時事ドットコム

RedCross2多くの尊い命が奪われた先の大戦では、戦場で傷ついた傷病者を救護するため、日本赤十字社の救護看護婦たちも次々と戦地へ旅立っていった。女性の身でありながら、出征兵士と同様、「召集状」と書かれた赤紙1枚で動員され、各地で救護班が編成された。
その派遣先は満州や中国大陸、東南アジアにまで及び、傷病将兵や一般人の救護に当たった。しかし、戦況の悪化とともに過酷な勤務を強いられ、戦闘行為に巻き込まれたり、終戦後も長期に抑留されたりするなど、筆舌に尽くしがたい運命をたどった。

肥後喜久恵
「侵略してもされても、戦争は戦争です。戦争という手段で物事を解決することは絶対に反対です。それは即、人の命を奪うことですから。どんな戦争も嫌です」
「気持ちを支えてくれたのは日赤の精神です。私はそこに戻りました。博愛。あの当時はそうでした。今でもそうです。医療というのは人種、年齢、全然差別はないですね」

13 thoughts on “時事ドットコム

  1. shinichi Post author

    戦地にささげた青春 元日赤従軍看護婦の証言

    時事ドットコム

    http://www.jiji.com/jc/v4?id=jrcnurse0001

     多くの尊い命が奪われた先の大戦では、戦場で傷ついた傷病者を救護するため、日本赤十字社の救護看護婦たちも次々と戦地へ旅立っていった。女性の身でありながら、出征兵士と同様、「召集状」と書かれた赤紙1枚で動員され、各地で救護班が編成された。

     その派遣先は満州や中国大陸、東南アジアにまで及び、傷病将兵や一般人の救護に当たった。しかし、戦況の悪化とともに過酷な勤務を強いられ、戦闘行為に巻き込まれたり、終戦後も長期に抑留されたりするなど、筆舌に尽くしがたい運命をたどった。

     戦後70年近くなるこの時期に、日赤本社の協力を得て、元日赤従軍看護婦への長時間インタビューが実現した。自らの命も顧みず働いた戦時の記憶を今とどめなければ、語り継がれる機会が失われるとの思いに動かされた。

     平和な今の時代には、想像することすらできない極限の状況下で、自分たちの使命を果たそうと、ただひたすら努力し、青春をささげた女性たちの声を紹介する。

    聞き手:時事通信社解説委員 宮坂一平

    Reply
  2. shinichi Post author

    貧しさと時局 

    肥後喜久恵(ひご・きくえ)さん

     私は1924(大正13)年、長野県の伊那谷の養蚕農家の次女として生まれました。31(昭和6)年9月18日、小学校1年の時に柳条湖事件、いわゆる満州事変が起き、37(昭和12)年7月7日には(日中戦争の引き金となる)盧溝橋事件、その翌年に国家総動員法が制定され、本当の戦争へと入っていきました。

     日赤の救護看護婦になったのは、貧しかったことと時局ですね。お金がなかったものですから、お嫁に行くときはたんすもいらないし、着物もいらないから、女学校に行きたいと父に条件を出し、聞き入れてもらいました。ところが、当時は英語は敵国語、外国の歴史はいらない、物理もいらない。女学校でやったことは植林や、食料増産のための大豆やばれいしょ作りでした。

     もう少し学びたいと思ったのですが、家にはもうお金がありません。それで、お金がかからず、やりたい勉強がもっとできる、語学もできる、お国のためにもなると考えれば、日赤しかないと。それで試験を受けたのです。

     小学校では、「キグチコヘイ ハ シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセンデシタ」と教わりました。そういう時代に育ちました。軍国の乙女に育てられたんでしょうね。すべてを戦争にという時代でした。

     日赤は、寮がただ、お小遣い5円をいただきました。白衣も貸してくれます。食事もただです。教育費もいりません。3年間勉強すれば看護婦の資格が取れます。でも、ドイツ語の勉強は私が入った年からなくなってしまいました。代わりにしたのは担架教練でした。

     女学校を卒業して日赤長野の看護学校に入ったのは昭和16年、16歳のときです。通常は1クラス20人のところが倍の40人、石川県から委託を受けてさらに20人の総勢60人で勉強しました。その年の12月8日には、太平洋戦争が始まりました。

    Reply
  3. shinichi Post author

    応召そして満州へ

     3年間勉強するはずが、繰り上げで半年早く卒業して、田舎に帰って裁縫と家事の教師をしていました。

     応召は昭和19(1944)年3月。召集状をもらい、日赤に行ったんです。長野駅を出発するときは、白いエプロンを掛けた愛国婦人会の人たち4、5人が白いユリの花を抱えてそっと送ってくれただけです。列車は駅を出るとすぐにブラインドが下ろされました。262班の満州への出発でした。

     下関から船に乗り、釜山を経て奉天で乗り換え、着いたのは大連です。大連で思ったのは、「戦争(の暗い影)がない」ということでした。パンでも、ご飯でも、ジャムでも、食べられるだけ食べていいんです。街を歩いている人も自由な服。学生はセーラー服、お母さんはきれいな着物に帯を締めて。店には何でも売っています。シャツでも、着物でも、洋服でも、自由に買えるんです。衣料切符がいりません。日本では手ぬぐい1本買うにも切符でした。びっくりしましたね。

     一方で、現地の人たちの生活はすごい。服を着てるか着てないか分からないような子供たち。部隊から宿舎に帰るとき、「看護婦さーん、お金ちょーだい」と日本語で言って、ついてくるんです。困った私たちが「兵隊さーん」と言うと、クモの子を散らすように逃げていきました。仕事のない中国人労働者が集まる場所では、毎朝1人か2人死んでいましたが、誰もお構いなしでした。

     長野を離れて遠くに来たので寂しさは募ります。友達と2人でアカシアの花が咲く大連の埠頭(ふとう)に出て、精いっぱい「湖畔の宿」を歌うんです。涙を流しながら歌うと、今度は戦争の歌を元気よく歌って宿舎に帰りました。

     病院には肋膜(ろくまく)の患者さんが大勢いました。熱湯を使った湿布をするんですが、朝1回、夕1回、綿の入った木綿を熱湯に入れて絞ります。患者さんは1人じゃないですから、手の皮が全部むけるんです。お薬はほとんどありませんでした。でも病院はのんびりしていました。

     約2カ月後、6月ごろに転属命令が出るんです。万里の長城の山海関の近く、興城第一陸軍病院というところです。首山という大きな山がありました。そのふもと。満州一大きな病院です。

    Reply
  4. shinichi Post author

    興城陸軍病院

     駅を降りて初めて、召集されて外地に従軍看護婦として来たんだなと思いました。草原が広がっているんです。大草原の中の駅に降り立ち、細い道を1時間歩いて見えたのが、点々としたバラックです。10棟くらいあったでしょうか。そこが興城第一陸軍病院だったんです。

     その一つを宿舎にして寝ました。仕切ってあって2人ずつ入れるんですが、横になると星が見えるんです。

     8月の終わりごろ、渤海湾の近くに本館ができました。北支、北京の陸軍病院から送られてくる患者さんを診るための内科が主な病院でした。大きな素晴らしい病院で、そこへ移りました。ちょっと離れたところには温泉保養所もあって、いいところでした。満州にしては暖かいし。

     病院は、日赤の長野班、高知班、神奈川班、熊本班が入って仕事をしていました。陸看(陸軍看護婦)はいませんでした。

     もうそのころは、日本から薬は来ません。私が勤務したのは内科病棟で、重症もいれば軽症もいる、混合の病棟でした。患者は栄養失調で骸骨のようになった人や、全身が疥癬(かいせん)になってしまった人などです。

     疥癬の塗り薬はもう薬局にないわけです。でもどうにかしなきゃならない。それで薬局から硫黄をもらってきて、兵隊さんに頼んでお百姓さんから小豆をもらい、すり鉢ですって硫黄をぶち込み、混ぜたものを頭からお尻まで全身に塗って、「お日さまに当たりなさい」と言ってベランダに並べるんです。それでも炎症は少しずつ治っていきました。

     草原のバラック病棟で一番記憶に残っているのは、結核の排菌が出ている人を1カ所に集めた場所で看護していたときのことです。重症になった患者さんが、壁の木の節穴を指して、「看護婦殿、母と姉が面会に来る」と言うんです。「どこ、どこ」と尋ねると、節穴を指して「もうすぐ来る。あ、今橋を渡った」と。ずっと言い続けて亡くなっていきました。

     千人針を弾よけとして腹帯にしている人もいましたが、それらを一枚一枚外し、横になって眺めながら、ばたっといってしまうんです。

    Reply
  5. shinichi Post author

    火葬の煙に手を合わせ

     私は、兵隊さんは「天皇陛下万歳」と言って死んでいくと聞いていました。教育でそう習いました。しかし、「お母さん、お姉さん、お父さん」と言いながら死んでいく。本当なんです。

     亡くなっても誰も手伝ってくれません。衛生兵さんが持ってきたお棺の中に亡くなった人を1人で移すんです。お棺の中には白い病衣を着た患者さんがコトンといるだけ。あまりにかわいそうなので、病棟の外にいっぱい咲いている紫のアザミのような花を一抱え取ってきて、棺の中に入れ、ふたをしました。

     次の日の朝、夜勤明けで帰るころ、首山のふもとには焼き場があって、毎日亡くなった人の火葬の煙が上がっているのを見て、手を合わせながら宿舎に帰りました。

     10月からは、陸軍看護婦生徒の養成制度が始まりました。二つの目的があったんです。日本からもう看護婦を呼べない、患者は増える一方だということ。大連は戦時下の雰囲気がなく、盛り上げなければということもあったと思います。

     六つの女学校があり、その最上級生を募集して連れてきたんです。教育隊の教官は軍医(大尉~少尉)、生活上の責任者は満州の陸軍病院から最も優秀な婦長さんを4人連れてきたんです。その下は助手。生徒と起居を共にしながら教える最低のところが看護婦だったんです。興城第一に務める赤十字から、私を含め4人が選ばれました。

     生徒が来たのは11月。みんないいところのお嬢さんなんです。内地とは違います。自宅には小間使いさんたちがいます。ペチカがたけず、困りました。厚い軍隊用のシーツを泣きながら洗濯させられたり、軍人勅諭を暗唱させられたり。

     でも、6カ月たつと見違えるようになって。最後の検閲を経て、立派になりました。第1期生は奉天や興城など、四つの陸軍病院での臨床実習に送り出しました。

    Reply
  6. shinichi Post author

    「日本は負けた」

     それからまた、倍の人数、240人くらいを2期生として集めたんですね。その途中の昭和20年8月15日、外の訓練に60人くらい連れて出て、部隊の裏門まで戻り、「全員解散」と言って、私が最後に門の中に入ろうとしたときでした。衛兵に「おい、ちょっと待て」と呼び止められ、「生徒たちには言うなよ、だけど日本は負けた」と知らされました。「やっぱり」という気持ちでした。

     それより前のことです。長野県松本出身の将校から、「今年いっぱいまで日本はもたんよ」と言われたんです。広島にものすごく大きな爆弾が落ちたと聞いていました。

     夕方になって、全部隊に負けたことが告げられると、生徒たちは「家へ帰りたい」と泣きだし、看護婦の中には日の丸の手ぬぐいを額に巻いて、「敗戦なんてうそだ」と言う人もいましたが、私は早く家へ帰りたいと思っていました。

     夜になり、兵隊さんにお酒が入り始めると、歌う人、踊る人、怒る人、泣く人、もうさまざまです。将校は肩章や襟章をむしり取って投げる。サーベルを抜き、窓ガラスを割る、椅子を投げつけて教室の窓を割る。

     しかし、翌日は何事もなかったかのように、いつもの部隊に戻りました。部隊長から「衛生材料室を開けるから、好きなものを持っていきなさい」と言われました。兵隊は薬とか医療器材とかを持って行きましたね。私たちが行ったときには綿とか、ガーゼくらいしかありませんでした。

     次の日、南満州では珍しく、ものすごく雨が降ったんです。営庭は私たちの膝下くらいまで水が来ていました。私たちには竹やりが配られ、それを持って荷物を背負って、病院の防空カーテンを外して頭からかぶって雨よけにして、外へ出たのです。

     近くの民家には、いつも立っていた日の丸の旗がなく、私たちが雨の中をしょぼしょぼ歩くのを何人かがせせら笑っているんです。雨が降るのでカエルも鳴きます。もうたまらないです。負けたって感じですね。友達が、「平家の都落ちってこんな感じかしらね」と言うんです。私は「うん」と言ったきり、何も言えなくて。

    Reply
  7. shinichi Post author

    八路軍に武装解除され

     やっと駅まで来て、乗った汽車はぎゅうぎゅう詰めです。立ったまま、進んだり止まったり、大変な状態のまま、奉天の近くまで来て動かなくなり、元日本人女学校の校舎に患者も医者も私たちも移動したわけです。

     私は生徒を大勢連れていました。全員が大連から来た生徒で、帰すまでは身動きが取れません。満鉄の日本人に何とかコネをつけ、穀物を運ぶ貨物列車の中に紛れ込ませ、一人も欠けることなく送り届けたんです。

     ある朝、11月の初めですか、窓の外をふと見ると、鉄砲を担いだ兵隊が見えるんです。校庭にはこっちを向いた大砲が一つ置いてあり、八路軍(中国共産党軍)の軍服を来た兵隊がダァーッと中に入ってきて「外へ出ろ」と言うんです。私は、「来るときが来た」と思いました。

     私は父母の写真と腕時計と万年筆とお金、それに部隊を出るときに「生徒に何かあったら飲ませろ」ともらった青酸カリを持って、オーバーを着て出たんです。

     部隊長以下、患者も看護婦も全部外に出され、同じ所に固まっていると、八路軍の幹部が台の上に上り、話をしました。「あなたがたの国は、日出ずる国から日没する国に変わった。われわれの言うことを聞けば命は助けてやる」と片言の日本語でしゃべったのを覚えています。武装解除です。

     長いこと話をして、寒くて震えていました。中に入っていいと言うので入ると、荷物は開けられていましたが、なくなったものはありませんでした。

     次々と命令が来るんです。長野班の婦長が目の色を変えて飛んできて、私を含む6人はここに残るんだと告げられました。ほかの人は全部、外へ連れ出されて行くんです。私たちだけが夕方まで残され、八路軍のトラックに乗せられました。そのときは、もうどうにでもなれという気持ちでしょうか。

     しばらく走って降りなさいと言われ、荷台から飛び降りると、そこには「八路軍総司令部」と書かれた看板が掛かっていました。「ついに来ちゃった。覚悟しなきゃ」。薬の所在を確かめ、いつどうなっても死ねるなと思いました。

    Reply
  8. shinichi Post author

    「部隊を手伝ってもらう」

     連れて行かれたのは学校か工場かの一室。畳が敷いてあるんです。毛布も余るほどあるんです。洗面器を幾つも持ってきて、手を洗いなさい、顔を洗いなさいと。そして運ばれたのがコーリャンのご飯です。それとバケツに入った汁。お豆腐と白菜が入っていました。朝から何も食べていないので、おいしいんですよ。

     ご飯が終わると、護衛付きのピストルを下げた幹部が来ました。にこにこしながら、「きょうからわれわれの部隊の仕事を手伝ってもらう。交通の便が良くなったらすぐに帰すから」と言うんです。「あなた方の高い技術をわれわれのために貸してほしい」「自分たちが戦って有利な条件で日本へ帰れる道ができたら、すぐにお帰しします。それまで仕事を手伝ってほしい」と。

     最後に「何か言うことはありませんか」と聞くから、皆で考えて「早、日、日本、帰」と漢字だけ並べました。向こうは「うん」とうなずいていました。

     次の日から仕事が始まりました。私たちの部隊から持って来た薬を読めるようにしてくれと。日本ではカタカナで書いていたんです。こちらが(英語で)アスピリンとつづると、向こうの人が阿斯匹林と書くんです。そんなことから始まったんです。

     毎日、部隊の外来診療ですね。司令部付の兵隊たちが、しもやけになった、擦りむいた、腹が痛いと。そんなものはお手の物です。処方箋も読めますから、先輩の看護婦が薬局に詰めて専門にやり、2~3日の間に、全部私たちがやるようになったんです。専門学校を出た医者は1人だけ。ほかの医者はおたおたしていました。

     お小遣いももらいました。服屋さんが来て、綿入れの服を作ってくれました。ズボンも。靴も作ってくれました。

     そうしているうち、ある夕方、荷車に荷物を積んで、一番上に私たちを縛りつけて出掛けたのです。箱の上に乗るわけです。それから長い、長い旅が始まりました。夜通し歩いたり、どこかに着くと男はこちら側、女はこちら側と分かれて夜を明かしたりして、旅を続け、終着点が梅河口というところでした。私たちばかりでなく、八路軍の総司令部も移動していったんです。

    Reply
  9. shinichi Post author

    列車いっぱいの負傷者

     そこには、北の方から医者、看護婦、検査技師までいろんな医療従事者が集まってきました。ある日、消毒ガーゼと薬を持って駅へ行けと指示が出たんです。入ってきた列車を見ると、客車の台が外され、患者がぎちぎちに並べられていたんです。長い列車の全部が患者です。寝たきりで、「痛いよー、痛いよー」とうなっているんです。

     何をしたらいいか、最初は分かりません。足を骨折している人を見たら、添え木が当ててあるですが、反対についているので、直し始めたところ、停車の時間を過ぎてしまい、次の駅まで行ってしまいました。

     それで次からは、治療する暇はないけど、痛みだけは止めてあげようと思いました。アヘンチンキを痛み止めに使っていましたが、瓶ごとポケットに入れ、列車に乗り込むんです。お茶わんに水を入れ、1㏄も入っちゃったでしょうか。それを飲ませるんです。それだけでも「ありがとう、ありがとう」と言って、りんごをくれたりするんです。全員に飲ませました。

     ある日、列車いっぱいのものすごい負傷者が来ました。そのとき、私は八路軍はどこかで戦争しているんだなと知りました。一体どこで戦争しているのだろう、日本は負けたのにと思ったんです。

     後で分かったのですが、四平街で、八路軍が蒋介石の国民党軍に負けた戦争だったんです。4回くらい戦って、大負けに負けた第1回のときの負傷兵だったんです。

     突然、荷物を全部持って、手術道具も持って駅に行けと指令が出たので、駅に行くと、どこでもいいから乗れるものに乗れと言われました。貨車に乗ると、豚の背に載せた板の上でした。今出発してきた駅は、国民党軍の空襲でドカーンとやられ、黒煙を上げ、火が見えるんです。

     逃げて、逃げて、最初に着いたのが吉林。その後、ハルビン、北安など、国民党の空襲を受けながら列車などで逃げ、ソ満国境の富錦まで来ました。日本人も多くなり、医者も多くなりました。そこで総司令部から離れ、第7後方医院(病院)に所属して、外科、内科、皮膚泌尿器科と三つ作り、皮膚泌尿器科の看護婦責任者として働きました。

    Reply
  10. shinichi Post author

    ベルトで殴られた日本人医師

     富錦では農地改革が始まり、地主が三角の帽子をかぶせられて、後ろ手に縛られ、街中を引きずり回されているんです。何かと聞くと、「昔、日本軍と一緒に農民を苦しめた人だ。農地を取り上げて、皆で分けるんだ」と答えが返ってきました。

     人民裁判があるというので、行ってみると、人の輪ができているんです。野原の真ん中で。お棺があり、みんなが散々悪口を言っているんです。髪の毛をつかんだり、けったり。軍人が「この人をどうする」とこぶしを振り上げると、「銃殺!」という声が上がり、その響きが原っぱにわんわんと広がりました。それで銃殺が決まったんです。

     帰ってきて討論になりました。開拓団の人たちが発言した後、私も聞かれ、「賛成じゃない」とはっきり言ったのです。そしたら日本人の中で、「反革命分子」になったんです。中国側にも伝わったのでしょう。反革命分子の銃殺場面を見せられました。穴を掘るんです。後ろ手にされ、背後から撃たれるんです。すると穴の中へ、ばたっと倒れます。そんなの見せられても、私はなお駄目です。

     日常診療は、ハルビン医大から来た偉い日本でも有名な先生がやります。外科医とか、皮膚科とか、眼科とか。あるとき、医大の副院長で外科部長だった先生が、捕虜になって連れて来られ、私と一緒に病棟の回診をしたんです。

     すると若い子が、ベルトを外して金具の方を振り上げ、殴りかかってきたんです。そしたら先生の右の頭にガシャーンと当たって、血がダラーと流れて、そこへ今度は生卵を投げつけてきました。

     卵は割れてグシャッとなりましたが、先生は「はい、次」と言って診察を続けたんです。私はそばにいて、何もできませんでしたが、どうにも表現できない気持ちになりました。

     すぐに、一番偉い人が謝りに来ました。「あの子は日本軍の三光作戦で家を焼かれ、親や兄弟、おばあちゃん、全部が死にました。自分は小さくて穴に入って一人生き残り、憎しみはものすごい。まだ教育していないので、このようなことが起こり、申し訳ない」と。許せる心境ではないですが、仕方ないです。それが捕虜です。我慢しきれず死んでしまった日本人も大勢いました。

    Reply
  11. shinichi Post author

    反撃と前線の医療

     やがて私は、第4野戦軍第1兵站医院というところに編成(配属)されるわけです。そのころ八路軍は負けて負けて、ソ連の方まで逃げて来ていましたが、やっと反撃に出るという時期でした。

     婦長として何人かを引き連れて前線、前線と歩いたのです。昼間は空爆されるので、午後4時ごろ起きて、夕飯を食べて。星のない夜は真っ暗闇。黙って歩かなければなりません。持っているものは布団1枚。その中に下着類を入れて包んで背負っているわけです。それに白いタオルをぶら下げ、前の人のタオルを目印に歩くんです。戦闘部隊と同じ速度の移動です。

     戦争しながら、患者を診ながら、後方に送りながら、最後の大戦争の場に行くわけです。錦州戦役と言われていますが、大砲の弾の音を聞き、空襲を受けながら、夜間に患者を収容して、あらゆる処置をしました。ガス壊疽(えそ)の患者、破傷風の患者、そして毎日死者は20人近く。

     想像つかない傷もありました。夜運ばれてきたとき、あるのはお灯明だけ。一晩中、どんどん運び込まれてくるわけです。それを私たちが、この人はこっち、この人は手術、この人は処置室へと分ける仕事をしました。

     闇の中でボーッとは見えるんですが、全部に包帯をしている患者から「プッ、プッ、プッ」と音がするんです。処置室へと入れ、一段落して見に行ったら、口から吹き出していたのはウジでした。

     全身やけど。敵は米軍の何とか爆弾を使い、それで全身やけどになることが多かったんですが、それでウジがつき、全身ウジだらけになったんです。そのウジが口元に来るもんだから、吹き出していたんです。

     大ももをバサッと切って包帯してくる人もいますが、そこにもウジがいるんです。頭を肉の中に入れ、お尻だけ出しているんです。看護婦が一生懸命、1匹ずつ引っ張り出しているんですが、間に合わない。そうかと言ってそのまま包帯するのは良心が許さない。イチかバチかやったのは、手術室に行ってクロロホルム麻酔薬を持ってきて、ガーゼに湿して傷に当てたんです。そしたら、コロコロ落ちてくるんです。取れるだけ取って、簡単に締めて、後方に送るのです。それはもう、医療と言えるのかどうなのか。

    Reply
  12. shinichi Post author

    朝鮮への渡河命令を待つ

     その戦争に勝って、日本人は帰してもらえるだろう、私は帰りたいという気持ちになりました。あれだけの戦争で、やれるだけやったんだから。万里の長城のふもとで悩みました。だけど、ついに押されるようにして越えましたけどね。帰りたくてしょうがないけど、ここを降りたら、しばらくは帰れないと覚悟しました。

     夜だったんですが、星を眺めながら、歴史の流れを感じました。風が吹いていたわけではないですが、ものすごい風の中に立って、抵抗しているような。後から来る部隊に押されるから、長くそこにいるわけにいかず、降りてしまいました。そしたら向こう側は非常にのどかでした。

     北京は戦争せずに解放されたので、南へ南へと下りました。黄河を渡るときは、日本そっくりでした。菜の花が咲き、桃の花が咲き、それを見て私は泣きました。

     中国は錦州の戦役後、私を医者にしました。東北とは異なる病気について勉強会を開いたりしながら南に下り、揚子江はいかだで渡りました。そして、1949年10月、毛沢東の中華人民共和国成立の声明を、桂林で聞くわけです。そのとき皆が万歳しました。私もこれで日本に帰れると喜びました。

     ところが翌年、今度は朝鮮戦争に行きなさいと言われたのです。中国人民志願軍として参加するため、3年近くかかって来たところを船に乗り、自動車に乗って、1週間で北上し、山海関の門を通って鴨緑江流域の臨江へ。

     そこは空襲がひどくて、出歩くのは夜。行ってすぐ朝鮮人民軍の服に着替えました。肩章があって襟章があって、駅長さんのような帽子をかぶって。ズボンは乗馬ズボンです。横に赤い線が2本入っていました。

     私たちと一緒に行った者が次々と川を渡って朝鮮に行き、手が取れたり、足が取れたりして死んだと聞かされていたので、私はふるさとに向かって、ここを渡ってあした行くけど、生きて帰れないかもしれないと、母に手を合わせました。渡河命令を待っていると、「日本人は渡るべからず。すぐ帰れ」と撤収命令が出て、朝鮮の服を着たまま汽車に乗って夜中、北京まで戻ったんです。

    Reply
  13. shinichi Post author

    赤十字の精神

     帰国できたのは1958(昭和33)年7月、最後の引き揚げ船でした。応召から14年が過ぎていました。20歳だった私も34歳になっていました。家に帰ってから1週間ほどして、私服の人が来ました。半月ほど毎日来たんです。それから、職探しが始まりました。

     中国から帰ってきた当初、侵略戦争には反対、平和的な戦争もあるという考えでしたが、今は違います。侵略してもされても、戦争は戦争です。戦争という手段で物事を解決することは絶対に反対です。それは即、人の命を奪うことですから。どんな戦争も嫌です。

     捕虜といっても、拘束されているわけではありません。でも、逃げたって結局、捕まって帰ってくるんです。逃げ切れないんです。お医者さんなんか、逃げましたよ。連れ戻され、別に罰せられるわけでもない。「ご苦労さん、よく帰ってきた」と言われるだけです。

     気持ちを支えてくれたのは日赤の精神です。私はそこに戻りました。博愛。あの当時はそうでした。今でもそうです。医療というのは人種、年齢、全然差別はないですね。米軍機が飛んでいる下で、捕虜になった国民党の兵隊の手術をしたこともあります。

     本当に困ったときには、日赤で勉強したことを思い出しました。何かと言えば、「敵味方の区別なく」ということです。それを支えに、自分の意思と合わない場所でも何とか自分を御してきたんですね。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *