法然

無智の身をもって、有智の人に対し、別行の輩に遇い、好んで諍論を致すを停止すべき事。
右、論議は、これ智有の有なり。さらに愚人の分にあらず。また諍論の処には、もろもろの煩悩起る。智者はこれを遠離すること百由旬なり。いわんや一向念仏の行人においてをや。

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2 Responses to 法然

  1. shinichi says:

    法然のことば

    by 寺内大吉

    論争の是非

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    知識のない者が有智の人に、それが念仏信仰がないからと言って、やたらに念仏の優越を強調する議論を吹っかけてはならない。

    こうした論議は仏教に関する知識を充分にそなえた者がすることで、愚かな者のすべきことではない。他人の弱点を衝こうとする行為は、さまざまな邪心煩悩が湧きあがってくる。ほんとうの智者はそんな愚かさを遠ざけるであろうし、いわんや知識を捨てて念仏ひとすじに生きようとする者はなおさらである。

  2. shinichi says:

    歎異抄 第十二章

    by 親鸞

    translated by 清 史彦

    http://www.oct.zaq.ne.jp/vows/tanni/tanni21.htm

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    かつは「諍論のところにはもろもろの煩悩おこる、智者遠離すべき」よしの証文候ふにこそ。故聖人(親鸞)の仰せには、「この法をは信ずる衆生もありそしる衆生もあるべしと、仏説きおかせたまひたることなれば、われはすでに信じたてまつる。またひとありてそしるにて、仏説まことなりけりとしられそうろう。しかれば往生はいよいよ一定とおもいたまうべきなり。あやまって、そしるひとのそうらわざらんにこそ、いかに信ずるひとはあれども、そしるひとのなきやらんとも、おぼえそうらいぬべけれ。かくもうせばとて、かならずひとにそしられんとにはあらず。仏の、かねて信謗ともにあるべきむねをしろしめして、ひとのうたがいをあらせじと、ときおかせたまうことをもうすなり」とこそそうらいしか。

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    さらに、「言い争うところには、諸々の煩悩がおこります。智慧あるものは遠ざかるべきです」という親鸞聖人の証文もあります。今はなき親鸞さまのおおせには、「この仏法を信じる人もあれば、謗る人もあるのが当然ですと、お釈迦様(仏)は説いて下さっていますので、私は既に信じ申し上げています。また、謗る人があるからこそ、仏のお説きになることが真実であると知られるのです。だから、往生(おうじょう=本当の生を生きて往くこと)はいよいよ定まっていると思うべきなのです。もし、ひょっとして、誰も謗る人がいなかったならば、どれほど信じる人があろうとも、どうして謗る人がいないのだろうかと、疑問に思われることでしょう。しかしまた、こう言ったからといって、必ず人に謗られるべきだと言うのではありません。仏はかねて、信謗ともにあることが当然だという道理をお示しなさって、私たちの疑いが無いように、説いておかれたことを申しているのです」と、おっしゃいました。

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