2 thoughts on “羽川藤永

  1. shinichi Post author

    朝鮮通信使來朝圖

    by 羽川藤永

    江戸市中を行列する延享度朝鮮通信使の行列を描く。

    **

    朝鮮通信使

    https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮通信使

    朝鮮通信使とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。

    通信使接待状況


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  2. shinichi Post author

    慈照院 〔相国寺〕

    https://kyotofukoh.jp/report498.html

    相国寺の北西にある相国寺塔頭・慈照院は、足利義政の墓所(香火所)になっている。寺号は義政の法号「慈照院」に因む。

    1982年、住職が土蔵より朝鮮通信使が贈った襖に貼られた漢詩文、水墨画を発見した。

    朝鮮通信使・以酊庵輪番

     江戸時代、朝鮮通信使(1607-1811)は、朝鮮王朝による江戸幕府への12回にわたる外交使節の派遣だった。豊臣秀吉による朝鮮出兵後の修復のために、対馬藩を通じて修復された。将軍の代替わりに際して、祝賀の意味があった。正使、副使のほか、通訳、軍官、画家、医者、料理人、芸能者なども随行し、総勢で400-500人にもなった。海路で釜山を発ち、対馬、相島(あいのしま)、下関、鞆の浦、陸路で大坂、京都、静岡、江戸、時に日光まで足を延ばした。

     日本訪問の際に、対馬では「対州修文職(たいしゅうしゅうぶんしょく)」が外交文書の起草、翻訳、検閲、接伴などに当たった。それらは「以酊庵(いていあん)輪番」と呼ばれ、南禅寺を除く京都五山の4寺の碩学僧侶が、1人ずつ2年交代で派遣されていた。その数は126番、88人になったという。

     当院からも通算で5人が遣わされた。そのうち第9世・別宗祖縁は、第7回(1682年)、第8回(1711年)に派遣された。第8回の際には大坂から江戸まで往復随行している。また、維天承瞻は、1764年に接伴した。

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