三宅亨

王直は厦門の葉宗満らと広州に赴き, 同地で大型船を造船し, 当時は輸出禁止品であった硫黄や生糸, 真綿などの貨物を積んでシャムや呂宋, 安南, マラッカ, 日本などに出かけて,巨万の富を蓄財した。王直が各地で購入した物品を箇条書きすると次のようになる。

  • シャム, カンボジア=蘇木, 胡椒, 犀角, 象牙
  • マニラ=メキシコ銀
  • 景徳鎮=陶磁器
  • 湖州=生糸
  • 松江=綿布
  • 福建=紗絹, 砂糖, 糖菓

これらの品を日本や東南アジアに運んで, 商売を行ったのである。
一般に鉄砲伝来は1543年といわれているが, 五島や平戸にはそれ以前に既に伝わっていた。王直は鉄砲の弾薬に不可欠な硝石が日本では産出できないこと, したがって日本への硝石輸出が莫大な利益をもたらすことを知っていた。それゆえ,鉄砲の伝来は王直にとって日本での大きな商機であり, 双嶼港から例のポルトガル人を誘って種子島に赴いたのではないだろうか。1543年の種子島への渡航は「漂着」ではなく, 意図的な「来航」であったといえよう。王直は硝石貿易でも莫大な利益を得ている。
王直は日本にいるときは平戸を居住地と定めたうえで, 五島や薩摩の間を行ったり来たりしていた。王直は海外との密貿易の仲介をしたので, 京や堺などの商人が多数訪問したという。また諸大名との交流もあった。
王直は明朝ではお尋ね者だったが, 日本では貿易の利益をもたらすありがたい客人として扱われたのである。

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  1. shinichi Post author

    倭寇と王直

    by 三宅亨

    http://www.andrew.ac.jp/soken/pdf_3-1/sokenk193-2.pdf

    王直と日本

    王直については, 比較的多くの文献が残っているが, 断片的な記述が多く, 年代的にみて明らかに矛盾すると思われる記述も少なくないので少し整理する必要がある。

    王直は後期倭寇の頭目のなかで一番よく知られた人物である。彼は徽州人で, 歙県(現・安徽省黄山市)の生まれであるが, 生年は定かでない。父親に関する情報もほとんどない。母親は汪氏といわれており, 文献によっては「汪直」と表記されているのは母方の姓に由来するのであろう。彼は当初塩商人(4.1 参照)であったが, 商売に失敗し, 同郷の徐惟学と遊民に転じ, 若い頃から何人かの仲間と海外に出かけていた。やがて同郷の許棟の配下となった。少なくとも1530年代の何年間かは六横島を本拠地としていたと思われる。

    王直に関する様々な歴史上の資料には「1540年(頃)に~」という記述が多い。この年(頃)の彼の行動範囲はシャムから日本まで広範囲に及んでいることを表している。これらの資料を整理してみると次のような姿が浮かんでくる。

    王直は厦門の葉宗満らと広州に赴き, 同地で大型船を造船し, 当時は輸出禁止品であった硫黄や生糸, 真綿などの貨物を積んでシャムや呂宋, 安南, マラッカ, 日本などに出かけて,巨万の富を蓄財した。斯波義信(前掲書)を参考にして, 王直が各地で購入した物品を箇条書きすると次のようになる。

    シャム, カンボジア=蘇木, 胡椒, 犀角, 象牙
    マニラ=メキシコ銀
    景徳鎮=陶磁器
    湖州=生糸
    松江=綿布
    福建=紗絹, 砂糖, 糖菓

    これらの品を日本や東南アジアに運んで, 商売を行ったのである。

    ここで王直に関する国内の資料などを検討してみる。長崎歴史文化博物館の2階にある常設展パネルには, 王直(塩商人)について「天文9年(1540)以降, 福江の領主宇久盛定と盛んに貿易をおこない, 福江には唐人町もつくられました」という説明がある。

    2011年3月に共同研究プロジェクトのメンバーと共に, 五島列島の福江島を訪れ現地調査をする機会があった。そのときの話を紹介したい。

    福江島の宇久盛定は倭寇の頭目・五峰(=峯)王直との間に通商の密約を結び, 居城(江川城)対岸の高台に土地を与え, 王直らを居住させた。唐人町が造られ, 王直らが飲料水を得ていたという六角井が保存されている。王直らが航海の安全を祈るために建立した廟堂跡の明人堂や唐人橋など当時の様子を伝える建築物がある。

    このとき, 筆者はかねてから疑問に思っていた点11) を, 案内してくれた山口要蔵氏に質問してみた。山口氏は我々が宿泊した民宿の経営者であるが, 郷土の歴史研究家でもある。種子島で鉄砲伝来のとき, 王直はなぜ自ら「五峰」と名乗ったのか。山口氏によると, 1540年に王直が初めて値嘉島(五島)に近づいたとき, 海上から見えた島が五つの峰のようにみえた, そのときの印象が強く彼の記憶に残っていた。密貿易商人であるから自分の本名を明かすわけにはいかないので, 五峰と名乗ったとのことである。

    また, 一般に鉄砲伝来は1543年といわれているが, それ以前に伝わっていたのではないかという問に対しては, もちろん五島や平戸には既に伝わっており, 王直は鉄砲の弾薬に不可欠な硝石が日本では産出できないこと, したがって日本への硝石輸出が莫大な利益をもたらすことを知っていたという。それゆえ, 財政難を抱えていた宇久盛久は貿易による利益をもたらす王直の来航を歓迎したのであるとの説明を受けた。とすれば, 鉄砲の伝来は王直にとって日本での大きな商機であり, 双嶼港から例のポルトガル人を誘って種子島に赴いたのではないだろうか。1543年の種子島への渡航は「漂着」ではなく, 意図的な「来航」であったといえよう。王直は硝石貿易でも莫大な利益を得ている。

    1542年, 王直は平戸へ移った。平戸松浦家第25代・松浦隆信(道可)は彼を優遇し, 平戸の中心にある勝尾岳の東麓に土地を与えた。王直は, そこに唐風の大きな屋敷を建てた。現在この屋敷跡には碑があるだけであるが, 市内には五島の福江と同じような六角井が残っている。平戸時代の彼の手下は2000人余りで, 数百隻の船団を指揮し,「徽王」と名乗っていた。これは彼が徽州人であったからと容易に推察できる。

    『史都平戸』には,「(王直)平戸に滞在すること十五年」とあるので, 1557年に帰国するまで平戸に滞在していたことになる。武光誠(前掲書)は, 五島列島は王直にとって密貿易の基地であり, 平戸は彼の屋敷であったという。王直は五島列島を拠点として硝石貿易を拡大していった。

    王直は薩摩にも拠点を置いていたことが知られている。つまり, 王直は日本にいるときは平戸を居住地と定めたうえで, 五島や薩摩の間を行ったり来たりしていた。王直は海外との密貿易の仲介をしたので, 京や堺などの商人が多数訪問したという。また諸大名との交流もあった。『鉄炮記』に「儒生五峯」という記述があるから,王直は単なる密貿易商ではなく,それなりの教養を備えた人物であったと思われる。彼の故郷徽州は商業の発展とともに文化も栄えた土地で,多くの教養人が生まれている。

    1550年6月にポルトガル船が平戸に来航し, 松浦氏の歓迎を受ける。これが我が国の「南蛮貿易」の始まりとなったが, これを手引きしたのは王直であった。すでに双嶼時代にポルトガル密貿易商人とのネットワークを築いていた彼にとっては, たやすいことだったといえる。

    鉄砲の伝来とポルトガル人の来航が日本の歴史を変える大きな意義をもつことは改めてここで書くまでもないだろう。この二つの大きな出来事の裏には海商王直の活躍があったのである。

    倭寇王直

    王直は1540年に五島に来てから1557年に平戸を去るまでずっと日本に滞在していたわけではない。この間, 王直は密貿易海商として東シナ海域を忙しく駆け巡っていた。

    中国の時代区分でいう嘉靖期(1521~1566)は倭寇の絶頂期であった。これを称して「嘉靖の大倭寇」という。1522年から1566年の間に倭寇が中国東南部沿岸に侵入した回数は, 記録に残っているものだけでも548回に及ぶ。

    すでにみたように三浦の乱(1510)で日朝関係は一時断絶になり, 寧波の乱(1523)により日明間の公式貿易はしばらく途絶えることになった。その後に派遣された遣明船は1540年と1547年の2回のみで, 1551年に大内氏が滅亡すると勘合貿易は途絶えてしまった。「名ばかり将軍」の足利義輝(在位1546~65)のもとで幕府の権威は地に落ち, 戦国大名が各地に割拠するようになる。国内の飢饉は米価の高騰をもたらし, 方々で略奪がさかんになる。

    こうして東シナ海域の国家基盤や国家間の正式関係が揺らいでくると公式の貿易は衰退に向かっていく。それにかわって, 16世紀のなかばから活躍するのは, 密貿易に励む後期倭寇とポルトガル勢力である。前期倭寇と後期倭寇に共通するのは中央政府の統制が緩んでいた時期に活発化したという点である。

    1545年, 王直は博多へ行って, 助才門(助左衛門)ら3人の日本人を密貿易の仲間に引き入れ, 本拠地の双嶼へ連れて行く。1548年には, 王直は船山諸島の馬蜻潭で日本人と密貿易を行ったという記録がある。

    松浦章(2003)は王直が中国官憲から追われるようになった経緯を次のように述べている。1540年から海商王直は淅江省餘姚の謝氏と順調な取引関係にあった。王直は外国人商人と謝氏の間に立って取引をしていたが, あるとき謝氏と王直らの海商との間でおそらくは取引上のもめごとがあったのであろう, 謝氏が海商らの行為を官憲に密告しようとした。そこで王直は外国人と結託し, 謝氏の自宅を夜襲し, 男女数人を殺害し, 略奪行為を行う。恐れをなした餘姚県の官吏が上級機関に「倭寇の襲撃」と報告した。これを受けて, 淅江巡撫の朱が犯人捕縛の命令を出す。この事件によって, 王直は「海商」「密貿易商」から「倭寇」とみなされるようになる。朱が巡撫に任命されたのが1548年で, この出来事を記録した『世宗実録』の日付が1549年7月5日であることから, この出来事があったのは1548~1549年頃と絞り込むことができるが, さらに1548年に明朝が密貿易の拠点である双嶼港を攻撃し, 破壊しつくし, これ以後王直は拠点を移したという史実から, 1548年の事件と思われる。ともかく, このころ王直は明朝の「お尋ね者」になった。

    六横島の双嶼港を明軍に破壊されたあと, 倭寇は同じ船山諸島に幾つかの拠点を分散した。1300以上の島があるから隠れて密貿易を継続するのはそんなに難しいことではなかったであろう。双嶼港攻撃を受けた密貿易者のうち, あるものは船山諸島の他の島へ移り, あるものは淅江・福建に移動し, 密貿易・海賊行為・略奪を行う。王直は船山列島に残り, 密貿易を続け, 東シナ海全域の密貿易を牛耳る。

    ポルトガル商人は, 西に逃げ広州湾を拠点として勢力回復をはかる。のちに中国官憲に協力し, 1557年にマカオを貿易拠点とすることを認められる。1550年6月に王直の手引きでポルトガル船が初めて平戸へ来航したことは上に記した通りである。

    1552年4月に, 倭寇が台州を襲った。その中心人物は「徽の人, 汪直」といわれている(『明倭寇始末』)。

    『明史』には次のように記録されている。

    大悪党の汪直・徐海・陳東・麻葉のごとき輩は, 日頃から倭人の中に喰い込み,(明)国内では勝手にふるまうわけにはいかないので, すべて海上の島に逃れて奸計の采配をふるった。倭人たちの言いつけに従えば, 彼らを誘って(明)本土を略奪した。外海に出たこれらの大盗賊は, やがて倭人の着物や旗じるしをまねて用い, 船団をいくつかに分けて本土に侵攻して略奪し, 一人残らず大いに懐を肥やした。そこで,(明)朝廷で検討した結果, 巡撫を復活させることになり, 嘉靖31年(1552), 僉都御史の王をこれに当てた。しかしながら, 倭寇の勢力は, すでに撲滅しきれなくなっていた。

    明軍は非常事態の発生で急いでかき集められた訓練もろくに受けていない兵が多く, 軍船も漁船を急遽転用したものであった。明朝は倭寇の侵攻に対してお手上げ状態だったことがわかる。ここに登場する徐海は, 王直と同じ徽州府歙県の出身で, 薩摩・大隅地方を拠点とし, 中国沿岸を襲撃した武闘派倭寇であった。彼は, 数万の倭寇集団を率いて杭州湾に上陸し, 江南・淅江一体を荒らしまわった(中島楽章, 2009)。

    『明史』は続けて「これら賊軍のあらましは, 真の倭人は十人のうち三人で, 残りの七人は倭人に寝返った中国人だった」と述べている。1550年代以降, 倭寇のなかの「倭奴」の割合はすでに1~2割に減っていたという記録もある。

    1553年には, 明軍によって倭寇が船山諸島の瀝港から追われた。ここに拠点を築いたのは王直であった。彼は根拠地を五島と平戸に移すとともに明朝に対し大反撃にでる。

    『明史』の記録を追っていくと, 倭寇の侵攻した土地は1554年1月には太倉から蘇州, 松江, 通州, 泰州に, 4月に嘉善, 崇明, 蘇州, 崇徳に, 6月には呉江, 嘉興, 拓林に, といった具合で,「縦横に来住し, 無人の境に入るが若し」であった。

    翌1555年になると, 70人程度の倭寇が「数千里を席巻」し, 中国側の死者は4000人近くにのぼり, 80日余り動乱が続いたあげく, やっと滅ぼされた。

    朝鮮半島に目を転じると, 同じ1555年に倭寇が70余隻で全羅南道の康津・珍島一帯に侵入し, 略奪を行った(乙卯倭変)。これも王直が指揮したといわれている。

    『李朝実録』によれば, 1556年4月1日, 朝鮮で倭人が反乱を起こそうとしているという情報を入手した対馬島主・宗氏が朝鮮朝廷に報告した。首謀者のなかには中国人もおり, 彼は「五峯」と名乗り, 倭人を率いて明を襲撃すると称している。

    前期倭寇は食糧の他に人々を捉え, これを奴隷として使役したり売却したりしたと述べた。後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行っている。中国東南部の江南・淅江。福建などを襲撃し人民を拉致した倭寇は対馬・松浦・博多・薩摩・大隅などの九州地方で奴隷として売却した。これらの奴隷は, 牛馬の飼育や薪取り, 水汲みなどの仕事をさせられた。さらに彼らの一部はポルトガル商人によってマカオに転売され, そこから東南アジア・インドに送られていった。

    嘉靖期に暴れまわった倭寇であるが, 王直自身にも心境の変化が起きたようである。生年が不詳なので年齢は定かでないが, 少なくとも老境に入らんとする頃であろう。1557年, 淅江総督・胡宗憲が王直の母と妻子を杭州に呼び止め, 王直に帰国を促す手紙を出す。明朝に帰順して海賊禁圧に協力すれば, 彼が船山列島で貿易を行うことを公認すると持ちかけた(中島楽章, 2009)。明朝から派遣された州と陳可願の二人が五島で王直と話し合っている。王直はこの提案を罠であろうと思いながらも, 帰国に同意する。「故郷忘じがたし」という心境であったのだろう。同年10月, 中国に帰る。案の定, 王直は拘留された。胡宗憲自身は王直の帰順を認めるつもりだったといわれている。しかし, 明の朝廷の強硬論におされ,1559年12月, 王直を処刑せざるをえなかった。

    武光誠(2009)は「王直は明朝ではお尋ね者だったが, 日本では貿易の利益をもたらすありがたい客人として扱われたのである」と評している。

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