善导

一者至诚心,所谓身业礼拜彼佛,口业赞叹称扬彼佛,意业专念观察彼佛,凡起三业,必须真实,故名至诚心;二者深心,即是真实信心,信知自身是具足烦恼凡夫,善根薄少,流转三界,不出火宅,今信知弥陀本弘誓愿,及称名号,下至十声一声等,定得往生,乃至一念无有疑心,故名深心。三者回向发愿心具此三心,必得生者,若少一心,即不得生。

2 thoughts on “善导

  1. shinichi Post author

    南無阿弥陀仏とは、「南無」はサンスクリット語のnamoの音写語で「わたくしは帰依します」を意味し、「阿弥陀仏」はサンスクリット語の「無量の寿命の大仏(amitaayus)」「無量の光明の仏(amitaabha)」の「はかることのできない」という部分のamitaを略出したものである。『一遍聖絵』には「なもあみたふ」と表記されているので、鎌倉時代には「なもあみだぶ」と発音していたようである。また、現在の天台宗では、古儀に則り「なもあびたふ」と唱えることが多い(「なむあみだぶつ」と唱える場合もある)。

    阿弥陀仏は、みずからの名号を称える者を浄土に往生せしめると本願に誓い、衆生の積むべき往生行の功徳のすべてを代って完成し、これを名号(南無阿弥陀仏)に収めて衆生に回向している。

    善導は、「南無」の二字と「阿弥陀仏」の四字、合わせて六字に関する釈義(六字釈)で明らかにしている。善導の書を見た浄土宗の開祖法然は南無阿弥陀仏と唱え阿弥陀仏に「どうか、私を救って下さいと」願う事で「阿弥陀仏に極楽浄土へ導かれる」と説いたが、法然の弟子であった親鸞は、これから「南無阿弥陀仏」は衆生が浄土に往生する因であるから、名号のいわれである「まかせなさい。必ず救うぞという仏の呼び声」を聞信すべきであるという、師法然とは異なる理解をした。親鸞は名号を本尊とし、六字のほかに九字、十字の名号を書いている。ちなみに、親鸞は「南無」を「なも」と発音しているから、浄土真宗本願寺派では「なもあみだぶつ」と呼び習わしている。俗に「なまんだぶ」「なんまいだー」としばしば唱えられる。南無阿弥陀仏と唱えることを念仏を唱える・名号を唱えるとも言う。

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