岡本嘉六

Okamoto価値観とは、ヒトがどう思うかということである。一つの事実に対して、10人いれば10通りの受け留め方がある。対象を見る位置が異なれば、見えるものは違う。対象物が常に変わらないこともあり得ない。同じ時に、同じ位置にいることはあり得ない。観察者が重なってしまうからであり、一身同体でない限り、あり得ない。ところが、平面図を見る限り、どの方向から見ても同じであると誤解しまう。このことが様々な錯覚を生む。しかし、たとえ絵画であろうとも、その時々の微妙な光のかげんによって印象が異なり、そのために照明に工夫を凝らす美術館がある。
正しいことと良いことが別物であることは、みんなが経験していることであろう。正しいこととは観念の世界であり、良いこととは相手が喜ぶ現実社会のことである。喜んでもらって良かったねというのが良いことである。他方、正しいことは当人の思い込みに過ぎないことがあり、相手に迷惑がられることが多々ある。何が正しくて、何が間違っているのかを判断する基準が価値観であり、それは個々人によって異なっている。
価値観の違いによる誤解が、個人的あるは国家社会的な様々な係争を生み出しており、人間は考える葦であるということは極めて厄介なことなのである。違う物指しを当てれば数値が違うのは当たり前のことであり、違った価値観で判断すれば結論が異なるのは当然である。しかし、自分の価値観を他人に押し付けることが平然となされているのではなかろうか? それに踊っている大衆が多いのではなかろうか?
うわさや占いは科学的根拠がないことであるが、多くの人々はうわさや占いで動いており、それを助長しているのがマスメディアである。テレビを付けると著名な占いオバタリアンが頻繁に登場し、あらぬことを口走っている。これが日本の現実であり、人々が問題としていることについてマスメディアが科学者を登用することは稀である。一般大衆の価値観とは異なる科学者を登用したら、視聴率が下がることが大問題なのである。登用する場合には、ディレクターから一般大衆の価値観に合わせるように事前に指示される。難しい科学用語は使わないようにと。一般大衆の価値観とは、うわさや占いのことである。

One thought on “岡本嘉六

  1. shinichi Post author

    「正しいこと」と「良いこと」

    鹿児島大学 岡本嘉六

    http://okamoto.agri.kagoshima-u.ac.jp/vetpub/dr_okamoto/Moromoro/justice.htm

    価値観とは、ヒトがどう思うかということである。一つの事実に対して、10人いれば10通りの、100人いれば100通りの受け留め方がある。対象を見る位置が異なれば、見えるものは違う。対象物が常に変わらないこともあり得ない。同じ時に、同じ位置にいることはあり得ない。観察者が重なってしまうからであり、一「身」同体でない限り、あり得ない。ところが、平面図を見る限り、どの方向から見ても同じであると誤解しまう。このことが様々な錯覚を生む。しかし、たとえ絵画であろうとも、その時々の微妙な光の「かげん」によって印象が異なり、そのために照明に工夫を凝らす美術館がある。

    「正しいこと」と「良いこと」が別物であることは、みんなが経験していることであろう。「正しいこと」とは観念の世界であり、「良いこと」とは相手が喜ぶ現実社会のことである。「喜んでもらって良かったね」というのが「良いこと」である。他方、「正しいこと」は当人の「思い込み」に過ぎないことがあり、相手に迷惑がられることが多々ある。「何が正しくて、何が間違っているのか」を判断する基準が価値観であり、それは個々人によって異なっている。

    このような複雑な人間の思考過程を対象とする自然科学分野もあるが、それは始まったばかりであり、広大な未知の世界である。人文科学においてどのような解析がなされ、どのような解答が出ているのか門外漢で判らないが、人間の判断基準=価値観を解明するとことまで至っていないと私は思っている。

    価値観の違いによる「誤解」が、個人的あるは国家社会的な様々な係争を生み出しており、「人間は考える葦である」ということは極めて厄介なことなのである。違う物指しを当てれば数値が違うのは当たり前のことであり、違った価値観で判断すれば結論が異なるのは当然である。しかし、自分の価値観を他人に押し付けることが平然となされているのではなかろうか? それに踊っている大衆が多いのではなかろうか?

    「うわさ」や「占い」は科学的根拠がないことであるが、多くの人々は「うわさ」や「占い」で動いており、それを助長しているのがマスメディアである。テレビを付けると著名な占いオバタリアンが頻繁に登場し、あらぬことを口走っている。これが日本の現実であり、人々が問題としていることについてマスメディアが科学者を登用することは稀である。「一般大衆の価値観」とは異なる科学者を登用したら、視聴率が下がることが大問題なのである。登用する場合には、ディレクターから「一般大衆の価値観」に合わせるように事前に指示される。「難しい科学用語は使わないように」と。「一般大衆の価値観」とは、「うわさ」や「占い」のことである。

    ある意味では、「良いこと」をするのは相手の反応がはっきりしているから容易である。100円施しをすれば100円分喜んでもらえ、1万円施しをすれば1万円分喜んでもらえる。他方、「正しいこと」をしても、普通は、喜んでもらえない。それどころか、注意をすると逆恨みをかって殺される世の中である。「良いこと」は気楽にできるが、「正しいこと」は命がけでしなければならないことである。これは、今に始まったことではなく、古来、繰り返されてきたことである(宗教弾圧、地動説など科学者弾圧)。

    すなわち、「良いことをしなさい」と気楽に言えるが、普通のヒトは「正しいことをしなさい」とはなかなか言えない。収賄、贈賄といったニュースが氾濫しているが「良いこと」という一本線の序列の延長であり、「正しいこと」を求める求道者が激減した現状を反映している。

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