内田樹

日本人にも自尊心はあるけれど、その反面ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の真理を支配している、一種のかげのようなものだ。ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。

2 thoughts on “内田樹

  1. shinichi Post author

    「日本辺境論」、「日本属国論」というのは、2005年くらいから折に触れて論じた主題でした。もともとは自衛隊と9条2項の「矛盾」を論じた『9条どうでしょう』の論考を書いたときに得たアイディアです。
     9条と自衛隊の「矛盾」という「フェイクの問題」をめぐつて、改憲派と護憲派が半世紀にわたってドメスティックな議論してきた。それによって、私たち国民は「日本はアメリカの属国である」という事実を意識に前景化させることを回避し、かつまた政府はアメリカの軍事的同盟国として出兵させられる機会を先送りできた。
     よく出来た政治的装置だったと思います。そのときに、「日本人というのは、なかなかしたたかな国民だな」という印象を持ちました。
     でも、このような込み入った作業を私たちは意識的に行っているわけではありません。なんとなく、そうなってしまう。だとしたら、それは私たちの文化の深層に刻み込まれた「生き延びるための知恵」のようなものの発露ではないのか。そんなアイディアがふとひらめきました。
     本文でも触れた、岸田秀の「外的自己・内的自己」論は近代日本人に取り憑(つ)いた「狂気」を鮮やかに分析したものです。『9条どうでしょう』 の論考を書いたときに、私は岸田理論を踏まえて、「狂気を病むことによって日本人はどういう疾病(しっペい)利得を得たか~」という問題を立ててみました。そして、この狂気は、戦後日本に、差し引き勘定で相当の利得をもたらしたという結論に達しました。
     なるほど、「病むことによって利益を得る」ということもあるのか。でも、そのような複雑な手続きは、それなりの成功体験の蓄積がなければできないことです。このような「佯狂(ようきょう 狂ったふりをする)」戦略を日本人はいったいいつから、どういう経緯で採用し、どういう経験を通じてそれに熟達するようになったのか。それについて考えてみました。
     たしかに、「面従腹背」というのは私たちの得意芸の一つです。「担ぐ神輿(みこし)は軽い方がいいい」と言い放ったキングメーカーもかつていました。外来の権威にとりあえず平伏して、その非対称的な関係から引き出せる限りの利益を引き出す。これはあるいは日本人が洗練させたユニークな生存戦略なのかも知れない。ネガティヴな言い方をすれば「辺境人にかけられた呪い」ということになるのでしょうけれど、一つの社会集団が長期にわたって採用している生存戦略である以上、「欠点だらけ」ということはあっても「欠点だけ」ということはあるまい。欠点を補うだけの利点が何かあるに違いない。そういう視点からこの小論を書くことになりました。

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