永井俊哉

私たちは、現在、グローバル社会という、巨大なネットワーク社会の中で生きている。異質な人と人との自由な出会いから、この地球上では、絶えず新たなネットワークが生み出されている。そうした、グローバルなネットワーク社会の方が、例えば北朝鮮のような、グローバルなネットワークから孤立して、上から情報統制をしている社会よりも、競争力がある。北朝鮮の一般市民が貧困に苦しんでいるのは、決して、彼らが怠け者だからではない。むしろ、日本のフリーターなどよりも熱心に働いているに違いない。それでいて、彼らの生活水準が、日本のフリーターのそれに及ばないのは、彼らが、複雑系がもたらす技術革新の恩恵に浴していないからだ。
ボスザルならぬボス教授が専制支配する閉鎖的な研究室で、狭い専門の殻に篭って研究を続けていても、新しい知のパラダイムは生まれない。アカデミズムの人たちは、「地道な研究をこつこつ続けていれば、必ず成果が現れる」とよく言うが、ネアンデルタール人や北朝鮮の人々がいくら重労働に励んでも、飢餓から抜け出すことができなかったように、視野が狭ければ、研究者は知的飢餓状態から抜け出すことはできない。私が、意図的に様々な領域の学問を取り上げ、知の新しいネットワーク化を目指しているのは、知性とはネットワークを創発させる能力だと認識しているからである。

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One Response to 永井俊哉

  1. shinichi says:

    知性とは何か

    永井俊哉ドットコム

    https://www.nagaitoshiya.com/ja/2002/intellect-frontal-lobe/

    私たちが、人間と他の動物との間にある最も重要な違いと考えている属性は、高い知性である。しかし、知性が高いということは、具体的にはどういうことなのか。人はなぜ知性が高くなったのか。なぜネアンデルタール人が滅んだのかを考えながら、知性の本質を探ろう。

    1. 知性が高いとはどういうことか

    “知性 intellect”は、語源的には、ラテン語の動詞“intellegere”に由来し、複数の選択肢の“間から inter”“選ぶlegere”能力を意味する。ただし、選択の能力といっても、遺伝子にあらかじめプログラムされた本能は知性でない。知性は新しい選択の可能性を切り開く後天的な能力である。未経験の選択をするのだから、迷いはある。しかし、人間は、迷うからこそ意識を持つのである。だから、知性とは、意識を伴った選択の能力であると考えてもよい。

    もっとも、こうした内面的な定義は、動物とか古人類の知性を論じるときには、直接使えない。外から観測して知性を計量するには、どうすればよいだろうか。最も安直な方法は、頭蓋骨から脳容積を測定する方法である。世界史の教科書の類には、猿人:約500cc→原人:約1000cc→旧人/新人:約1500ccというように、あたかも脳容積の増大が知的能力の進化であるかのように記述しているものもあるが、もし脳が大きければ大きいほど頭が良いとするならば、人間は象やクジラよりはるかに頭が悪いということになってしまう。

    ならば、脳重を体重で割った値ではどうだろうか。この基準では、人間は、ネズミとかスズメとか、思わず軽蔑したくなるような小動物に負けてしまう。それなら、脳のしわの数ではどうだろうか。この基準では、人間はイルカに負けてしまう。「一番頭の良い動物」という人間の自尊心を満足させる指数を見つけることは、案外難しいのである。

    こうした難点を解消するために考案された指数に、EQ(Encephalization Quotient 大脳化商)がある。一般に脳重は、体重の三分の二乗に比例するので、そのトレンドからどれくらい逸脱しているかで、知性の度合いを測ろうというわけだ。この指数を計算してみると、ヒトのEQが全動物の中で最大となる。めでたし、めでたしである。しかし、EQをはじめとする相対脳重の指数にも問題がある。これらの指数を使って様々な動物の脳を調べると、果実を食べる一夫多妻の動物の相対脳重は大きいという結論が導かれる。果物をしゃぶりながら、愛人を愛撫しているオヤジを見て「知的」と感じる人がどれぐらいいるだろうか。

    そもそも、脳は、部位によって機能が異なるのであって、そうした質的な違いを無視して、脳全体の量的な大きさだけで知性を計測しようとする方法には限界がある。知性を司るのは、脳の中でも大脳新皮質であり、大脳新皮質の中でもとりわけ前頭連合野である。こうした部位がどれだけ発達しているかにも注目しなければならない。

    新皮質率、すなわち、大脳新皮質量を、新皮質を除く総脳重で割った値の分析から、面白い仮説が出されている。新皮質率は、群れの規模が大きくなるにつれて、高くなるというグループサイズ仮説である。社会のメンバーの数が増えるにつれて、メンバーどうしの関係の複雑性が増えるのだから、その複雑性を縮減するため、より高い知性が要求されるというこの仮説は説得力がある。しかし、群れの規模が大きくても、ボスザルとの関係だけが問題となるような社会では、高い知性は必要ではない。

    システム論では、社会的な複雑性を縮減する媒介者をコミュニケーション・メディアと呼んでいる。高い知性を育むには、ボスザルのような特殊な存在者ではなくて、言語のような普遍的存在者がコミュニケーション・メディアでなければならない。言語には、《いま・ここ》を超えた普遍性がある。その普遍性ゆえに、未経験の事柄に対しても、言語によって媒介された存在者は、選択を行うことができる。知性とは、言語の能力であると考えて差し支えない。

    一匹のボスザルが支配できる群れの大きさには限界がある。ホモ・ロクエンスである人間は、言語によって表現された法により、大きな社会集団を作ることができる。そして、法の壁を超えて、言語という普遍的なメディアを媒介にした交換のネットワークを広げることにより、社会の規模をさらに広げることができる。

    人間は、言語能力という点でチンパンジーとは大きく異なっているが、それ以外の情報処理能力に関しては、優劣の差は大きくない。では、ヒトがチンパンジーから分岐して、高い知性を発達させてきたのは、言語のおかげなのだろうか。答えは、この問いが遺伝子レベルでの進化についてのものならばノーであり、文化レベルでの進歩についてのものならば、イエスである。

    言語が文化レベルでの進歩に絶大な貢献を果たしたことは言うまでもない。言語のおかげで、私たちは、いちいちゼロから出発することなく、先祖の知を受け継いで、それを発展させていくことができる。だが、そうした言語の使用がDNAに変異をもたらしたことはない。将来、人類は、遺伝子操作により自らの身体を改造するかもしれないが、少なくともこれまでは、自らの知性を用いて人種改造をしたことはない。現生人類は、この1万年の間に、大いに文化を発展させたが、遺伝子的には、この数万年間、ほとんど何も変わっていないのだ。

    2. 道具の使用が知性を高めたわけではない

    なぜ人間の知性は高くなったのかに関して、世界史の教科書などは、いまだに「人間は直立二足歩行を始めるにつれ、自由になった手で道具を作るようになり、それによって知能が発達した」などという昔の定説を掲載しているが、このおなじみの定説は、今日大いに疑問視されている。ヒトは、直立二足歩行を始めてから、300万年間以上もの間、道具を作らず、その知性は類人猿レベルだった。ヒトが石器を作り始めたのは、250万年前頃なのだが、石器を作り始めたために、少しずつ知能が向上したというわけではなかった。

    今日広く受け入れられている進化論上の仮説に、断続平衡説がある。進化とは、小さな変化が長期にわたって少しずつ積み重なった結果なのではなくて、地質学的な尺度からすれば一瞬の出来事なのであり、大きな変化が起こった後はほとんど何の変化も起きない停滞が続くという学説である。この理論は、人間の進化を説明するのにも使うことができる。すなわち、脳の進化は、道具の使用によってもたらされたのではなく、突然変異的に偶然生じたと考えることができる。

    新しい形質は、偶然生じるとしても、淘汰圧に晒されるのだから、環境に適応した形質が優先的に生き延びることになる。ヒトは、喉頭の下降と吸気の抑制能力のおかげで、言葉を話すハードウェアができた。もちろん、言葉を話すハードウェアができたからといって、実際に言葉を話すとは限らない。むしろ、多くの猿人は、言葉を話すことなく、乾燥化と寒冷化という環境悪化の中で絶滅していった。そんな中、ホモ属の元祖であるホモ・ハビリスは、言語を用いたコミュニケーションにより、苛酷な環境を生き抜いた。

    ホモ・ハビリスに言語能力があったことは、その頭蓋骨の形状からわかっている。言語表現能力を担うブローカ領野と言語理解能力を担うウェルニッケ領野が発達していたことから、ホモ・ハビリスには、言語を使うだけの知性があったと考えられている。ホモ・ハビリスは、最初の石器文化の創始者とされているが、石器の使用は知性の結果であって、原因ではない。

    人間の知性の歴史において、ホモ・ハビリスの出現に匹敵する画期的な出来事は、現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)の出現である。現生人類の脳は、前頭連合野の著しい発達によって特徴付けられる。前頭連合野は、私たちが「人間的」と呼びたくなる高度な精神的機能を果たす脳の最高中枢部である。前頭連合野が大脳新皮質に占める割合は、猫で約3.5%、サルで約11.5%、人間では約30%である。これは、人間の知性の優位を明確に示す指数と言える。

    3. ネアンデルタール人はなぜ滅んだのか

    4.5万年前頃に中近東で現生人類が「文化のビッグバン」と呼ばれる言語革命・技術革新を起こし、同時代のライバルであったネアンデルタール人を絶滅へと追いやったのは、発達した前頭連合野のおかげだと考えてよい。ネアンデルタール人の脳容積は、現生人類よりもむしろ大きいぐらいなのだが、前頭連合野は、現生人類と比べると未発達だった。

    ネアンデルタール人の脳容積が現生人類よりも大きかったのは、彼らが、筋肉隆々・骨格頑丈な巨体を持っていたからである。遺跡の調査から、ネアンデルタール人は、現生人類よりも10倍も多くの石器を作っていたことがわかっている。また、重労働をさせると骨が太くなるということが、動物実験で実証されている。彼らの頑丈な体は、こうした重労働の結果であると考えることができる。

    では、ネアンデルタール人は、なぜ重労働をしなければならなかったのだろうか。遺跡の調査から、現生人類が、季節によって住まいを豊富な食料が得られる場所へと移動させたのに対して、ネアンデルタール人は、一年中同じ場所に留まっていた。このため、ネアンデルタール人は、現生人類よりも厳しい狩猟採取労働を余儀なくされた。ネアンデルタール人は、二重の意味でスマートではなかったのだ。

    アウストラロピテクス・アフリカヌス対アウストラロピテクス・ロブストゥス、あるいはクロマニヨン人対ネアンデルタール人など、やせてはいるが頭のいい類人猿の方が、多くの食料を必要とする筋骨隆々の類人猿よりも淘汰されにくいという傾向があるようだ。

    なぜネアンデルタール人は、季節ごとに、獲物がたくさんいる場所へと移住しなかったのだろうか。それは、彼らが、現生人類のように、家族を超えた交易のネットワークを持たず、情報が不足していたからだ。ネアンデルタール人は、小家族単位でしか暮らしていなかった。ネアンデルタール人の火打ち石の石器素材が、産出地から50キロメートル以上も離れて見つかる例がほとんどないのに対して、現生人類は、他の部族と、火打ち石、石器、装飾品などの交易網を確立していて、原材料は300キロメートルも動いていた。例えば、バルチック海沿岸産の琥珀が南欧のクロマニヨン人の遺跡で発見されたり、鮫の歯や海産の貝殻が、海から数百キロメートルも離れた内陸のクロマニヨン人の遺跡で見つかったりしている。

    ネアンデルタール人は、さらに、現生人類ほど洗練された言語を持っていなかった。そのことは、ネアンデルタール人の遺跡には、クロマニヨン人の遺跡に見られるような、象徴的能力を示す痕跡がほとんど残っていないことからもわかるが、人骨の形からも推定できる。ネアンデルタール人の頭蓋底部は、その祖先と考えられているホモ・ハイデルベルゲンシスと比べて、平べったく、喉頭は彼らよりも高い位置にあった可能性がある。これは、人類の進化とは逆方向である。また、ネアンデルタール人の声は、鼻にかかっていて明瞭ではなかったとか、一部の母音や子音を発音できなかったという説がある。

    ネアンデルタール人の言語が明晰でなかったことは、彼らが小家族単位でしか暮らしていなかったことと関係がある。今でもそうだが、家族内のコミュニケーションなら、以心伝心で事足りる。明晰な言語で、法律を作ったり契約をしたりするのは、コミュニティの外部にいる他人との関係においてである。クロマニヨン人が、明晰で複雑な言語のシステムを築き上げたのは、彼らが、家族を超えた交換のネットワークを持っていたからだ。

    4. ネットワークの創発が知性を発達させる

    言語の基本的な能力を司っているのは、ブローカ領野とウェルニッケ領野である。しかし、最近の脳科学によると、メタファーや創作といった、言語のイノベイティブな機能を担っているのは、前頭連合野なのだそうだ。連合野は、感覚野における個別的な情報処理能力を統合し、運動野につなげるという点で、ネットワーク化の働きをしていると言うことができる。その連合野の中でも、前頭連合野は、新しいネットワーク化を創作する能力を持っている。ネットワークの創発、これが知性を理解する上でのキーワードである。

    クロマニヨン人の脳の発達した前頭連合野は、新しい神経回路のネットワークを作り出し、交易の新しい社会的なネットワークを作り出し、それによって言語システムを複雑にし、概念の示差的なネットワークに革新をもたらした。この三つのネットワークの創発は、相互に無関係なのではなく、知性の発達という一つの本質の異なった側面に過ぎない。

    私たちは、現在、グローバル社会という、巨大なネットワーク社会の中で生きている。異質な人と人との自由な出会いから、この地球上では、絶えず新たなネットワークが生み出されている。そうした、グローバルなネットワーク社会の方が、例えば北朝鮮のような、グローバルなネットワークから孤立して、上から情報統制をしている社会よりも、競争力がある。北朝鮮の一般市民が貧困に苦しんでいるのは、決して、彼らが怠け者だからではない。むしろ、日本のフリーターなどよりも熱心に働いているに違いない。それでいて、彼らの生活水準が、日本のフリーターのそれに及ばないのは、彼らが、複雑系がもたらす技術革新の恩恵に浴していないからだ。

    ボスザルならぬボス教授が専制支配する閉鎖的な研究室で、狭い専門の殻に篭って研究を続けていても、新しい知のパラダイムは生まれない。アカデミズムの人たちは、「地道な研究をこつこつ続けていれば、必ず成果が現れる」とよく言うが、ネアンデルタール人や北朝鮮の人々がいくら重労働に励んでも、飢餓から抜け出すことができなかったように、視野が狭ければ、研究者は知的飢餓状態から抜け出すことはできない。私が、意図的に様々な領域の学問を取り上げ、知の新しいネットワーク化を目指しているのは、知性とはネットワークを創発させる能力だと認識しているからである。

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