友添秀則

Tomozoe戦前の体育は,構造的には「身体の教育」と「精神の教育」という2 つの柱に分類できると思われる。この場合の「身体の教育」とは, 国家的ミリタリズムに奉仕する国民の育成を身体的側面から可能にする体育である。他方,「精神の教育」は,身体の教育によって形成された強健な身体へ, ミリタリズム・イデオロギーを体操や遊戯という運動を媒介にして注入し, 従順な臣民的態度の形成を道徳的側面から可能にするものであった。
戦後の体育は戦前の軍国主義的な体育の払拭が大きな課題となった1947年の学校体育指導要綱には,「明朗・同情・他人の権利の尊重・礼儀・誠実・正義感・フェアプレー・団体の福祉に対する協力・克己と自制・法及び正しい権威に対する服従・社会的責任を果たす能力・情況に応じてよい指導者となり,よい協力者となる能力」が,人間形成的目標として掲げられ,これらはこの後の学習指導要領の原型となっていく。1950 年代中半以降の学習指導要領は大綱化され要点のみが記されていくようになるが,体育ではこれ以降, 一貫して運動による教育を通して, 道徳的・社会的な態度の形成が, 身体や技術の教育と並んで, 主要な目標として掲げられ, このような人間形成的目標が体育の教科論や具体的な実践に反映されるようになる。そして, 高度経済成長が続く産業社会下では, 運動の効果的特性論に立って, 強い体力を備え, 運動技能に習熟した民主的社会の形成者たるべき人間の形成がめざされることになる。

スポーツっていうのは、命令と服従の中でやってくると、あんまりものを考えない、従順な人が育ってくるというふうに言われているんですね。
確かに、これまで企業、安定した経済状況の中で、右肩上がりの中では、組織の歯車として、非常に従順で丈夫で、明るくて有能だっていう体育会系の人材っていうのが求められてきたとは思うんですけれども、これからの社会、例えばグローバリゼーションがどんどん進展していくような社会、あるいは国際化がもっと進展する中で情報化が進んでいくような社会の中では、例えば、歯車で自分の役割を果たすだとか、あるいは服従と命令の中で動くような人材が本当に求められてくるのかというと、決してそうじゃないと思うんですね。
スポーツっていうのは、多様な価値があると思うんですね。
勝ち負けも、確かに大事な価値の1つなんだけども、そうじゃない、例えば、相手と自分がお互いに卓越性というか、より高い次元を求めて相互に協力し合いながら追求していくという文化でもあるんですね。
そういう意味でいうと、相手は敵でも何でもなくて、パートナーなわけですね。
そういうスポーツの多様な価値観を身につけていく、あるいは、自由と自主性の中で創造的な発想力を持ちながら、本来のスポーツのあり方で育ってくる人材、こういう人材こそが、これからの社会でまた一層求められていくのではないかというふうに思います。

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