本村凌二

16世紀の初めごろから、中国沿岸には密貿易の拠点がぽつぽつ姿を見せていた。海寇の頭目たちがマラッカのポルトガル人や日本の博多商人などを引きずり込んで巨万の富を得ていたという。なかでも、世紀半ばは大倭寇時代とよばれたが、それを担った巨頭が王直であった。
山深く耕地の少ない内陸部の徽州ではいささかでも志のある青年は郷里を出て広域商業を営むことが少なくなかった。王直もその例外ではなく、塩商を営んだが、失敗してしまう。だが人間としては、かなり魅力的なところがあったらしい。
若いころは不遇であったが、任侠的性格をもち、壮年になると智略と気前のよさで人々に信頼された。当時の若手の盗賊たちは誰もが王直との交わりを喜んだ。あるとき相談しながら語り合う。「中国の法令は厳しく、ともすれば禁に触れる。海外で思いきり羽をのばすのがいいのではないだろうか」と。
仲間を引き連れ、巨船を建造すると、禁令を犯して東南アジアや日本と交易し、巨利を得る。一説によれば、1543年のポルトガル人による鉄砲伝来も、王直の船が種子島に漂着したことによるという。
やがて、五島や平戸にも拠点を構え、日明間の密貿易に暗躍した。

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  1. shinichi Post author

    王直 倭寇の大頭目となった漢人

    by 本村凌二

    http://sankei.jp.msn.com/life/news/121122/art12112208330003-n1.htm

     人間というものは自分が加害者であることに気がつかず、被害者であることだけを強調しがちである。それは国家の形でもしばしば起こる。

     中国は、明代のころ「北虜南倭」に苦しんでいた。北からは騎馬遊牧民のモンゴル人が迫り、東南沿岸部では倭人海賊である倭寇の暴威が吹き荒れたからだという。被害者意識まるだしのスローガンだが、その実像はどうなのだろうか。

     16世紀半ば、モンゴル人を率いるアルタンが北京を包囲する大事件が起こった。北京の住民は恐るべき騎馬遊牧民に震撼した。だが、これには明朝側にも責任がある。古来、遊牧民にとって中国との交易は生活に欠かせない経済活動だったが、明朝はこの通交を認めなかったのだ。

     この武力行使に屈した明朝は、馬市を開設したが、ほどなくモンゴル側との関係悪化で閉鎖してしまう。そのころ国内で弾圧された白蓮教徒を中心とする漢人たちが長城を越えて北方に逃れ、これらの逃亡漢人はなにかにつけアルタンの勢力の手助けをした。やがて、アルタンも老齢になると、和平交渉に応じるようになった。明への朝貢を義務づけられるとともに、北辺での馬市が認められた。

     同時代はまた、倭寇がはびこったときでもあった。だがこれもまた歴代の海禁令によって、民間の海上交易が禁じられていたからでもある。

     すでに16世紀の初めごろから、中国沿岸には密貿易の拠点がぽつぽつ姿を見せていた。海寇の頭目たちがマラッカのポルトガル人や日本の博多商人などを引きずり込んで巨万の富を得ていたという。なかでも、世紀半ばは大倭寇時代とよばれたが、それを担った巨頭が王直であった。

     山深く耕地の少ない内陸部の徽州ではいささかでも志のある青年は郷里を出て広域商業を営むことが少なくなかった。なかでも徽州商人は山西商人と並んで明清代の商業交易にめざましく活躍している。王直もその例外ではなく、塩商を営んだが、失敗してしまう。だが人間としては、かなり魅力的なところがあったらしい。

     若いころは不遇であったが、任侠的性格をもち、壮年になると智略と気前のよさで人々に信頼された。当時の若手の盗賊たちは誰もが王直との交わりを喜んだ。あるとき相談しながら語り合う。「中国の法令は厳しく、ともすれば禁に触れる。海外で思いきり羽をのばすのがいいのではないだろうか」と。

     仲間を引き連れ、巨船を建造すると、禁令を犯して東南アジアや日本と交易し、巨利を得る。一説によれば、1543年のポルトガル人による鉄砲伝来も、王直の船が種子島に漂着したことによるという。

     やがて、五島や平戸にも拠点を構え、日明間の密貿易に暗躍した。このような漢人を中心とする密貿易が倭寇の実態である。それらの集団から大頭目にのしあがったのが王直であった。とはいえ、ほとんど略奪行為のごときものもあり、内陸部に侵入することもあった。明朝は倭寇に手を焼き、処置に困ったのである。

     切り札は同郷のよしみをもつ高官だった。王直を招くために、捕えられていた王直の母と妻子を釈放し優遇する。五島にいた王直のもとに家族からの手紙が届けられ、感激した王直は帰国の決意をした。もちろん身の安全を保証するとの約束を得てのことだった。

     公のもとに降った王直は厚くもてなされ、律義な高官は約束どおり王直の罪の許しを朝廷に上申した。だが逆に、王直から賄賂をもらったとの嫌疑がかかる。やむなく王直は斬罪に処されてしまう。

     近代国家が生まれる以前、東シナ海は治外法権のごとき世界であった。倭寇とはいうものの、隣接地域の混成部隊であり、漢人が頭目である場合が多かったという。今さらながら、かの隣国は倭寇まがいのレッテル張りに余念がないのではないかと思えてならない。

     おう・ちょく 明代の倭寇の首領。徽州に生まれる。商人として明の海禁政策に反して日本と密貿易を行い、取り締まりに対抗して海賊集団を築く。肥前の戦国大名の松浦氏に招かれて平戸などを拠点に据え、貿易や明の沿岸襲撃を行う。1557年、明の高官の誘いに乗って帰国し、処刑された。

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