈の政策が採られ、文明開化がうたわれた。西洋文明がどっと押し寄せた時代である。そのころ日本の伝統美を再発見したのが、岡倉天心やフェノロサらだった。
一八八八年から翌年にかけて、京都や奈良などを調査に回った。調査班の代表は、後の帝国博物館初代館長九鬼隆一である。
同行した記者に当時、京都で発行された「日出新聞」の金子静枝がいた。同志社大の竹居明男教授が古本市で偶然、金子のスクラップを手に入れた。どんな観点で古美術調査をし、どう評価を加えたかが、その詳細な記録でわかった。
金子の存在に驚いたのは、美術書出版で有名な「芸艸(うんそう)堂」の本田正明さん(82)だ。同社の名は文人画家の富岡鉄斎が付けたが、「雲錦堂」の時代もあった。
「父の本に金子静枝に『雲錦堂』と命名してもらったとありました。でも、何者かがわかりませんでした。国宝や重文の指定は、岡倉らの調査が契機です。彼らが国宝や重文の海外流出を止めたんですね」
金子の記録は、同社が刊行した書籍「『日出新聞』記者金子静枝と明治の京都」で読める。明治の空気が伝わる。