中田勝康

禅宗で盛んになった水墨画では小さな紙一枚に宇宙を現した。庭園でも同様に方寸の地に宇宙を象徴した。坪庭は建物の間にある、暗くて狭い場所である。このような限られた場所に、禅の物語を盛り込む事は究極の抽象性が求められる。まさに現代抽象芸術だ。

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  1. shinichi says:

    夢窓疎石の遍歴と庭園

    禅庭園の起源と発展

    by 中田勝康

    http://muso.to/teienn-musounoniwa.htm

    1、はじめに

    庭園とは何か、中でも禅庭園はどのような背景から生まれたのか、が疑問である。しかし、庭園のガイド書は断片的な知識の羅列に近い。日本庭園は各時代の宗教の影響を受けていて、世界的にも稀な存在ではなかろうか。以下に試論を記述する。

    一般的には、心を癒す庭園は「緑があり、花が咲き、川が流れ、せせらぎの音がする」ではなかろうか。しかし、禅の思想によって出来た枯山水の庭は、そのような庭と異なり、ごつごつした岩肌の石と白砂による余白である。ではこのような世界的にみても類のない一見殺風景な庭が、なぜ気になり、鑑賞した後に充実感が残るのであろうか。そのためには禅庭の創始者である夢窓疎石(以下は国師)の足跡を辿ることにする。

    夢窓国師といえば、比類なき高僧として有名である。夢窓は臨済宗を全国に広め、南北両朝廷の天皇から崇敬を受け、また武士の世界でも北条家、足利家の政治顧問となり、武士道の根幹を教え諭した。しかし、後世彼を有名にしたのは、「禅の庭」を創造した、ことによる。しからば彼はどのようにして、西芳寺、天龍寺のような名園を造ったのであろうか、何の努力もせずに突然円熟した境地に達したとは思われない。修行の時代の自然との交流、庭への萌芽、草創期の庭、発展期の庭、円熟期の庭への変化のプロセスを考察する。最後に後世の庭への影響をみる。

    2、夢窓国師の歩み

    第一段階:自然との交流 (9才~39才)

    大自然の景勝地で修行し、造化の妙を体感。夢窓は禅門に入る前の14歳ころから富士山の見える大自然のもとで修行した。山頂からの景色はそれは壮大なもののようで、季節ごとに変化する造化の妙を感じたに違いない。人は壮大で美しい場所で修行する事は、修行の妨げにならぬであろうか。景色に見とれて精神が集中できるであろうか。自然のよさ、強さ、仕組みを知るには平凡な景色よりも、非凡な景色のほうが自然の本性が際立って見える。自然によって己が心を磨くには、自然の景勝地が良い。初めのうちは自然の偉大さに打たれ、感心し、納得する。その内に自然との交流が生じ、自然との一体感が醸成される。

    1、修行場所の条件
    ①眺望がよい (富士山遥拝など)
    ②渓流、滝、海岸など水の風景
    ③坐禅の場としての洞窟、坐禅石

    2、事例
    ①乾徳山での修行 (甲州9~18):禅宗の修行をする前から樹下石上で修行していた。特に少年時代の乾徳山での体験は心に焼き付いたのではないか。渓谷には清流が流れ、はるか遠くには富士山が望める。八右衛門に介抱された故事を鑑みても相当に気迫の入ったものであろう。大悟し、仏国国師より印可を与えられ、直ちに帰郷しての隠棲修行の地に、浄居寺、龍山庵を選んだのは、この地について精通していたからに他ならない。

    ②臼場 (常州31才):太平洋に面した古墳時代よりの横穴式古墳を坐禅窟とした。海岸には大海原の潮騒が奏でられていた。

    ③浄居寺 (甲州32才):乾徳山の麓で、渓流を遡ったところに、磐座状の巌がありそこから滝が落ちている。

    第二段階:自然の一部を変更=庭園の前段階 (40~55才)

      大自然の修行の場に、人工的に水を誘導し、滝を落とす。溜まった水を池とし、橋を架ける。修行の空間を人工的な造作で装飾した。この段階は現在我々が言うところの「庭」ではなく、大自然の中に中国の名所や禅語録に関連付けた風景を見出し、漢詩や和歌を朗詠したのではないか。以下に挙げた永保寺、瑞泉寺はその条件に適っている。

    1、条件
    ①自然の中で眺望の良い場所に、亭しゃ、坐禅窟 (石)を配置し、川から水路を導入し、池や滝を設えた。

    2、事例
    ①永保寺 (多治見40才):梵音岩といわれる、磐座状の巌へ水路を作り、滝を落とし、池とした。この風景を坐禅石から眺めると土岐川に囲まれた聖地に観音堂、無際橋が建つ。有名な坐禅石は五老峰と名づけられた峰の中腹にあるが、その由来は中国の廬山のそれであり、坐禅石は錦繍谷の「天橋」を思わせる。夢窓は中国に行っていないが、渡来僧から中国の聖地に関する情報は得ていると思われる。

    ②瑞泉寺 (鎌倉53才):乙女洞の前の岩盤を穿ち中島を彫り出し、坐禅窟の上部には溜まり水をためて貯水池となし、来訪者があれば堰を切り滝とした。また、坐禅窟の横からは九十九折れの坂を登り山頂に至ると亭しゃがあり、そこからは富士山、相模湾が望める。このような二段構成は、以後洛中において南禅寺、西芳寺、天龍寺へと引き継がれていく。

    第三段階:初期段階の庭=草創期 (56~59才)

    小さな空間に大自然の要素を再構成する。自然の風景を小規模な場所に取り込むのであるが、自然の要素をすべて取り込むことは、実際上不可能であるし、意味がない。では何を、どのように取り込めばいいのか。夢窓は考えた、自分がかつて大自然のもとで修行した際、自然から感銘を受けた要素は何であったろうか。自然の本性を体得する事にあったのではないかと。抽象的な言葉で書けば、以上のような事であるが、具体的には何をどの程度行うのか。試行錯誤の末、恵林寺になったのではなかろうか。

    1、条件
    上記のような大自然の景勝地に、造作をするのではなく、比較的平凡な場所に水を引き、滝を造り、島を造った。夢窓が本格的に庭といえる空間を造り出した初めてのもの。

    2、事例
    ①清白寺:川の石により、滝や亀島を造った。比較的単純な構成。

    ②西川家:雌雄の滝があり、雄滝の池は横長く甲州地方の特徴をなしている。一方雌滝の水流は上述の滝と平行して流れとなっている。このような地割は、恵林寺のそれと似ている。夢窓といえども、いきなり恵林寺のような複雑な構成の庭が出来るとは思えない。その前段階として、西川家の庭が存在すると考える。

    ③古長禅寺:この寺には若かりし頃の夢窓の像があり、樹齢700年になる柏槙が聳えている名刹である。「年譜」に記載されていないので、注目されにくいが、庭園の地割は古典的な形で、西芳寺、等持院、南禅院のようである。但し護岸や島の際の石積みの単調なのが気になる。

    ④恵林寺:夢窓が56才のとき二階堂氏のために造った。はっきりと国師が造ったとされるはじめの庭である。但しこの庭で注意しなければならないことは、江戸時代に柳沢吉保親子が相当の改修をしている事である。本堂の前にある島などは、全く夢窓の息遣いが感じられない。全般的には、柳沢家の改悪工事によりかなり矮小化されてしまった。しかし、雄滝と築山の須弥山(しゅみせんーカイラス山を象った)は、相当にしっかりした構成だ。特に雄滝の左右には2mを越す石が直立している。滝(龍門瀑であったか)や須弥山を庭に取り入れることは、単なる縮小した自然の写しではなく、人間社会の象徴性が込められている。単なる自然の縮小コピーであれば、自然にかなうはずもなく、面白くもない。自然ならばいくらでも周囲に充満している。抽象性を採用した事で、初めて人間の知性が価値を帯びる事になった。国師といえども、始めから恵林寺のような迫力のある庭造ることは不可能であると思う。上記清白寺、西川家または古長禅寺のような、小規模な庭で造園のポイントを研鑚、習得されたのではなかろうか。

    第四段階:大自然の再構築=青年期 (60~64才)

    比較的狭い場所に象徴性を加味した庭を完成。以後、円熟期の作品の予兆を読むことが出来る。夢窓が造った庭としては、56才の恵林寺と65才の西芳寺、天龍寺とである。恵林寺の庭は後世の改修が甚だしく、夢窓らしさを読み取り難い。一方、65才で最高傑作を造ったのも事実である。しかし、凡人的発想であるが、60才くらいで西芳寺の前兆といえる作品がないだろうか。私は推察では、それは南禅院の庭ではないかと思う。その理由は以下のようである。

    1、条件
    ①大自然の中に造るのではなく、京都などの都市の中に自然の再構築を試みた。
    ②山裾を利用し、小さな空間でも背後が見えず、山居の佇まい。
    ③山の頂きに眺望の良い亭しゃを築く (鎮春亭)、青年時代の修行道場が眺望の良いところにあったことを連想させる。

    2、事例
    ①南禅寺
    ・南禅院 (京都60才):西芳寺や天龍寺の原型を完成した
    ・水を引き、滝を落とす (天龍寺の龍門瀑に似ている)
    ・池を穿つ (西芳寺的)
    ・坐禅石を配置した (西芳寺の坐禅石と酷似)。

    第五段階:精神性の高い象徴の世界=円熟期 (65~70才)

    象徴性の高い大庭園を造った。夢窓は機会を得て大庭園を造ることになった。天才はビックチャンスを呼び込み、成功する。以下両庭園とも、作庭記風の神仙蓬莱、極楽浄土の大庭園があった。これを新たな文化である禅宗の価値観に基づいた庭園に昇華した。自然の風景を活かしつつ象徴性の高い庭にした。

    禅の思想に基づいて、仏典、禅語録を意味する石を組んだ。一つ一つの石が禅を象徴していれば、具体的な形をしていなくても、想像すれば限りなく豊かな意味を表すことになる。そのためには、禅の素養に基づいた、心の目で感ずればである。

    ①西芳寺 (65才から)
    ・象徴性の高い枯滝 [龍門瀑と楞伽窟(りょうがくつ)]三段構成の龍門瀑は有名な登竜門の故事に基づく。楞伽窟であるが、釈迦が修行すべき場所として、山林の樹下や巌穴の中、粗末な庵や墳墓の間など草窟や露地にすべきとしている。更に修行の仕方は三段階に分けて行い、未熟なものでも先輩の修行を見習いながら行うのが良い、とした。事実この洪隠山には秦氏の古墳群がある。釈迦の経典のごとく塚の間で修行した。ここの枯滝には古墳であった石を使っていると思われる。古来墓は怨霊を閉じ込めるものであるのだが、夢窓は気にしないどころか、積極的にこの石を使ったのだろうか。

    ・熊秀才の故事に基づいた向上関から縮遠亭までの通宵路。
    ・「碧巌録」の「忠国師無縫塔」より無縫塔、瑠璃殿、湘南亭、潭北亭、黄金池、合同船などの堂舎、名称は名づけられた。
    ・修行の場としての坐禅石は、慕ってやまない亮座主に因んだものであり、永保寺のそれを思い起こさせるものだ。
    ・坐禅石の傍らの泉は龍の潜む龍淵水である。

    登龍門の故事:「碧巌録の第七則 法眼、慧超に答う」に三級浪高魚化龍 (三級浪高くして魚龍と化す)
    楞伽窟の故事:「大乗入楞伽経」に「樹下及び巌穴 野屋と塚間 巣窟及び露地」

    ②天龍寺 (65~70才)
    ・広大な池には鶴島も亀島もなく、真正面に峨峨とした渓谷から激流が流れ、龍門瀑をほとばしり落ちる。その滝を後醍醐天皇を象徴した鯉が最初の難関の滝を登りきり、これから最後の滝を登り、その先にある観音の世界に達しようとしている。将に龍にならんとしている寓意性の高い構成である。

    ・この庭は龍にならんとする後醍醐天皇を祭る。よって龍門瀑には鯉魚石があればよいのであって、修行の場としての坐禅石とかの構成物は不要である。一方、亀山には亀頂塔を建てたが、その傍らには坐禅石といえる形の良い石がある。この場所からは東山、大井川、嵐山が望める。瞑想にふける場所として坐禅石を設定したのではなかろうか。

    「五灯会元 夾山」より
    猿は子を抱いて青嶂の後ろに帰り  鳥は花をふくんで碧巌の前に落つ

    第六段階:変幻自在の世界に遊ぶ (70~77才)

    象徴の世界に遊ぶ。小さな坪庭でも、目を閉じれば宇宙が感ぜられる。そこには木の葉の水滴や岩から染み出した水滴がやがて小さな流れとなり、峡谷に至ると巨大な巌を打ち砕くような激流になる。峡谷の上にはつり橋が架かり、洞窟の前では紅葉を焚いている。やがてこの奔流も里に下ると、百姓が田に水を引き、牛に耕させている。やがて、ゆったりとした大河は大海に注ぐ。

    ①臨川寺 (京都嵐山)
    ・この寺は国師自身の私的な場所であり、いわゆる蘭若 (らんにゃ)であり、広大である必要はなく、権力者に遠慮する事もなく、説明的である必要もない。あるのは自由な境地である。

    ・今となっては想像するしかないが、桃山時代まではあったが、その後廃れてしまい、最近の道路建設でその遺構すらも破壊されてしまった。痛恨の極みである。

    ・ただ唯一残っているのは夢窓国師の墓所である蓮華石である。

    ②運居庵(うんごあん) (天龍寺)
    夢窓最晩年の作品である。この庭については川瀬一馬氏の名著「禅と庭園」 (181頁)の中で失われてしまったことを返す返すも悔やんでいる。例えば「………ゆったりとした広やかな感じで、国師にとっては単なる一小天地ではなく、大自然の豊かな広がりを蔵する造園として、国師最後の幽棲の禅居の営みにおける意味は大きいと思う。………」である。確かに寛政年間発行の「都林泉名勝図会 下」秋里籬島著 講談社学術文庫 210頁に、岩組み、横長の池、嵐山が描かれている。この図版でみる限り、日本庭園の最高傑作である。但し、夢窓や雪舟などの伝承がないのが不思議である。

    3、後世への影響

    3.1、足利将軍家の大庭園

    足利時代は発生時点から夢窓との関係が深い。将軍の庭なので禅の庭とはいえ、山水に恵まれた地、広大な敷地に豪華な庭が造られた。

    ①鹿苑寺 (金閣寺)
    夢窓が亡くなってから、約46年経ってから造られた。夢窓に関する記憶が色濃く残っている時代だ。龍門瀑の滝は三級岩で象徴され、鯉魚石は将に飛翔せんとする鯉と遊泳中の鯉が二匹いる。その他、碧巌石、観音石、猿石が揃っている。また、その傍らには西芳寺を倣って坐禅石と泉が対で配置されている。これだけ一セットで禅の物語が揃っているのも珍しい。しかも常に一般公開している。尚、金閣寺は西園寺公の館であったところを義満が譲り受けたものである。それゆえ入ってすぐに目の前に広がる庭は平安時代からあったものである。

    ②慈照寺 (銀閣寺)
    夢窓が亡くなってから138年経ってから造られた。足利義満は20回近く訪問し、西芳寺の美を吸収しようとした。鹿苑寺(金閣寺)は元からあった貴族の庭を禅風に一部改めたのであるが、慈照寺は始めから禅寺の西芳寺や天龍寺を倣ったものなので、かなり忠実に夢窓の思想に近かったと思われる。上段の漱蘚亭跡前の相君泉と上部岩組みは西芳寺の龍淵水・坐禅石と洪隠山枯滝を倣っている。しかし、ここは修行の場としてではなく、漱蘚亭から鑑賞するための場となっている。この頃になるとお茶に関する美意識が先行して、禅の要素は薄れてきている。

    この庭が、やや精彩に欠けるのは、下段にある洗月泉には有名な藤戸石があったが、細川氏綱邸に持ち出され、更に二条御所、聚楽第、最終的には三宝院に移されたからだ。その他に九山八海(くせんはっかい)石も持ち出され、現在行方不明。当然に龍門瀑と思われる鯉魚石も持ち出されてしまった。

    3・2、禅寺・塔頭(たっちゅう)の小規模な枯山水

    禅宗が発展するに従い、塔頭が増えたため、市街地にある寺の敷地は必然的に小さなものになった。その小さな場所に極限的な禅の庭が発生した。夢窓国師の影響である。現代の我々の生活にも密着した坪庭が発生した。ここでは、方丈の北側にある庭園と南側の庭園、坪庭に分けて考える。

    この庭は上記のような大庭園ではなく、比較的小さな庭だ。しかし、小さいからこそ、一石一石が禅の物語を象徴してい。方寸に世界を見ているのだ。まさににここにこそ、禅の庭の真骨頂があり、現代にもその精神が受け継がれているのである。

    ①方丈北側の庭園
    この部屋から北東に位置する、限られた空間に石組、植栽、白砂のみで、深山幽谷の世界を現した。
    ・大徳寺・大仙院(革新的な枯山水の出現)
    角張った岩組みが龍門瀑、不動尊、観音を象徴している。深山幽谷の枯滝はやがて大河となり方丈を取り巻いている。作者の古岳宗亘は大徳寺76世住持となったが、碧巌録の著者である宋の圜悟克勤(えんごこくごん)に傾倒したそうだ。その彼が、禅の思想を基に枯山水の庭を創作した。一見殺風景に見えても、象徴の世界に遊ぶものにとっては果てしなく広がった世界が展開する。

    ・酬恩庵(一休寺)
    一休が晩年過ごした寺である。師を偲んで江戸時代に造ったものであるが、迫力満点。上記同様禅の世界が横溢している。

    ②方丈南側の庭園
    方丈の南庭は一般的には白砂である。禅寺において公式な儀式を行う神聖な場所だ。このような場所に、石組みを行うようになったのは、いかなる時代背景があるのだろうか。重森は著書「枯山水」で次のようなことを述べている。「方丈や庇が大きくなり、建屋の中で儀式が行われるようになった。よって白砂部分に岩組みが可能になった。もし白砂部分が必要なときは、水や植栽がないため、石を移動すればよい」。

    ・妙心寺・東海庵
    白砂に、たった一つの手水鉢があれば、禅の庭だ。濡れ縁に座って塀の奥にある仏殿、法堂を眺めれば最高である。まだ体験していないが、月の出る夜にゆっくりとその空気を味わいたいものだ。

    ・龍安寺
    白砂に五、二、三、二、三石が配置されている。室町時代は余白の文化である。水墨画、連歌、茶、香、花など。庭はいわば白砂のキャンバスに立体的な水墨画を描いたもの、といえる。最近、石の劣化を防ぐために石に付託した苔を除去した。すると従来では判らなかった、石の表情が見えてきた。それぞれの石は遠方から運ばれた名石ぞろいである。いわば全体が盆石ともいえる。室町時代の美意識を垣間見る思いだ。

    ・東福寺・龍吟庵
    重森三玲が永遠のモダンの庭を造った。特に西庭は寺号をテーマとし、龍が白砂の雲と黒砂の波の間から湧き上がってくる様をダイナミックに表現している。白雲、海波の間から龍が左回りに庭一杯に暴れまわっている

    ③坪庭について
    禅宗で盛んになった水墨画では小さな紙一枚に宇宙を現した。庭園でも同様に方寸の地に宇宙を象徴した。坪庭は建物の間にある、暗くて狭い場所である。このような限られた場所に、禅の物語を盛り込む事は究極の抽象性が求められる。まさに現代抽象芸術だ。

    ・妙心寺・東海庵の坪庭
    この坪庭は文化十一年に僧侶の東睦宗補によって造られた。白砂に七石が千鳥状に組まれている。石の種 類・大きさ・方向に変化があり、白壁、障子、濡れ縁に囲まれた、不思議な空間。

    ・東福寺・龍吟庵の坪庭
    重森三玲が昭和三十九年に作庭した。僅か十六坪に大明国師の物語が凝縮されている。坪庭に接した国宝の方丈は古い様式だ。庭は鞍馬の赤砂の上に、大明国師が幼少の時、熱病で山野に捨てられた。この時狼が襲ってきたが、二匹の犬が幼児を守った逸話を躍動感溢れて組まれている。テーマ性が秀逸だ。

    4、まとめ

    4.1夢窓以前
    古代においては巨大な磐座を神と崇めた。信仰の対象で、巌は畏敬されていた。飛鳥時代には中国から道教の一部をなす、神仙蓬莱思想の影響を受けて、池を築き、亀を中心とした島を作り、不老長寿を願った。平安時代になると貴族はこぞって阿弥陀如来を信仰し、極楽浄土へ、と願った。そのための庭は水が流れ、緑の木が風のそよぎ、小鳥がさえずっていた。「作庭記」にはこの時代の美学が示されている。そのエッセンスは「自然の風景に沿って、先人の意見を参考に、自然のポイントを吸収して作庭せよ」で、決して自然の縮小コピーではない。この時代の庭としては毛越寺があるが、我々が現代の感覚で鑑賞しても感心するほど美しく、心を和ませてくれる。このような完成された庭園からなぜ禅の庭が生まれたのだろうか。

    4.2夢窓の時代
    自然の中で修行した夢窓は、自然が示す美のエッセンスを身につけた。一方、禅の修業の中で釈迦や禅語録にも傾倒した。京都のような都でも、あたかも自然の中での修行するような道場としての庭を創出した。そこに示された内容は禅の物語を象徴している。

    4.3夢窓の影響・室町時代
    当初の金閣・銀閣寺は壮大な庭園であった。しかし塔頭に枯山水が出現すると、いわゆる「枯山水」が発生する。その立役者は大徳寺の高僧古岳宗亘である。彼は碧巌録の著者である圜悟克勤(えんごこくごん)に傾倒したそうだ。それ故に狭い場所にこそ、禅の宇宙を盛り込む事が出来た。

    4.4夢窓の影響・江戸時代
    禅の影響を受けた茶の湯から露地が発生した。そこは「市中の山居」の世界である。自然の一部を原寸大に切り取った風景だ。蹲踞(つくばい)の水は心を清め精神性を高めた。

    4.5明治・大正時代
    小川治兵衛は伝統的な露地の世界をヨーロッパの公園との融合に苦心した。南禅寺界隈の庭は疎水の開通により恵まれた自然の世界を再現した。

    4.6 現代
    重森三玲により鎌倉・室町時代の禅の精神を受け継いだ庭が復活した。但し岩組み構成は禅の物語であるが、安土桃山時代を中心とした立体造形美を現代風にアレンジしている。このような庭園言語は日本庭園をナショナルなものからインターナショナルなものにした、とも言える。

    5、今後の課題

    5・1夢窓国師の時代背景として平安時代、鎌倉時代の庭との関係を調査する。京都には貴族の庭が多くあり、鎌倉にも永福寺、横浜の名称寺などがある。中でも、蘭渓道隆の作といわれる東光寺の龍門瀑について。

    5.2光前寺の龍門瀑は夢窓国師によるものか調査。夢窓は鎌倉~京都の往復には、ほとんど甲州、永保寺を経由している。

    5.3雪舟作と言われる常栄寺の庭が夢窓国師の影響をどのように受けたのか。

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