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足利義政は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍。
庭師の善阿弥や狩野派の絵師狩野正信、土佐派の土佐光信、宗湛、能楽者の音阿弥、横川景三らを召抱え、東山の地に東山殿を築いた。この時代の文化は、金閣に代表される3代義満時代の華やかな北山文化に対し、銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた「東山文化」と呼ばれる。初花、九十九髪茄子など現在に残る茶器も作られた。
勘合貿易を復活させ、経済交流と文化発展に寄与することとなった。勘合貿易の復活や、守護大名や側近の幕府官僚の財政再建策が功を奏して、義政の治世前半は義満の時代と並んで、幕府財政は安定期であった。だが、皮肉にも実権を奪われたことで政務への関心を失った義政はその成果を幕府の権威回復や民衆の救済にではなく、趣味の建築や庭園に費やしてしまい、応仁の乱後の財政難の原因を作ってしまった。その後、貿易の実権は細川家や大内家によって握られ、将軍家は経済的にも衰退した。
永井路子は、義政の先々代の足利義教の独裁と末路を考慮して、周囲の人々は義政を「死なぬように、生きぬように」お飾りとして育てた。義政の人格と治世は、そうした歪んだ教育の結果だと評している。史料に見える義政は将軍としてのスケジュールには従順であり、永井はそこから源実朝によく似た人物だと義政を評した。歴史学者赤松俊秀は、「無能の烙印を押すのは可哀想だ。将軍として立派に行動しようとしたが、結果は幕府の衰退という失敗に終わってしまっただけ」と評している。また赤松は「将軍でありながら、彼ほど『人に抑えられた』人物はいないだろう」と指摘している。

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2 Responses to ウィキペディア

  1. shinichi says:

    (sk)

    将軍としてはあまり良い評価をもらえない人が、畳の上での暮らしとか、わび・さびとかの始まりに、大きな役割を果たしたというのが、とても興味深い。

    立派な将軍にはできなかったことを、決して立派とはいえない将軍がしてしまう。

    なにが良いのか悪いのか、誰にもわからない。

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