伊藤憲一

今日の東アジア共同体という概念、構想につながる最初の声をあげたのは、マレーシアのマハティール首相だと言っていいと思います。彼が1990年に EAEC (East Asia Economic Caucus 東アジア経済会議) という声をあげたわけですが、当時のアメリカの強烈な反発を受けて、一発でノックダウンされたという感じでした。
そしてもう1回、東アジアという声を上げたのは、97年の経済危機を見て、日本の大蔵省が、アジア通貨基金 (Asian Monetary Fund) の構想を打ち上げたわけです。これもまた当時のアメリカから反発を受けて、あっという間に潰されてしまいました。このときは、中国もアメリカと一緒になってAMF構想を潰そうとしたことが記憶されます。
そういう意味ではいまわれわれが語っている東アジア共同体の夢は、3度目の正直として誕生したものであるということです。これを可能ならしめた直接的な契機は、1997 年のアジア経済危機です。アジア経済危機のときにASEAN+3、3は日中韓ですが、これをAPTと申しますけれども、その首脳会議が催されたわけです。これが今日に至るいろいろな動きの出発点になったわけですが、今日のような東アジア共同体を目指す動きをつくろうなどという政治的意思が、参加した首脳たちの間にあって誕生したものではありません。

3 thoughts on “伊藤憲一

  1. shinichi Post author

    今日の東アジア共同体という概念、構想につながる最初の声をあげたのは、マレーシアのマハティール首相だと言っていいと思います。彼が1990年にEAEC(East Asia Economic Caucus 東アジア経済会議)という声をあげたわけですが、当時のアメリカの強烈な反発を受けて、一発 でノックダウンされたという感じでした。

    当時シュルツさんがアメリカの国務長官で、かれが私的に組織した戦略諮問会議のようなもの があり、アメリカ、日本、韓国や東南アジアの各国から、有識者が二、三人ずつ集まったわけで す。2回集まりましたが、1回目は香港、その次はハワイで、アジア太平洋の秩序をどのように 構想するかということで、議論を交わしたことがあります。私は政府から、日本を代表して参加 してくれと頼まれて出ました。

    アメリカから来た連中には、その後政権に入って財務次官になったケネス・ダムとか、有力な 論客が多く、われわれと激しい議論をやりましたが、当時アメリカはAPEC(Asia Pacific Economic Cooperation アジア太平洋経済協力会議)を守り立てようとしていて、EAECはそ の邪魔をするものだという受け止め方でした。「太平洋を分断するのか、とんでもない」という話 だったことを記憶しています。それだけシュルツさんが強い反発を示していた、そして潰された アジアというものがあったわけです。

    そしてもう1回、東アジアという声を上げたのは、今度は日本ですが、97 年の経済危機を見て、 日本の大蔵省が「これは何とかしなければいけない。IMF、世銀の救済を待っていては、タイ ミングを失するだけではなく、適切な金融支援ができない」ということで、アジア通貨基金(Asian Monetary Fund)の構想を打ち上げたわけです。これもまた当時のアメリカから反発を受けて、あ っという間に潰されてしまいました。このときは、中国もアメリカと一緒になってAMF構想を 潰そうとしたことが記憶されます。

    いずれにせよ華夷秩序があり、そして大東亜共栄圏があり、そのあとアメリカの覇権があった アジアで、東アジア共同体みたいなことを言い出して、実現していくことがいかに夢であったか、 現実にはあっという間に潰される話であったか、ということを踏まえておきたいと思います。

    そういう意味ではいまわれわれが語っている東アジア共同体の夢は、3度目の正直として誕生 したものであるということです。これを可能ならしめた直接的な契機は、1997 年のアジア経済危 機です。アジア経済危機のときにASEAN+3、3は日中韓ですが、これを略してAPTと申 しますけれども、その首脳会議が催されたわけです。これが今日に至るいろいろな動きの出発点 になったわけですが、今日のような東アジア共同体を目指す動きをつくろうなどという政治的意 思が、参加した首脳たちの間にあって誕生したものではありません。

    どういういきさつで 1997 年のASEAN+3の首脳会議が開催されたかと申しますと、97 年 の経済危機の発生する前、つまりこの年の1月に橋本首相がASEANを訪ねています。そのと きにASEAN+1(日本)の首脳会議を提案していたわけです。これに対して、ASEAN側 は、せっかくの機会だから、中国、韓国にも入ってもらって、ASEAN+3で会合をすることにしてはどうかという逆提案がありました。この顔ぶれでの首脳会議は、まさにマハティール首 相のEAEC構想の再現にほかなりませんでしたが、もはやアメリカの反対を恐れる国はなく、 日本側もこれを受け入れたために、1997 年末にASEAN+3の首脳会議が開催されることが決 まったのでした。このような空気の変化の背景としては、前年の 1996 年にASEMが発足してい ることが関係しています。ASEMとはAsia-EuropeMeeting 、アジア欧州会議ですが、欧州と アジア諸国が一堂に会して共通の関心事を話し合おうということで設立されたものです。その機 会に集まるアジア諸国の首脳は、たまたまASEANプラス日中韓の3国、つまりEAECの顔 ぶれになっていたわけですが、かつてEAECにあれほど反対したアメリカからこのASEMの アジア側の顔ぶれには異論がなく、その発足が決まっていました。いまさらアメリカとしてもA SEANプラス 3 首脳会議には反対できない状況になっていたということです。

    ところで、その後 1997 年8月にタイにおけるバーツの急落から始まって、アジア経済危機が勃 発しました。このために 97 年末に開かれたASEAN+3首脳会議は、期せずしてアジア経済危 機に対処する地域諸国の首脳の集まりということになりました。

    前に述べましたように、なぜアメリカがマハティールのEAEC構想にあれほど強く反発した のかというと、いろいろな理由があったと思いますが、もっとも強力な理由は、前年の 1989 年に アメリカの強力なサポートを背景としてAPEC(アジア太平洋経済協力会議)が発足しており、 そういうアメリカから見ると、それとは無関係にマハティールが提案してきたEAECというの は、太平洋を二つに分断する行為であって、つくったばかりのAPECに対する敵対行為である ととられた、そういう背景があったと思います。

    しかし今回は、ヨーロッパとのお付き合いの中で、たまたま顔を揃えたASEAN+3の首脳 たちが、しかもその後に起こった経済危機の対策を討議するということですから、アメリカとし ても反対のしようがなかった。AMFを潰しにかかったことは先ほど申し上げたとおりですが、 ASEAN+3まで潰すことはもはやできない状態でした。というのもAPT首脳会議は、1回 限りということで集まったわけで、そういう意味では極めて野心のない、政治的な戦略意思のな い、たまたまの流れの中の偶然のできごとだったからです。

    しかし、97 年にクアラルンプールで開催されたAPT(ASEAN+3)首脳会議は、これが 97 年危機の救済に大きな力を発揮したことを踏まえて、98 年になりますと、このときはベトナム が主催国だったのですが、今年もやろうではないかということになり、ASEAN+3の 13 カ国 の首脳がまた顔を揃えることになりました。そしてその場で、せっかくだから毎年やることにし ようじゃないかと、だんだん話が育ってきたわけです。結果的にはアメリカに隙を見せない運び 方になりましたが、それはアジア側に戦略があってそうなったのではなく、偶然と幸運の展開の 中で結果的にそうなったわけです。

    さらにこの 98 年の第2回APT首脳会議は、会議の定例化を決めただけでなく、韓国の金大中 大統領の提唱によって東アジア・ビジョン・グループ(EAVG)と言う諮問機関を設立しまし た。東アジアあるいはAPTの将来について、その道筋を指し示してくれる諮問会議を組織しよ うという提案でした。各国から二、三名の学者、研究者が集まったグループですが、日本からは 田中明彦さんと吉富勝さんの二人が参加しました。さらに 99 年の第3回APT首脳会議では、フ ィリピンのエストラーダ大統領のイニシアティブで「東アジアにおける協力に関する共同声明」 が採択されました。このようにして、APTは東アジア共同体を視野に納めた政府首脳ベースの 協議体として着実な歩みを始めたのでした。

    2年余の研究を経て、EAVGは 2001 年のASEAN+3首脳会議に政策提言を提出すること になりました。この提言は東アジアの目指すべき方向として「平和・繁栄・進歩の東アジア共同 体」という概念を打ち出し、そのための措置として 50 を超える提案をしています。学者、研究者 のビジョン溢れる提案でしたが、これを現実の政府の政策に移し替えるために、そのあと政府レ ベルで東アジア・スタディ・グループ(EASG)がつくられました。これは官僚がメンバーに なって、EAVGの提案をより実践的な提案に書き直したもので、短期的措置 20 項目、中長期的 措置9項目を 2002 年のASEAN+3首脳会議に提出しました。本年末に開催されることになっ ている東アジア・サミットなどというものも、EAVG、EASGの報告のなかで提案された措 置の一つでした。

    EASGは、EAVGの出した 50 を超える提案を整理し、実現の可能性がないものを横に置い て、実現可能性のあるものを短期的措置 20 項目、中長期的措置9項目にまとめて提案しています。 これらは、東アジア共同体へのロードマップであり、しかも各国首脳の政治的支持、裏付けを取 り付けた提案であって、極めて重いものです。

    中長期的なテーマ9項目とは、1東アジア自由貿易地域の形成、2中小企業による投資の促進、 3東アジア投資地域の設置、4地域の金融支援体制の確立、5為替調整枠組みの形成、6東アジ ア・サミットの開催、7海洋環境協力の強化、8エネルギー行動計画の作成、9NGOとの政策 協議の強化の9項目ですが、このうちのいくつかはすでにいろいろなかたちで現実化しています。

    ところで、短期的措置として提案された 20 項目のなかにNEAT( Network of East Asian Think-tanks 東アジア・シンクタンク・ネットワーク)の設立という提案がありました。EA VGやEASGは1回限りの提言を出して、そのあとは解散という組織ですが、東アジア・シン クタンク・ネットワーク(NEAT)は、ASEAN+3の 13 カ国のシンクタンクをネットワー クに組織して、継続的に首脳会議に対してアドバイスをしていくという、極めて野心的な使命を 与えられたものであったわけです。

    また同じくEAF(East Asian Forum 東アジアフォーラム)の設立も提案されました。これ は東アジアの産官学、つまり産業界、政府、学者・研究者の代表が毎年集って、東アジア共同 体を目指す議論を深めようということです。そして実際にNEATとともに 2003 年に設立された わけです。

    実を申しますと、東アジアにおいて着々と進んで行くいろいろな意味の地域協力、地域統合の 動きについては、私も早くから注目し、フォローしておりましたが、たとえば、私が理事長を務 めている日本国際フォーラムでも、2000 年には「グローバル化経済とアジアの選択」、2002 年に は「東アジアにおける安全保障協力体制の構築」、2003 年には「東アジア経済共同体構想と日本 の役割」などの一連の政策提言を発表してまいりましたが、しかしながら、こういう政策提言を 出しておきながら、「東アジア共同体」という概念あるいは構想ということになると、私自身がど れほどの問題意識を持っていたかというと、いま振り返ってみて、ほとんど持っていなかったと 言わざるを得ないわけです。つまり当時すでに地域協力、地域統合、リージョナリズムといった ことは、たくさん議論されていました。そういうことを議論するシンポジウムやセミナーなどに 参加しては、それなりのことを述べていたわけですが、それが私自身の頭のなかではまだ「東ア ジア共同体」と言うことにしっかりとはつながらないでいたと思います。その言葉自身に対して、 それは夢物語じゃないのという程度の、漠然とした認識の枠を出ることができないでいた、とい うことでありました。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *