「近代的自我」という物語−壮大な、あまりにも壮大な”虚構”?−
それは、物語に過ぎない。たとえば、なぜ、理性は人種的偏見を肯定したか。「自由、平等、博愛」とヒューマニズムの美しすぎる美しさを謳ったはずなのに、言ってることとやってることが違う。価値観を同じくする身内だけでの相互扶助。それは、自分の属するコミュニティー「の、による、のための」物語に過ぎない。
自立する個人が、個性的に能力を発揮し、理想的に社会を発展させるという理想社会。だが、-べきだ、-はずだ、と他を排除し攻撃する自己中心性。これこそ普遍だ、と主張する特殊性。漱石も鴎外も、求めて結局わからない「近代的自我」。晩年、日本的伝統の中に安らぎを見出す。当然だ、人は自分達の物語=文化の中で生きているのだから。
社会変革に行き詰まり、「普遍的」な大きな物語を失おうとしているかに見える今、「近代的自我」だけが肥大化し、かつてあると信じたユートピアを求めて、亡霊のようにさまよっている。「近代的自我」という名の亡霊が。
コラム:週刊モンモントーク
日本教育ゼミナール
[6] 近代からポストモダンへ
http://www.nkseminar.com/sakusyo-top/column/column6.html
3.「近代的自我」という物語−壮大な、あまりにも壮大な”虚構”?−