田中真知

TanakaMachiマララをめぐる過度な報道に西側のプロパガンダ臭が最初からついてまわっていたのはたしかだ。彼女の意見はパキスタン国内でかならずしも支持されているわけではなく、国連スピーチのあとは西側メディアの賞賛とは裏腹に、パキスタンのオンラインサイトは、マララのスピーチに対する反発のコメントであふれかえったという。
気の毒な少女が平和や教育の大切さを訴えれば、だれだってそれを表立っては批判しにくい。実際、マララという少女は勇気ある、高潔で、賢く、まっすぐな女性なのだと思う。しかし、だからこそ問題なのだ。問題はマララのスピーチの中にあるのではなく、そうしたまっすぐな子どもをプロパガンダの宣伝材料にする、というやり口にある。そうした少女が国連のスピーチで世界の賞賛を受け、ノーベル平和賞候補にまで祭り上げられる陰で、米軍の無人機による攻撃で昨年だけで300人以上、これまでには2000人以上が殺され、しかもそのほとんどが民間人であるという事実はほとんど顧みられていないとは、どういうことなのか? 
もっとも、子どもを戦争に利用するというのであれば、タリバーンだって同じである。子どもを誘拐して「自爆テロをすれば天国に行ける」と教え込んで送り出すというやり方は「罪のないムスリムの血を流すこと」にはならないのか。こうした自爆テロにかり出される少年兵たちについての報道もまた西側による誇張されたプロパガンダなのだろうか。どちらの発表も、どこまでが事実なのかどうか報道を見ているかぎりでは、よくわからない。現在では、あらゆる報道に、それを支えるイデオロギーやプロパガンダといったバイアスがかかっている。
たしかにいえるのは、このグローバル化の進んだ世界では、西洋的な教育と学校が自由や平等や平和をもたらすという考え方が、かならずしも正しいとはいえないことだ。現在いわれている自由も平等も平和もイデオロギーでしかない。エジプトでも一時期いわれていたが、女性が髪をおおっているヴェールをひきはがすことが、はたして「自由」といえるのか、ということだ。圧倒的な強者たちの中に弱者が「この世界は平等なのだから」と追いやられ、自由競争にさらされたら、ひとたまりもない。

One thought on “田中真知

  1. shinichi Post author

    タリバーン幹部からマララへの手紙

    by 田中真知

    王様の耳そうじ

    http://earclean.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-bf6a.html

    昨年10月にタリバーンに頭を撃たれたパキスタンの16歳の女性マララ・ユスフザイ。やっと怪我から回復した彼女が、さる7月12日にニューヨークの国連本部で行ったスピーチは感動的なものとしてメディアで大きく取りあげられ、「マララさんにノーベル平和賞を」という動きまで起きているという。それはテロリズムや暴力によって子どもたちが教育の機会を奪われることがないように先進諸国に支援を求めるとともに、暴力ではなくペンによって戦うことを訴える内容だった。

    そのマララに宛てて、数日前、パキスタンのタリバーン運動(TTP)の幹部アドナン・ラシードが書いたという反論の書簡が公開された。アドナンは、このような事件が「起きてほしくはなかった」とする一方、「タリバーンは教育そのものに反対しているわけではなく、あなたのプロパガンダが問題とされたがゆえに、あなたを襲撃したのだ」と書いている。

    その反論や弁明にはいいわけがましい印象を受けるのもたしかだが、この書簡には西側諸国が主導してきたグローバライゼーションに対する、彼らの切実な危機感がよく表れているように思った。日本語の報道の多くは「こんな書簡が公開された」というだけで、内容には深くふれていない。

    アドナンは書いている。「英国が侵攻してくる前、インド亜大陸の教育程度は高く、ほとんどの市民は読み書きができた。人びとは英国人士官にアラビア語やヒンドゥー語、ウルドゥー語、ペルシア語を教えていた。モスクは学校としても機能し、ムスリムの皇帝は莫大な資金を教育のために費やした。ムスリム・インドは農業、絹織物産業から造船業などで栄え、貧困も、危機も、宗教や文化の衝突もなかった。教育のシステムが高貴な思想とカリキュラムに基づいていたからだ・・・。

    アドナンは、英国の政治家トマス・マコーリーがそうしたイスラム的な教育システムをくつがえして、肌の色と流れる血はインド人でも、趣向や思想、道徳観や知性は英国人、つまり英国かぶれのインド人という階級を打ち立てるために全力を尽くしたことにふれ、「それこそがあなたが命がけで守ろうとしている、いわゆる〈教育システム〉だ」と述べる。

    「あなたが世界に向けて語りかけている場所、それは新世界秩序をめざそうとしているものだ。だが、旧世界秩序のなにがまちがっているのか? (新世界秩序を唱える人びとは)グローバルな教育、グローバルな経済、グローバルな軍隊、グローバルな貿易、グローバルな政府、そしてついにはグローバルな宗教を打ち立てようとしている。私が知りたいのは、そうしたグローバルな計画の中に予言的な導きというものが入り込む余地があるのかということだ。国連が非人間的・野蛮というレッテルを貼ったイスラム法の入る余地はあるのかということだ。・・・

    「あなたはポリオの予防接種のチームに対する襲撃について語っている。だが、それなら1973年にユダヤ人である米国のキッシンジャー国務長官が第三世界の人口を80パーセントまで減らそうとしたことをどう説明するのか? 国連機関の主導のもとで避妊手術と優生学的なプログラムがさまざまな国で、いろんな形で進められたのはなぜなのか? ウズベキスタンでは100万人のムスリム女性が本人の同意なく強制的に不妊手術を受けさせられた。・・・バートランド・ラッセルは述べている。『食事と注射と強制命令を組み合わせれば、きわめて低年齢の段階で、当局にとって望ましい性格や考え方をもつ人間を生み出せる。権力を厳しく批判することなど心理的にできなくなるだろう』と。だからこそ、われわれはポリオ・ワクチンの予防接種に反対するのだ。・・・

    「正直に答えてほしい。もしあなたがアメリカの無人機によって銃撃されたのだとしたら、はたして世界はあなたの医学的容態に関心を示しただろうか? 国の娘だと呼ばれただろうか? キヤニ陸軍参謀長があなたを見舞いに来たり、メディアがあなたを追いかけたり、国連に招かれたりしただろうか? 300人以上の罪のない女性や子どもたちが無人機(ドローン)の攻撃によって殺されてきた。でも、だれも関心を示さない。なぜなら、攻撃者たちは高い教育を受けた、非暴力的で、平和を愛するアメリカ人だからだ。・・・

    書簡は、罪のないムスリムの血をこれ以上流すことがないように、と呼びかけるとともに、マララに対して、故郷に帰ってイスラムとパシュトゥン人の文化を学び、マドラサ(イスラム神学校)に通ってクルアーンを学び、イスラムとムスリム共同体のためにペンを用い、新世界秩序という名のもとの邪悪な計略のために、人間性を隷属させようとする一部のエリートの陰謀をあばくようにというアドバイスでむすばれている。

    この書簡に述べられたことに筋が通っているかどうかはべつとして、マララをめぐる過度な報道に西側のプロパガンダ臭が最初からついてまわっていたのはたしかだ。マララが11歳のときからつけているという反タリバーン的な内容の日記が2009年にBBCラジオで流されたことがきっかけで、彼女は反タリバーンのオピニオンリーダーに祭り上げられた。そこには彼女の通っていた学校を運営する、詩人でもある彼女の父親の影響も当然強いだろう。だが、彼女の意見はパキスタン国内でかならずしも支持されているわけではなく、国連スピーチのあとは西側メディアの賞賛とは裏腹に、パキスタンのオンラインサイトは、マララのスピーチに対する反発のコメントであふれかえったという。

    http://online.wsj.com/article/SB10001424127887323309404578612173917367976.html?mod=wsj_share_tweet

    http://www.thenews.com.pk/Todays-News-9-190730-Malala-and-mattersof-the-mind

    気の毒な少女が平和や教育の大切さを訴えれば、だれだってそれを表立っては批判しにくい。実際、マララという少女は勇気ある、高潔で、賢く、まっすぐな女性なのだと思う。しかし、だからこそ問題なのだ。問題はマララのスピーチの中にあるのではなく、そうしたまっすぐな子どもをプロパガンダの宣伝材料にする、というやり口にある。そうした少女が国連のスピーチで世界の賞賛を受け、ノーベル平和賞候補にまで祭り上げられる陰で、米軍の無人機による攻撃で昨年だけで300人以上、これまでには2000人以上が殺され、しかもそのほとんどが民間人であるという事実(米軍はそれを事実と認めていないが)はほとんど顧みられていないとは、どういうことなのか? 

    もっとも、子どもを戦争に利用するというのであれば、タリバーンだって同じである。子どもを誘拐して「自爆テロをすれば天国に行ける」と教え込んで送り出すというやり方は「罪のないムスリムの血を流すこと」にはならないのか。こうした自爆テロにかり出される少年兵たちについての報道もまた西側による誇張されたプロパガンダなのだろうか。どちらの発表も、どこまでが事実なのかどうか報道を見ているかぎりでは、よくわからない。現在では、あらゆる報道に、それを支えるイデオロギーやプロパガンダといったバイアスがかかっている。

    たしかにいえるのは、このグローバル化の進んだ世界では、西洋的な教育と学校が自由や平等や平和をもたらすという考え方が、かならずしも正しいとはいえないことだ。現在いわれている自由も平等も平和もイデオロギーでしかない。エジプトでも一時期いわれていたが、女性が髪をおおっているヴェールをひきはがすことが、はたして「自由」といえるのか、ということだ。圧倒的な強者たちの中に弱者が「この世界は平等なのだから」と追いやられ、自由競争にさらされたら、ひとたまりもない。

    話は変わるけれど、ケニアでは学校教育が義務化されたことによって、牧畜民であるマサイが青少年期に学校へ通わなくてはならなくなった。しかし、伝統的なマサイの年齢階梯では、ちょうどこの就学期が「戦士」としての修行と遍歴の期間にあたる。この戦士としての時代は10年以上つづき、その間にマサイは世界と自分の民族についての、さまざまな知識を学び、体験を積み、ライオン狩りといった試練を経て、誇りと知恵と力を身につけた一人前の存在となる。

    この戦士期間が、彼らにとってどれほど特別なものであるか、マサイの旦那さんをもつ日本人女性の永松真紀さんから聞いたことがある。「グローバル」な教育を受けることで、英語の読み書きができるようになったりはするかもしれないけれど、戦士という伝統だけがあたえられるマサイとして生きることの尊厳のようなものは、この先、どんどん失われていくだろう。チャンスをものにして、グローバルな社会の中で成功する人たちもいるかもしれないが、伝統から引き離されて、自分の生き方に尊厳を感じられずにつぶれていく人たちだってきっといるだろう。

    むろんそのことと、アフガニスタンの女性が教育機会を奪われていることとは同列には語れないけれど、その背景にあるグローバリズムに対する期待と危機感には共通するものがあるように思う。世の中とは変化するものだ。それも時代の必然だといってしまえば、それまでだけれど、現在の日本にあって、グローバルという名の一律な価値観や尺度にさらされながら、こんなんでよかったんだろうかと感じることの多い今日この頃だけに複雑だなあ。

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