岡本嘉六

モラルって何だろう? マスメディアに氾濫しているカタカナ語を日本語で理解している日本人はどれほどいるのか? 日本語は英語の発音をそのままカタカナ語にできる便利な機能を備えており、カタカナにすれば判った気分になり、カタカナ英語を使えばインテリとして通用する。そんなバカな と思う方もいるだろうが、そうではない。たとえば、リスク・コミュニケーションを情報交換とせず、リスコミと短縮するのが通であり、まさにミニスカ、パンチラの世界が展開している。
これは大学においても同様であり、シラバスという用語がアメリカから入ってきた際に授業計画と訳せなかったばかりに、「入学時にシラバスを学生に配布しなければならない」といった訳の判らない話になった。4年~6年の修学年限の間にそれぞれの学問分野は進歩しており、入学時に授業計画を配布してその通りに実行したら時代遅れの教育となってしまう。かつて、「エージェンシー化」という用語が汎用された時期があったが、それが意味することが国家公務員から各種の法人組織に転換することであったことは、今になって判ることである。曖昧模糊、融通無碍のままに世論を誘導するためにカタカナ語が利用されてきた。官僚を批判するマスメディアもそれに同調してきたのであり、カタカナ語による日本文化の退廃である。
さて、今進行している世界情勢を理解するキーワードは何だろうか? 紛れもなくアメリカである。アメリカの金融危機が日本を含む世界の金融界を巻き込んで世界恐慌を引起すかどうかが注目されている。そして、世界恐慌の次に用意されているのが、第二次世界大戦前と同様の深刻な国家間対立である。「他者に対して施す」ことの意義は尽くせぬが、そうできなくなった富裕層が自己防衛に走り、人倫が崩壊したら、世界はどう変わるのか?
この激動の時代を報道する記者達には、刻々と変化する事態を伝える責務があるが、その手段としての言葉は英語を中心とする外国語であり、それを大多数の日本人が理解できる日本語に翻訳する作業が付きまとっている。フツーの日本人が理解できる固有名詞以外はカタカナ表記をしないでいただきたい。現在よりも激動の時代であった明治新政府の統治下において、カステラやキャラメルなどの固有名詞以外は日本語表記されていたことを重く受け止める必要がある。安易なカタカナ表記は止めるべきである。

2 thoughts on “岡本嘉六

  1. shinichi Post author

    カタカナ語のマヤカシ

    鹿児島大学 岡本嘉六

    http://okamoto.agri.kagoshima-u.ac.jp/vetpub/dr_okamoto/Moromoro/KATAKAN%20English.htm

    日本人は多神教であり、一神教の民族からすると正邪、善悪、白黒の区別が曖昧な不可解な民族と思われてしまう危険性を秘めている。曖昧模糊、融通無碍が日本人の特色とされてしまいかねない。複数のヒトを殺しても、殺人者よりも被害者の人権を擁護して「死刑が妥当である」と言おうものなら、マスメディアの総反撃を食らう。精神鑑定をすべきである! ヒトを殺す際に正常な精神状態であればヒットラーか東条英機であり、フツウーの人間では精神的錯乱状態にならなければヒトは殺せない。平常心に戻った殺人者の精神鑑定の意味は何なのか? 殺人狂を許容する寛大な民族なのだろう。そして裁判員制度が間もなく発足する。誰が裁判員に任命されるか宝くじのようなシステムであり、3億円当った当選者はラッキーだが、裁判員に当った方は自分の信念を貫くかマスメディアの総反撃を食らうかの選択を迫られる。

    それはともかく、日本の民主主義の原点はアメリカ民主主義であり、戦前のドイツを範とした明治憲法からの変遷を知る必要があろう。漫才師が政治家より多額の収入を得ており、まともに国を憂うる人間よりも、面白可笑しくギャクを飛ばすために頭を使うことが金になる社会である。芸能人は麻薬などの不祥事を犯しても直ぐに復活できるが、政治家は一寸した贈収賄が報じられると全ての政治生命を断たれる。そして、占領体験のない世代が大半を占め、世界の大国として快楽に興じることがベストであると信じている世代が、それは叶わないと知って自暴自棄になり、無差別殺人が多発している。なんとも素晴らしい日本的マスメディア民主主義が展開されている。

    モラルって何だろう? マスメディアに氾濫しているカタカナ語を日本語で理解している日本人はどれほどいるのか? 日本語は英語の発音をそのままカタカナ語にできる便利な機能を備えており、カタカナにすれば判った気分になり、カタカナ英語を使えばインテリとして通用する。そんなバカな と思う方もいるだろうが、そうではない。たとえば、リスク・コミュニケーションを情報交換とせず、リスコミと短縮するのが通であり、まさにミニスカ、パンチラの世界が展開している。

    これは大学においても同様であり、シラバスという用語がアメリカから入ってきた際に授業計画と訳せなかったばかりに、「入学時にシラバスを学生に配布しなければならない」といった訳の判らない話になった。4年~6年の修学年限の間にそれぞれの学問分野は進歩しており、入学時に授業計画を配布してその通りに実行したら時代遅れの教育となってしまう。かつて、「エージェンシー化」という用語が汎用された時期があったが、それが意味することが国家公務員から各種の法人組織に転換することであったことは、今になって判ることである。曖昧模糊、融通無碍のままに世論を誘導するためにカタカナ語が利用されてきた。官僚を批判するマスメディアもそれに同調してきたのであり、カタカナ語による日本文化の退廃である。

    さて、今進行している世界情勢を理解するキーワードは何だろうか? 紛れもなくアメリカである。アメリカの金融危機が日本を含む世界の金融界を巻き込んで世界恐慌を引起すかどうかが注目されている。そして、世界恐慌の次に用意されているのが、第二次世界大戦前と同様の深刻な国家間対立である。「他者に対して施す」ことの意義は尽くせぬが、そうできなくなった富裕層が自己防衛に走り、人倫が崩壊したら、世界はどう変わるのか?

    この激動の時代を報道する記者達には、刻々と変化する事態を伝える責務があるが、その手段としての言葉は英語を中心とする外国語であり、それを大多数の日本人が理解できる日本語に翻訳する作業が付きまとっている。フツーの日本人が理解できる固有名詞以外はカタカナ表記をしないでいただきたい。現在よりも激動の時代であった明治新政府の統治下において、カステラやキャラメルなどの固有名詞以外は日本語表記されていたことを重く受け止める必要がある。安易なカタカナ表記は止めるべきである。

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  2. shinichi Post author

    (sk)  ふたつ続けて岡本嘉六の文章を持ってきてしまった。ふたつめはカタカナのこと。私にとっては切実なことなので、どうしてもメモしておきたかったのだ。

    外国語を日本語にしようとするときの苦労。私は翻訳が下手なので、その苦労は並大抵のものではない。

    適当な日本語が浮かばないときには辞書に行く。大概の場合、インターネット上の辞書で用が足りる。英和なら、「英辞郎 on the Web」 を使う。「YellowBridge」や「Larousse」にもお世話になっている。

    問題は、辞書で見つからない場合だ。辞書に並んでいる単語のどれもがしっくりこない時。適当な日本語が浮かばない時。そんな時ほど、自分の能力のなさを呪うときはない。

    もし頭が冴えていれば、まったく違う言い回しで同じ事を言う。ただ、ほとんどの場合、それもできない。そして。。。そう、カタカナに逃げるのだ。

    岡本嘉六はカタカナを使うなと言うけれど、適当な日本語が浮かばないことって、本当に多いのだと、声を大にして言いたい。浮かばないというより、適当な言葉が存在しないことは、ことのほか多い。日本語はみんなが思っているほど「リッシュ」でない。

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