西山禾山

禅の心とは、日常生活そのもの。自然そのもの、あるがままということ。
毎朝起きて歯を磨き、顔を洗い、食事を頂くこと。「おはようございます」「こんにちは」などの挨拶や言葉遣い、掃除の仕方など、その時々にそのことを心を調えて行う。何も特別なことをしなくともいい。毎日の自分の仕事を一所懸命にすることなのだ。

One thought on “西山禾山

  1. shinichi Post author

    何かが違う

    by 新山玄宗

    http://www.myoshinji.or.jp/houwa/backnumber_2007/houwa/houwa_001257.html

     明治時代に全国的に活躍された愛媛県八幡浜市にある妙心寺派の名刹大法寺第十八世、西山禾山(にしやまかさん)老師は、「禅とは一体どんなものでしょうか」という問いに、
    「禅の心とは、日常生活そのもの。自然そのもの、あるがままということじゃ。
     毎朝起きて歯を磨き、顔を洗い、食事を頂くこと。『おはようございます』『こんにちは』などの挨拶や言葉遣い、掃除の仕方など、その時々にそのことを心を調えて行う。何も特別なことをしなくとも良い。毎日の自分の仕事を一所懸命にすることなのじゃ」と。
     まさしく特別なことは必要ありません。「其の本を務める」とはこのことだと私は思います。

     さて妙心寺派元管長・故山田無文老師は、禾山老師のことを評されて、
    「学識禅定共に兼備された禾山禅師の如きは、近世稀有なる大徳と言わねばならぬ。(中略)
     禾山禅師は粗衣粗食枯淡清貧に甘んじ、一生黒衣を以って通された。専ら妙心寺開山、無相大師の行履(行住坐臥、語黙動静、喫茶喫飯、立ち居振る舞いなどの一切の行為)を欽慕され、物来れば悉く他に施与され、室中寂然として一物の貯えも無かったという」と記されています。
     禾山老師には開山無相大師様の思いが常に根底にあったということでしょう。

     翻って今の私はどうだろうかと考えます。掃除、毎朝のお勤め、坐禅、そして日常生活をあるがままには過ごしています。でも何かが違うような気がするのです。
     粗衣粗食?たいした修行もしていないのに、「皆がそうだから。宗制で認められているから。規定の年数が経ったから」と恥ずかしげもなく立派な袈裟や紫の衣、それも正絹のものをまとっています。また、日常はオシャレな作務衣(作務衣はまだましか?)を着ています。また外食を楽しみにし、体重も順調に増えました。
     枯淡清貧?部屋にはエアコンが備えられています。外車や国産高級車ではないにしろ車を乗り回しています。 

     モノの豊かさの基準は個々に分かれるとは思いますが、飢餓貧困、自由にモノが言えない国々に比べてはるかに多く、現代日本人が甘受しているこの豊かな暮らし。この現実を踏まえた上で、自分のみは他に感化されず、開山無相大師様の粗衣粗食枯淡清貧をベースに、「其の本を務める」ことに精進してゆくべきなのか。それとも豊かな暮らしを享受していくことを受け止めて、自分なりの(基準は甘くなるとは思いますが)粗衣粗食枯淡清貧な「其の本を務めて」ゆくべきなのか。

     粗衣粗食枯淡清貧であった開山無相大師様の境涯に触れるにつれ、「何かが違う」と、考えさせられる日々であります。

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