名郷直樹

多くの患者と日々接する毎日である。その一人ひとりの患者を、病名ではなく、別の角度で書き直せば、もともと元気であったり、放っておいても勝手によくなったり、薬を飲んでも飲まなくても日々の生活に大きな変わりがながったり、一方で良くなる可能性が小さかったり、どうやっても死んでしまう、という人たちである。私が何か医療を提供すれば良くなる、という人たちは少ない。
ワクチンによる予防接種の効果は社会全体としては大きいが、個々のレベルではもともと元気な人が元気で居続けるだけのことだ。かぜを疑う患者の診療も、かぜに似た重症の病気を見逃さないようにするという点では大きな仕事だが、大部分は医療機関に来る必要もない人である。
高血圧や高コレステロール、糖尿病の患者も大部分は元気である。もちろんその治療により、将来の合併症が幾分少なくなっているという面はある。しかし、これも健診や予防接種と同様、元気な人が元気なままということだ。今の時点で元気な人に、放っておくと病気になってしまいますよと、定かではない未来の不幸の可能性を強調して、脅かしをかけているだけかもしれない。
 

4 thoughts on “名郷直樹

  1. shinichi Post author

    いずれくる死にそなえない

    by 名郷直樹

    はじめに
    1章 健康欲望から死の不安へ
    2章 死について―まず電車の話で
    3章 死について―死を待つものたち
    4章 医療は高齢者に何を提供しているか―加齢と健康、そして死
    5章 「寝たきり欲望支援」から「安楽寝たきり」へ
    6章 死を避けない社会
    終章 死をことほぐ社会

    どこまでも健康、どこまでも長寿を重視するのは無力というより不可能である。ある時期に限って実現できるに過ぎない。どこまでもというのは不可能だ。死を避けることはできない。死を避けるのは不可能だが、避けなければ少なくとも無力ではない。死んでいく中で、何かできることがあるはずだ。自分自身の無力感も、人が死んでしまうから無力なのではなく、死ぬことを避けようとするから無力なのである。

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  2. shinichi Post author

    2024年5月17日(金)

    人は死ぬ

    今週の書物/
    『いずれくる死にそなえない』
    名郷直樹著、生活の医療、2021年刊

    何も考えないで暮らしていても、医療や死について考えることがある。外国暮らしが長かったので、日本での医療や死について考えることも多い。医療や死についての本はたくさん出ているが、しっくり来る本はそうは多くない。いろいろ読んでみて、しっくり来たのが、名郷直樹という医者が書いた本。医学の本というより、哲学の本に近い。

    名郷直樹の本を何冊か読んだ私は、名郷直樹の職場である「Mクリニック」まで出かけていって、高血圧を言いわけにして「名郷先生」の診察を受けることにした。私のなかのバカで単純でミーハーな部分が化学反応を起こしたとしか説明のしようがない。

    2回ほど診察を受けたところで「名郷先生」は引退された。その後、診察は「名郷先生」よりずっと若い「I先生」に引き継がれ、私は今も「I先生」に診てもらいに「Mクリニック」に通っている。「I先生」に診てもらうのは楽しい。診察のときの「I先生」の雰囲気からしていいし、「I先生」がインターネット上に書き込んだ言葉:

    「臨床はラディカルになるときこそ危険である。ありふれていることが肯定されねばならない。優れた治療者とは凡庸な治療の良さを知る人なのである」

    「自分たちが持つ医学的な背景から築かれた認識や価値観よりも、患者の持つ意向や価値観をより尊重した中で、患者にとって最も望ましい方向性をともに見出していく」

    もいい。

    「I先生」の考えが「名郷先生」の考えと同じとは思えないが、たぶん私は「Mクリニック」が気に入っているのだろう。

    で、今週は、「Mクリニック」の「名郷先生」が書いた一冊。『いずれくる死にそなえない』(名郷直樹著、生活の医療、2021年刊)だ。「名郷先生」は、医療現場の現実の矛盾のなかで診療にあたってきた。その矛盾が、とてもよく書かれている。

    医者として私が接するのは、当然のことながら、医療に依存して日々を送る人たちが大部分である。そしてその依存度が高ければ高いほど、医療に多くを期待されればされるほど、私自身はそうならないようにしようという気持ちが強くなる。 はっきり言えば、私は医者でありながら、医療に過度に依存したり、大きな期待をするのはばかげていると思っている。より良い医療の恩恵を受けることだけでなく、医療を避けることも重要である。そのバランスをとって生きていかないと、定年後の人生を、あるいは長生きによって得た多くの時間を、台無しにしてしまうかもしれない。そのためには、医療を上手に避け、さらにその先に待つ、動けなくなることを受け入れ、死を避けないで生きることを考えなくてはいけない。

    多くの患者と日々接する毎日である。その一人ひとりの患者を、病名ではなく、別の角度で書き直せば、もともと元気であったり、放っておいても勝手によくなったり、薬を飲んでも飲まなくても日々の生活に大きな変わりがながったり、一方で良くなる可能性が小さかったり、どうやっても死んでしまう、という人たちである。私が何か医療を提供すれば良くなる、という人たちは少ない。
    ワクチンによる予防接種の効果は社会全体としては大きいが、個々のレベルではもともと元気な人が元気で居続けるだけのことだ。かぜを疑う患者の診療も、かぜに似た重症の病気を見逃さないようにするという点では大きな仕事だが、大部分は医療機関に来る必要もない人である。
    高血圧や高コレステロール、糖尿病の患者も大部分は元気である。もちろんその治療により、将来の合併症が幾分少なくなっているという面はある。しかし、これも健診や予防接種と同様、元気な人が元気なままということだ。今の時点で元気な人に、放っておくと病気になってしまいますよと、定かではない未来の不幸の可能性を強調して、脅かしをかけているだけかもしれない。

    自らのことを「自然と良くなってしまうかぜのような病気ばかりを診て、どうやっても死んでしまうような人たちの診療を仕事にしている私」と形容する著者は、「死を避けるのは不可能だが、避けなければ少なくとも無力ではない」「人が死んでしまうから無料なのではなく、死ぬことを避けようとするから無力なのである」と書く。

    圧巻は、グラフを用いての説明だ。
      「高血圧患者に対する脳卒中の先送り効果」
      「高血圧患者に対する死の先送り効果」
      「虚弱老人の血圧と死亡の関係」
      「高齢者に対するコレステロール治療の脳卒中や心筋梗塞の先送り効果」
      「コレステロール治療の死の先送り効果」
      「コレステロール治療の心筋梗塞に対する効果」
      「血糖治療の脳卒中、心筋梗塞に対する効果」
      「インスリン治療中患者のHbA1cと死亡の関係」
      「抗血小板薬の脳卒中に対する効果」
      「抗血小板薬の死亡に対する効果」
      「認知症の薬の認知症スコアに対する治療効果」
    というようなグラフから読み取れるのは、現在の医療への疑問だ。「先送りで得られた時間が、更なる先送りのための医療につぎ込まれるだけ」とか、「高齢者が高血圧とコレステロールを治療したところで、治療しない人と寿命にそれほど大きな差はない」というようなことをグラフから読み取れば、疑問を持つのも当然だ。

    現実は、高齢者ほど血圧やコレステロールを気にする。でも事実は、高齢になるほど、血圧もコレステロールも大して重要でなくなってゆく。にもかかわらず、世の中に流れている情報は「高齢者ほど健康に気をつけよう」だ。医者の説明は「降圧薬を飲まないと脳卒中になってしまいますよ、死んでしまいますよ」というものだ。そしてその先に「死を避ける社会」が現れている。

    「名郷先生」は、「高齢者は血圧など気にせず、もっと別なことに関心を持って生きたほうがいい」と書き、「血糖を正常化させるような厳しい血糖治療は、合併症予防こうかも意外にわずかで、寿命に関しては縮める可能性さえある」と書く。その一方で、患者に通り一遍の医療を提供する。矛盾しているようだが、他に方策は見当たらない。

    患者である私も、「名郷先生」と何ら変わらない。降圧剤の服用に意味がないと思いながら、降圧剤を服用し続けている。「寝たきり」とか「死」ということについても、同じだ。「名郷先生」も私も、矛盾に満ちている。

    最後に著者は、「生きがい」から「死にがい」へ、「死に絶望するする」から「死をことほぐ」へ、「死を避ける」から「死を避けない」へという社会の変化が必須だという。「人は年老いて死ぬのではない。人はとにかく死ぬのである」という言葉が印象的だった。

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