ウィキペディア, 横山紘一

唯識とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯、八種類の識によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つ。
ここで、八種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚; 前五識:眼識耳識鼻識舌識身識; 五境:色・声・香・味・触)、意識(第六意識)、2層の無意識(末那識阿頼耶識)を指す。よって、これら八種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。
あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである。このように、唯識は大乗仏教の空の思想を基礎に置いている。
末那識(自分にこだわり執着する心): 私たちは程度の差はあれ、いろいろの種類の自我執着心を起こして日々生きている。自分を中心にすえてくり返し考え行動し、そのありようは、深層に影響を与えてまずます自分を重くしていく。では、なぜこのようにいつも自分中心的な生き方にならざるを得ないのか。この疑問に対して唯識は、それは心の深層に末那識がはたらいているからであると答える。末那識という深層的な自我執着心がつねに渦巻いているから、それが波紋して、表層が自分中心のありようにならざるを得ないと考えるのだ。
阿頼耶識(種子の貯蔵庫): 貯蔵庫としての阿頼耶識には「なに」が貯蔵されているのか。その「なに」とは、一言でいえば「種子」。地中に潜んでいる種子が地上に芽や幹や枝葉を生じるように、深層心に貯蔵され潜んでいる「種子」が表層心にさまざま事象を生じる。

10 thoughts on “ウィキペディア, 横山紘一

  1. shinichi Post author

    唯識

    http://ja.wikipedia.org/wiki/唯識

    唯識思想では、各個人にとっての世界はその個人の表象(イメージ)に過ぎないと主張し、八種の「識」を仮定(八識説)する。

    まず、視覚とか聴覚とかの感覚も唯識では識であると考える。感覚は5つあると考えられ、それぞれ眼識(げんしき、視覚)・耳識(にしき、聴覚)・鼻識(びしき、嗅覚)・舌識(ぜつしき、味覚)・身識(しんしき、触覚など)と呼ばれる。これは総称して「前五識」と呼ぶ。

    その次に意識、つまり自覚的意識が来る。六番目なので「第六意識」と呼ぶことがあるが同じ意味である。また前五識と意識を合わせて六識または現行(げんぎょう)という。

    その下に末那識(まなしき)と呼ばれる潜在意識が想定されており、寝てもさめても自分に執着し続ける心であるといわれる。熟睡中は意識の作用は停止するが、その間も末那識は活動し、自己に執着するという。

    さらにその下に阿頼耶識(あらやしき)という根本の識があり、この識が前五識・意識・末那識を生み出し、さらに身体を生み出し、他の識と相互作用して我々が「世界」であると思っているものも生み出していると考えられている。

    あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在(色)は「空」であり、実体のないものである(色即是空)。

    唯識は、4世紀インドに現れた瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは 唯識瑜伽行派とも)、という初期大乗仏教の一派によって唱えられた認識論的傾向を持つ思想体系である。瑜伽行唯識学派は、中観派の「空 (くう)」思想を受けつぎながらも、とりあえず心の作用は仮に存在するとして、その心のあり方を瑜伽行(ヨーガの行・実践)でコントロールし、また変化させて悟りを得ようとした(唯識無境=ただ識だけがあって外界は存在しない)。

    この世の色(しき、物質)は、ただ心的作用のみで成り立っている、とするので西洋の唯心論と同列に見られる場合がある。しかし東洋思想及び仏教の唯識論では、その心の存在も仮のものであり、最終的にその心的作用も否定される(境識倶泯 きょうしきくみん 外界も識も消えてしまう)。したがって唯識と唯心論はこの点でまったく異なる。また、唯識は無意識の領域を重視するために、「意識が諸存在を規定する」とする唯心論とは明らかに相違がある。

    唯識思想は後の大乗仏教全般に広く影響を与えた。

    ____________________________

    Yogacara

    Wikipedia

    http://en.wikipedia.org/wiki/Consciousness-only

    Yogācāra (Sanskrit; literally: “yoga practice”; “one whose practice is yoga”) is an influential school of Buddhist philosophy and psychology emphasizing phenomenology and (some argue) ontology through the interior lens of meditative and yogic practices. It was associated with Indian Mahāyāna Buddhism in about the 4th century CE, but also included non-Mahayana practitioners of the Dârstântika school.
    Yogācāra discourse explains how our human experience is constructed by mind.

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  2. shinichi Post author

    一、唯識無境・人々唯識・唯識所変
     唯識無境とは、ただ識のみで境はない、すなわち「外界には“もの”(=境)はなく、ただ“識”すなわち心だけが存在する」という<唯識>の根本主張を表したものです。ところで、私がそのようなことをいうと、そんな馬鹿な、あなたは少し頭がおかしくなったのだと思う人が多くいるでしょう。なぜなら、かれらは、庭を見て、ほらそこに木が生えているではないかと思うからです。しかもその木は、私とその人との外界である共通の庭という空間に、誰しもにとって共通な一本の木があると思うからです。しかし、ここで静かに考えてみましょう。どうも、そう私を思う人のほうが、頭がおかしい、(すこしきつい言い方ですので表現を和らげて)、あまりに常識に毒されて静かに物事を考えることを忘れた人なのです。しばらく常識をはなれて静かに心の中に住して観察し考えてみましょう。
     いまいった、外界にあると考えられた木に注目してみましょう。そして言葉を発することなくその木を見つつ、その木になりきってみましょう。すると、それは木でもなんでもありません。そこで、言葉を発して「それは木だ」といったとたんに、それが「木」として認識され、「木」というものになります。そして、「それは外界にあるのだ」と言葉でいったとたんに、その「木」が外界にあるものとなるのです。
     これでおわかりになったことでしょうが、「木」というものも、外界という空間も、すべて言葉によって考えられたものなのです。
     この「言葉によって考えられたもの」ということが、最も留意すべき点です。言葉で考えられないかぎり、木も外界も存在しません。
     ここで、一歩ゆずって、外界があり木があるとしても、私は私の外に抜け出ることができないのですから(この事実を静かに考えて確認してください)、外界にある木そのものを見ることはできません。したがって、いま、現に私が見ている木は、私という存在の中にある具体的ものというべきです。だから、もしも一本の木を私と他の二人とが見て、「あれは木ですね」と言い合っても、私が実際に見ている木は他の二人が見ている木と異なったものなのです。
     つまり、つきつめて考えれば、私は一人一宇宙のなかに閉じ込められているのです。一人一宇宙と聞いて、「一人が一つの宇宙だって!そんな大袈裟な」とまた反論する人が多くいることでしょう。そのように反論する人は、百四十億光年前にビックバンを起こしていまも膨張しつづけている宇宙を宇宙と考えるからです。しかしそのような宇宙は、自然科学の宇宙論でいわれる宇宙であり、情報や記号によって私に与えられたもので、これも先ほどの木の存在と本質的にはちがったものではありません。
     私にとって具体的な宇宙とは、毎朝経験する宇宙、深い眠りから目覚めた瞬間に、いわばビックバン的に出現する宇宙です。
    私だけではありません。人間みんな、一人一宇宙の中に住んでいます。あまりよい例ではないかもしれませんが、一人一宇宙であることは、つぎのことからも確認できます。満員電車のなかで、だれか財布が盗まれ、それに気づいて、「どろぼー」と叫んだとします。すると車内の一人だけが、つまり泥棒だけがビクッとし、他の人たちは平然としています。どろぼうは他の人たちと違う宇宙に住んでいるからです。
     私たちはこのように一人一宇宙の中に閉じ込められています。そしてその中で右往左往し、迷い苦しみ、時には罪までをも犯してしまいます。(このことについてはのちに言及します)
     この一人一宇宙を<唯識>の術語では人々唯識といいます。一人ひとりの世界(ここでは宇宙とおなじ意味で世界という語を使いました。文脈に応じて世界と宇宙のいずれかを用いることにします)は、ただ識の世界であるという意味です。
    このうち唯識はくわしくは唯識所変といいます。ただ識が変化したもの、という意味です。したがって、人々唯識と唯識所変との二つの概念を結びつけると、「一人ひとりの世界は、ただ識が変化したものである」という意味になります。では「識」とはなにか。のちに詳述しますが、この識は<唯識>が説く八種の識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識)の中の阿頼耶識、すなわち深層に潜在する識、深層心をいいます。この深層心である阿頼耶識が変化したもの、換言すれば、阿頼耶識が作り出したもの、それが一人ひとりの世界である、というのが、<唯識>の根本主張です。前述しました、私が深い眠りから目覚めた瞬間に出現する宇宙、私が眼の前に見る「木」もこの阿頼耶識が変化したものです。
    木についてもう少し詳細に検討してみましょう。閉じていた眼を開ける。するとそこに視覚がはたらき、現前に一つの影像が現れる。そしてそれに「木」という言葉を付与するとそれは「木」となります。この一連の認識過程の中にある視覚(眼識という)、影像、言葉はすべて、なかったものが出現してきたものです。ではどこから現れてきたのか。そのいわば“場所”が阿頼耶識という深層心です。いま、出現したもの、といいましたが、変化したもの、ともいうことができます。視覚も、影像も、そして言葉も、すべて阿頼耶識が変化したものなのです。
    では変化するとはどういうことか。たとえば、地中にある種子が時期がきて変化して芽となるという変化があります。<唯識>は阿頼耶識の変化をこの種子の変化にたとえて、深層心である阿頼耶識の中にある種子が変化して表層心の中にいわば芽をふいたもの、それが、たとえば、さきほどの視覚・影像・言葉であると考え、阿頼耶識は、すべてを生じる種子を有しているから別名、一切種子識と命名しました。
    この名称の中の「一切」がすごい考え方です。なぜなら、一切とは「すべて」という意味ですので、物も心も、身体も、自然も、極小の素粒子も、極大の宇宙も、善なるものも、悪なるものも、迷いも、悟りも、すべては、阿頼耶識の中に潜在する種子が変化したものであると考えるからです。そんな馬鹿な、と思われるかもしれませんが、ここでも常識をはなれて静かに心の中に住して観察し考えてみましょう。すると阿頼耶識が一切種子識とよばれることが納得できます。なぜなら前述したように、私たちは一人一宇宙の世界から抜け出ることができないのですから、その中にあるすべては、一人一宇宙のどこかから変化して出現したものであるからです。その出現する根本の心を<唯識>は阿頼耶識と命名したのです。したがって、阿頼耶識はまた根本心ともよばれます。
     ここで、唯識無境にもどって、このなかの「境」とはなにかをもう少しくわしく検討してみましょう。この境に対する原語はサンスクリットでアルタ(artha)といいますが、このアルタは、境・事・利・利益・義などと訳され、まことに多様な意味をもつ難解な語です。したがって唯識無境のなかの境をどのような意味にとらえるかが問題となります。これに関して、まず<唯識>が説く次の考え方を紹介します。
     「心内の影像を心外の実境と思うところに迷いが生じる」
     このうち、心外の実境という表現に注目してみましょう。実境とは、実際にあるもの、実体として存在するもの、という意味です。たしかに、常識にしたがえば、実体としてあると考えられるものとして、前述した木だけではありません。テレビ、冷蔵庫、自動車、ないし、服、食物、住居、などの身の回りのもの、さらには、自然界、広大な宇宙、あるいは小さな素粒子などがあり、枚挙のいとまがありません。しかしそれらをまとめると、
     「言葉で語られ思いで色づけされ、心の外に実体としてあると考えられたもの」
     と定義することができます。
     このうち「言葉で語る」ことによって心の外に投げ出され、実体として存在するものになるのです。実体としてあると考えられるのです。もちろん、そのよう考えられることは許されます。問題は、そのように考えられたものに、思いで色づけすることです。思いというのが、貪りや怒りという煩悩です。そのような煩悩で、たとえば、テレビや冷蔵庫、ないし、素晴らしい住居、総じてお金が欲しいという執着を起こし、そこに迷いや苦しみが生じます。そこを「心内の影像を心外の実境と思うところに迷いが生じる」と説かれています。
     物が溢れる物質文明の真っ只中に生きる私たち、物を追い求めて右往左往する現代人は、「唯識無境」という語を前にして、しばらく沈思黙考し、静かに心の中に住して「一体ないか」と観察し思考してみようではありませんか。たとえば、静かに坐って、吐く息、吸う息を観察してみましょう。そして息になりきりなりきってみましょう。すると、そこには“自分”でない力ではたらくものに触れることができます。(これも後で考えられることですが)、あるのは、ただ、ただ、そのことです。いま言った「ただ」が大切なことです。唯識とは「ただ識である」という意味ですが、このなかで「識」よりも「唯」すなわち「ただ」というほうが大切な語です。唯識思想とは、一言では、「ただ、ただであると知る」、そして「ただ、ただに生きる」ことを目指す思想であるということができるでしょう。このことをこれからの解説のなかで明らかにしてゆこうと思います。

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  3. shinichi Post author

    唯識の「識」について

    ●五識と意識
    今回は「唯識」の「識」について考えてみます。
    まず識のサンスクリット語について検討してみましょう。
    識の原語vijJANa(ヴィジュニャーナ)は、二つに分けるとういう接頭語vi-と、知るという動詞jJAの名詞形jJAnaからなる語です。したがって、識とは、「二つに分けて知る」というのが原意です。このうち「知る」という働きにまず注目してみます。
     知るとは、たとえば、眼の前にコップがあるとします。この対象に対して、まず、眼で、見ます。すなわち、視覚で感覚します。次に、その感覚のデーターに基づいて、「それはコップである」と知覚します。そして、さらに「そのコップは、なんのために使用するのか。それは飲むためである。」と思考します。
    いま、このように「知る」という働きを分析すれば、「感覚」と「知覚」と「思考」との三つに分かれることになります。
     この三つを仏教が説く眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つの識にあてはめると、
    前の五つが感覚作用を、最後の意識が知覚作用と思考作用とをつかさどります。これら六つの識を列記するときには、順番が決まっていますので、前の眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五つを「前五識」、第六番目の意識を「第六意識」とよぶ場合もあります。
    この前五識と第六意識との相違を簡潔のまとめると、次のようになります。

    五識はそれぞれ認識する対象が決まっていて、言葉で認識することができない。
    これに対して意識はすべての存在を認識対象とし、言葉を用いて認識することができる。

    「五識はそれぞれ認識する対象が決まっていて、言葉で認識することがない。」ということを、視覚である眼識を例にあげて確認してみましょう。たとえば、眼の前のコップを、当然ですが、眼で見ることはできますが、耳で、ないし、身(手などの身体)で見ることはできません。コップという「物」を、そしてもっと厳密に言うと、物の「かたち」と「いろ」と「うごき」を見ることができるのは、眼識という視覚だけです(仏教用語で言いますと「物」を「色」、そして、その物の属性である「かたち」を形色、「いろ」を顕色、「うごき」を表色と言います)。
     そして、眼識でコップにじっと見つづけながら、眼識で「コップ」という言葉を発しようといくら努力しても、それはできません。なぜなら、眼識は、言葉で認識することができないという事実があるからです。この「言葉で認識することができない」ことを「無分別」といいます。分別とは「分けて別する」あるいは「別々に分ける」ということで、そのためには、そこに必ず言葉が必要です。眼識でコップを見つづけているかぎり、それは「コップ」でもなんでもありません。そこで、見つづける緊張を緩まして、「コップ」という言葉を発してみましょう。その言葉を発する働きをもつもの、それが後述する「意識」であると<唯識>は説きます。
     以上、眼識を例にとって考察しましたが、耳識ないし身識についても同じことがいえますのでの、その叙述は省略します。ただ、五識それぞれの認識対象だけを確認しておきましょう。すなわち、眼識は色、耳識は声、鼻識は香、舌識は味、身識は触をそれぞれ対象とします。
    色・声・香・味・触の五つの認識対象をまとめて「五境」と言います。いささか、横道にそれますが、<唯識>は仏教でありながら、本当に科学と哲学と宗教の三面を兼ね備えた世界に通用する普遍的な思想です。このうち科学を「観察に基づく分析である」と定義するならば、<唯識>はこの五境に対しても、まことに鋭く深い観察と分析を加えて、多種多様の五境をあげています。一例として、<唯識>の所依の論書の一つである『瑜伽師地論』の次の箇所を参照してください。(『瑜伽師地論』(大正新脩大蔵経・第三十巻、二七九頁以下)。ただし、存在するものに対して観察と分析と加えるにしても、それは、科学が「知のための知」といわれるようの「知識」を得ることを目的としていますが、<唯識>は、「自分」は存在しない、すなわち「無我」であること証明するためであることを忘れてはならないでしょう。

     ●言葉を発する意識
    次に、意識について考えてみます。
    意識という語は、いまでは英語のcousiousnessやドイツ語のBewusstseinなどの訳語として用いられ、心の経験内容の総体を意味する語ですが、仏教ではもともと次の三つの働きをもつ特別の心を意味しています。
    ① 言葉を発する。
    ② すべてのものを認識対象とする。
    ③ 感覚とともにはたらいて感覚を鮮明にする。
    このうち、まず、「言葉を発する」という働きについて考えてみましょう。そのために意識の原語を検討してみます。原語mano-vijJAna(マノー・ヴィジュニャーナ)のうち、意と訳されるmanoはmanasの変化形で、manasは、考えるという動詞manから派生した名詞です(考えるという意味のmanはドイツ語・英語で人間を意味するようになりました)。したがって、意識とは「考える識」「思考する心」ということになります。
    思考するとは、たとえば、前に「そのコップは、なんのために使用するのか。それは飲むためである」と思考することであると述べましたが、このように思考するには必ず言葉を発し言葉を用います。この言葉を発し言葉を用いる心が意識です。他の眼識などの識にはこのような働きはありません。だから、意識を働きなければ言葉は心の中に起こってきません。でも私たちは、無造作に意識を働きせて、目覚めているかぎり、心の中は言葉の嵐が吹きすさんでいるといっても過言ではありません。その嵐を静めるためには意識を統御することが必要です。それにはどうすればよいか、これについては次回以後、考えてみます。

    ●感覚と共にはたらいて感覚を鮮明にする意識
    次に、「すべてのものを認識対象とする」ということを考えてみましょう。それは、五識がそれぞれ決まった対象を、しかも五境と言われるように物的なものを対象とするのに対して、意識は物であれ、心であれ、いずれをも認識対象とするということです。
    まず、「物」を対象とすることを考えてみます。たとえば前述したように、コップという物を眼識で見る時にも意識が働いているのです。すなわち、次のように意識の働きはさらに二つに分かれますが、
     (1)五識と同時に働く意識
     (2)五識の後に言葉を発する意識
    このうち、(1)の意識が眼識と同時に働き、たとえば、コップを見ることが可能になるのです。この意識は言葉を発しません。そして見た後に、「それはコップである」と言葉で知覚するのが(2)の意識の働きです。
     つまり、意識には、一つは、「感覚(五識)と共に同時に働いて感覚を鮮明にする意識」と、もう一つは、「感覚した後に言葉で知覚し思考する意識」との二つがあることになります。用語で前者を「明了依」、後者を「分別依」といいまず。
    私たちは、このうち前者の意識の働きには、日頃あまり気がついていませんが、これは非常に大切な働きです。なぜなら、意識を集中して、ある一つの対象に向けると、その存在がはっきりと鮮明に把握することができます。たとえば、どこかで音がしている。でもなにか他のことを考えていれば、その音に気がつかない。そこで意識をそこに向けると、その音がはっきりと聞き取れるようになります。
     このように、いわば「意識のスポット」を「なに」に向けるかによって、大袈裟にいえば、自分を取り巻く世界が、自分がその中に住んでいる「一人一宇宙」(第一講参照)の世界が変わってきます。香りに敏感な人はいつもそれに意識が向かい、「臭い、臭い」と周囲を気にします。過去の出来事に意識が向かいがちな人は、「なんで、なんで、そうだったのか」と愚痴ります。では、意識のスポットをなにに向けるべきでしょうか。それは、後に、「ヨーガ」に言及するときに考えてみます。
    次に、意識は「心」をも対象とすることを考えてみます。まず、眼を閉じて、真っ赤に燃える太陽を心の中に影像として描き出してください。すると、その太陽の真っ赤な色を見ることができます。眼を閉じているのに赤い色彩が見えるとは不思議なことです。でも現実に見えます。そこを、<唯識>は、赤色の影像を、赤い色に染まった「心」を意識という同じ「心」が見ているのであると考えます。
    「心が心を見る」、これは興味を引く考えです。否、興味を引く、というべきではなく、これこそが、<唯識>の根本的な考えです。「眼を開いて実際にみる太陽と、眼を閉じて心の中に描き出し再現した太陽との二つの太陽の存在性の度合いは同じではないか。どちらも心の中の影像ではないか。」と<唯識>は訴えてくるのです。本当に心の中の影像以外に「物」として、あるいは「心」として存在するものはあるのでしょうか。

    ●「識」への執着を離れる。識の虚妄性を知る。
    前回の最後に、唯識とは「ただ識である」という意味ですが、このなかで「識」よりも「唯」すなわち「ただ」というほうが大切な語で、唯識思想とは、一言では、「ただ、ただであると知る」、そして「ただ、ただに生きる」ことを目指す思想であるということができるでしょう、と述べました。それは、また、「識」と言われる存在にこだわり執着することを排除するために述べたのです。
    唯識は、唯だ識のみ、といっても、ヨーロッパでいう唯心論と本質的に違います。唯心論の「心」は、いわば「有りて有る」実体的な存在ですが、唯識の「識」は、あえて有と無とを使っていえば、「有るようで無く、無いようで有る」、そのような存在であって、決して有りて有るような実体的な存在ではありません。
    そこで、<唯識>関係の論書の各所で、「識とは識る」であると、「識」という名詞を「識る」という動詞で言い換えています。私たちは、何かを名詞でいうと、流れ変化している動的な現象から、静的な実体的なものを設定してしまいますが、静かに観察し思考するならば、現象の中には決して「実体」として存在するものはなに一つないことに気づきます。
    有為転変、諸行無常といわれるように、たしかに現象的存在(有為・諸行)は変化し無常なるものです。だから、何事に対しても、実体化しやすい「名詞」ではなくて「動詞」で捉えてみてはどうでしょうか。
    でも、名詞にしても動詞にしても、いずれも言葉です。言葉で捉えられ、分別された「もの」は、言葉によって、いわば、加工された「もの」であって、もとの生(なま)の「もの」すなわち「それそのもの」ではありません。たとえば、「そこにコップが有る」といいますが、「そこ」「コップ」「有る」という言葉によって、「それそのもの」と雲泥に違ったものとして捉えられてしまったのです。
    コップの存在はそれほど問題ではありません。問題は「自分はいま、ここに生きて有る」と言葉で語り判断することが最大の問題です。このように「自分」「いま」「ここ」「有る」という言葉で語った判断は正しいのでしょうか。結論からいうと、間違った判断です。そこを<唯識>は「識」(六識と末那識・阿頼耶識を含めて八識すべて)は「虚妄分別」であると、識の働きを間違った虚妄なるものであるのだと、声高に主張します。
    識は原語からして、「二つに分けて知る」ことでした。二つに分けられた言葉としては、「有」と「無」、「自」と「他」、この四つが根本の言葉です。この四つの言葉を心の中に浮かべて、これらの言葉が指し示す「もの」は一体なにか、静かに観察し思惟してみましょう。
    すると、「言葉で認識するが如くには存在は存在しない」という事実をはっきりと理解できるようになります。その上で、言葉をはなれて、まず、「五識の働き」(それによって感覚のデータが得られる)と「感覚を鮮明にする意識の働き」との二つの働きを心の中に起こし、生(なま)の存在に直に触れてみましょう。そして、そこで、「言葉を発する意識の働き」を起こし直に触れ、経験したことを言葉に表してみましょう。
    そうすると、言葉の嵐が吹きすさぶ心が、少しは静かにおさまってくるかもしれません。

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  4. shinichi Post author

    阿頼耶識について

    ●深層心を観る
    今回は<唯識>の代表的な教理の一つである阿頼耶識について考えてみます。
     先日の早朝の坐禅中に、今春はじめて鶯の鳴き声を聞きました。不思議なことに、その鶯の声は、私の内部から聞こえてきた気がしました。私の心が坐禅中で静寂になっていたからでしょうか。
    でも、よくよく考えてみると、内から聞こえてきたということは、不思議なことではなく、事実です。なぜなら、すでに第一講で確認しましたように、私は、一人一宇宙の中に閉じ込められています。だから、鶯は確かに私の外にいて、そして美しい声で囀ったかもしれませんが、私は、私の外に抜け出て、鶯の声そのものを聞くことはできないのです。したがって、私が聞いた鶯の声は、私の中で、心の内で「再現された声」であるというべきです。
    ところで、「その再現された声は再現される以前には“どこ”に潜んでいたのでしょうか。」と私は問いただしたい。でも、このような問いに対して、「そのようなことを考えるのはおかしい。鶯の鳴いたことによって、耳の器官が触発されて生起したまでのことであって、再現される以前の声などはどこにも存在しない、すなわち非存在であった。」と反論する人もいるでしょう。でもこのように考える人は「無(非存在)から有(存在)が生ずる」という考えではないでしょうか。
     これは自然科学の法則に反する考えです。仏教は、特に<唯識>は、非常に科学的な眼で現象を観察します。そして「因縁生起」という考えを打ち出しました。すべての現象的存在は因と縁とから生じるという考えです。このうち「因」とは根本原因、「縁」とは補助原因です。たとえば、植物の種子を机の上に置いていては芽が出ませんが、それを地中に埋め、水や適当な温度を与えると芽が出ます。この喩えでいえば、種子が因で土地や水や温度が縁です。
     話しを鶯の声にもどしますと、私の外界で鶯が鳴いたこと、それ声が波長となって私の耳の器官に達したこと、などが縁となって私の心の中に鶯の声が再現されたのです。鶯が鳴いたこと、そして耳が働いたこと、これはあくまで「縁」(術語で増上縁といいます)であって根本原因である「因」ではありません。では「因」はなんであったのでしょうか。それに対して<唯識>は
     「阿頼耶識の中の種子」
    であると答えます。
    今回は、前述しましたように、この阿頼耶識を説明することにしますが、阿頼耶識は、前講で述べた眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識という、いわば表層的な心とちがって、それは深層的な心です。もちろん、ヨーガを組み、坐禅を修して表層の心を静めて深層に沈潜すると観(み)えてくる心ですが、普通の日常心の状態では、その存在を、これだと認識することは容易ではありません。もちろん、阿頼耶識の存在を自ら認識することなく、<唯識>が説く阿頼耶識の説明や定義から阿頼耶識を理解してもいいのですが、それに入る前に、もう少し自らの心の中の出来事を静かに観察し考察してみましょう。
     再度、鶯の声にもどります。鶯の囀りは、突然、私の心のどこかから湧き出てきました。生じてきました。囀り以外にも、坐禅中に、さまざまな思いや影像や言葉が生じてきました。本当に一人一宇宙です。この自らの宇宙の中に一日生きている間に、どれほどの「思い」と「影像」と「言葉」とが生じることでしょうか。それらの数はもう無量無数といえるでしょう。その無量無数の存在が現れる以前に潜在していた「場」はどこか、と鋭く追求し観察してみましょう。すると、一人一宇宙の心の中の深層に思いが至るようになります。そして第2講で述べました「意識のスポット」をそこに照射してみましょう。すると深層心がぼんやりと観(み)えてきます。
     そのとき、その深層心を<唯識>でいう「阿頼耶識」という名で呼んでみてはどうでしょうか。そして、この深層心をもう少しはっきりと把握しようとして、<唯識>が説く阿頼耶識の説明や定義を学んでいこうという気持ちを起こしてみてはどうでしょうか。ぼんやりした体験でもいい。そこからそれについての教理を学ぶ、これも学びの大切な過程ではないでしょうか。

    ●種子を貯蔵した阿頼耶識
    ここで、阿頼耶識の説明に入っていきましょう。阿頼耶識の原語はAlaya-vijJAna(アーラヤ・ヴィジュニャーナ)で、阿頼耶はAlayaの音写、識はvijJAnaの意訳です。このうちAlayaとは蔵・貯蔵庫を意味する語ですので、阿頼耶識は別名、蔵識と意訳されます。
     <唯識>を打ち立てた人びとが、この蔵を意味する語を採用した理由は、新しく発見した深層心を、いわば貯蔵庫のような心とであると解釈したからです。
     では貯蔵庫としての阿頼耶識には「なに」が貯蔵されているのでしょうか。その「なに」とは、一言でいえば「種子」です(種子を「しゅうじ」とよびます)。地中に潜んでいる種子が地上に芽や幹や枝葉を生じるように、深層心に貯蔵され潜んでいる「種子」が表層心にさまざま事象を生じると考えたのです。もちろん、この「種子」は、植物の種子のような物質的なものではありません。種子とは「親しく自らの果を生じる功能」と定義されます。親しくとは直接、功能とは力という意味ですので、阿頼耶識の中の「種子」とは、「直接、自らの結果を生じる根本原因としての潜在的な心的な力」であると定義することができます。前出した鶯の声は表層心に生じて一つの事象ですが、それが生じる以前には、その声は種子、すなわち潜在的な力として阿頼耶識の中に貯蔵されていたのです。
     生じる事象は鶯の声だけではありません。阿頼耶識は別名「一切種子識」といわれます。
    第1講でもすでに述べましたように、この呼びことは凄いことです。一切を、すなわちありとあらゆる事象を生じる種子を有した識であるというのですから。「すべてが、ありとあらゆる事が生じる、なんてとんでもないことだ」とすぐに反発する人が多くいることでしょう。でもここでも各人は第1講で述べた「一人一宇宙」であるという事実、その自らの宇宙の中に閉じこめられ、その外に抜け出ることができないという事実、心の中には外部か何一つ入り込むことができないという事実、をもう一度確認してみましょう。すると「一切種子識」という呼び名がそれほどとんでもない表現ではないことに気づくでしょう。
     
    ●三種類の種子
    では、次に、ありとあらゆる種子はどのようなものに分類されるかを考えてみましょう。
     結論から言えば、種子は次の三種に分類されます。
    ①過去の業の結果としての種子。
    ②現在の一刹那の事象を生ずる種子。
    ③未来のありようを生じる種子。

    まず、②の種子から考えてみます。
     いま、私は閉じた眼を開くと、窓越しに春の気配を感じさせる美しい様相の山々が眼に飛び込んできます。しかし、飛び込んできたのではなく、私の内部から、すなわち私の深層の阿頼耶識の種子が芽を吹いたのです。これも考えて見ると不思議なことです。広くいえば、なぜ、眼は物を見ることができるのでしょうか。眼という細胞から成る、もっと細かく言うと、原子・分子から成る器官と、山々というこれまた原子・分子から成る風景とが対峙するとき、つまり、物と物とが向かい合うとき、なぜ、視覚という心が生じるのでしょうか。これは、科学的にいかに追求し研究しても突き止めことができない不思議が現象です。
     でも、あえて、<唯識>的に解釈してみますと、次のようになります。
     「阿頼耶識の中の“山々を生じる種子”と“眼という器官を生じる種子”と“見るという視覚を生じる種子”とが一斉に芽を吹いたのである。」
    と解釈できます。この解釈の中で忘れていることがあります。それは事象が生じる原因として質料因と動力因という二つの原因が必要ですが、右の解釈のなかでは、質料因としての種子があげられているだけです。では動力因はなにか。これに対して、仏教は、それは、
    「縁起の力」
    であると一言で言い切るのです。
    縁起は仏教用語の中での最も重要な語ですので、次回、阿頼耶識縁起のなかで詳しく解説してみますが、縁起と言葉との関係についてつぎのことだけに言及しておきましょう。
     とにかく、風景だけではありません。前述しましたように、この自らの宇宙の中に一日生きている一刹那一刹那に、もう無量無数といえる「思い」と「影像」と「言葉」とが生じてきます。なぜ生じるのか。くり返しになりますが、そこに縁起の力が働くからです。そしてその縁起の力には私たちは「我」を張って抵抗することができません。眼を開いて見まいとして見ざるをえないからです。だから「縁起の力は甚深なり」と説かれます。
    この縁起の力によって心の中に、「思い」や「影像」や「言葉」が生じますが、この中の「言葉」に、そして言葉は「ものをものとして存在せしめる力を持っている」ということに注目しましょう。眼の前の「もの」を見る。ただ見つづけていれば、それはただそれですが、「コップ」と言って、はじめてそれは「コップ」になります。このことを静かに考えてみましょう。
     「受動的な縁起の力と能動的な言葉の力とによって存在は存在として設定される。」―――<唯識>は、この事実を深く認識することによって、阿頼耶識の中の種子を最終的にはすべて「名言種子」(言葉の種子)と呼ぶようになりました。
     次に①過去の業の結果としての種子を考えてみます。
    仏教は業不滅の思想です。表層的な業はかならずなんらかの結果を残すという考えです。
    たとえば、いま、私は、昨日のなにか出来事を思い出すことができます。それは私の昨日の業が、<唯識>的にいえば、阿頼耶識の中に種子を植えつけていたからです。
    昨日の記憶などそれほど問題ではありません。問題は、たとえば、ある人を憎いと思い、暴言をはく、ときにはその人を殴るとするならば、その意業と語業と身業からなる悪業は、その結果を阿頼耶識の中に種子として植えつけるということです。
    悪業とはまではいかなくても、よくよく反省してみると、私たちの行為のほとんどは、自我執着心に裏付けされた自己中心的な行為ではないでしょうか。その業の結果が阿頼耶識の中に積もりつもって、阿頼耶識はもう濁りににごりきっているといっても過言ではありません。
    その濁った阿頼耶識を浄化するにはどうすればよいか、これも次回の阿頼耶識縁起を説明する中で考えてみましょう。
    ところで、<唯識>は過去の業として、過去世の業を考えます。種子を植えつけるということから少し話しがそれますが、いま、私たちは人間として生を受けていますが、<唯識>は、それぞれの人の過去世の業の結果として現在、人間としての阿頼耶識を持って生れたのであると説きます。阿頼耶識を別名、異熟識といいますが、異熟とは時を異にして熟したという意味で、原因は過去世にあり、結果は現在世であるということです。しかもこの因果関係については価値的には「因是善悪・果是無記」といって、原因は善か悪かであるが結果は無記すなわち善でも悪でもないのです。
    この阿頼耶識は非善非悪の無記であるとは、どういうことを意味するのでしょうか。それは、一つは、過去世の業はすでに精算されて、人間として生まれたことは、価値的には全員同じく無記であるということです。人間として生まれた、その深層のありようには差別がないということです。もう一つは、阿頼耶識が善でも悪でもなく、いわば白紙のような状態であるから、善の種子か、悪の種子が植えつけられるということです。
    阿頼耶識という白紙に、できれば善の種子のみを植えつけることができればそれにこしたことはありません。でも悪の種子を植えつける悪なる心、煩悩をなくすことはまた至難のことです。
    最後に、③の未来のありようを生じる種子について考えてみましょう。一切種子識ですので、私は私の阿頼耶識の中に、私の未来のありようの「すべて」を生じる可能力を持っていることになります。少し大袈裟ですが、私も努力すれば、宇宙飛行士になって地球の周りを飛ぶことができます。現実には無理かも知れませんが、その可能性はまったくゼロではありません。もう少し具体性のある話しをしますと、私は地球上のどの地点にも行くことができる可能力を確かに持っています。いま飛行機で日本からみて地球の裏側にあるブラジルに飛べば、私はブラジルに立つことができますし、そのとき、私の心の中にブラジルの風景が生じます。それまでは、すなわち、いまは、ブラジルにいる私や、ブラジルの風景は、私の阿頼耶識の中に種子として潜んでいるのです。
     ところで、いまがあげた例などはどうでもよいことです。いちばん大切なことは、私たち一人ひとりは阿頼耶識の中に「仏陀(覚者)になる可能力すなわち種子を持っている」(そのような種子を菩提種子、涅槃種子、真如種子などといいます)ということです。私たちは、いまは凡夫で迷っています。でも、釈尊と同じく、努力精進すれば、未来には無上正覚を得て仏陀になることができる、と保障してくれているということです。なんと希望を抱かせる考えではないでしょうか。
    しかし、問題は、どのようにすれば、そのような素晴らしい種子に栄養を与え、成育し、そして発芽せしめるかということです。
     これについてもまた後で考えてみることにしましょう。

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  5. shinichi Post author

    阿頼耶識縁起について

    ●縁起の定義
    仏教の中でいちばん重要な語はなにかと問われると、それは「縁起」であると答えることができるでしょう。
     「縁起を見る者は法(真理)を見、法を見る者は縁起を見る」
    という釈尊みずからの言明がその証拠となるでしょう。
     ここでまず、縁起とはどういう理であるかを考えてみましょう。
     縁起は、
    「此れ有れば彼れ有り。此れ無ければ彼れ無し」
    と定義されます。わかり易くするために、「此れ」をA、「彼れ」をBにして、
    「A有ればB有り、A無ければB無し」
    と言い換えてみます。
    ところで、この理すなわち法則は、自然科学にも通じる法則です。釈尊は、観察すべき真理として、最初から縁起という科学的法則を説かれたことに注目すべきです。よく、仏教は宗教であると言われますが、根本真理として「神」を説くキリスト教などで言われる宗教(religion)では決してありません。なぜなら、根本真理として科学的法則にも通じる「縁起」を説く思想であるからです。
    この釈尊の出発点における立場は、以後の仏教の発展過程においても決して失われることはありませんでした。釈尊滅後、教団は多くの部派に分裂しましたが、各部派は、つねに「縁起」という教えを中心にすえ、その教えをさらに肉付けして、新しい教説を唱えたのです。

    ●<唯識>の縁起説―――阿頼耶識縁起
    いま、ここで取り上げている<唯識>も、例外ではなく、縁起に関して、「阿頼耶識縁起」という新しい縁起説を打ち立てました。今回はこの縁起説について考えてみます。
    ここでもう一度、「A有ればB有り、A無ければB無し」という縁起の定義に、そして、「すべての存在は縁によって生じたものである」(一切法は縁所生である)という存在生起説に注目してみると、縁起の定義の中の結果としての「B」として、すべての存在の中で「なに」を取り上げ、問題とすべきなのでしょうか。、
     結論から言うと、まず取り上げて考えるべきは、私たちが、苦しんでいるというありようです。たしかに、私たちは苦を背負って生きています。生・老・病・死の四苦、そしてそれに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦。五陰盛苦を加えた八苦、そして、それら八苦から派生するさまざまの苦に逼迫されて生きています。このうち、老と病と死とが苦であることは容易にわかりますが、生が苦であるとはどういうことなのでしょうか。これに対していろいろと答えることができるでしょうが、私は、生きているとは、他者と自分とが対立している状態であり、その「自他対立」が苦である、と解釈したい。その対立は、家庭内の家族のいがみあいからはじまって、世間や社会の中での抗争、乃至、人間が犯す最大の愚行である戦争、という形で現れます。それらの対立は苦しみ以外の何者でもありません。   さらに「愛する人と別れる苦しみ」(愛別離苦)と「憎む人と出会う苦しみ」(怨憎会苦)と「求めても得られない苦しみ」(求不得苦)とは、人を愛する、人を憎む、物へ執着する、といういわば煩悩に由来します。
     では、<唯識>は、このような苦のありようをどのように捉えるのでしょうか。<唯識>は、ただ識すなわち心の存在のみを認める立場から、当然、その苦のありようを心のありように還元して考えます。それを一言でいえば、「相縛」、すなわち「相によって束縛されている」状態であると解釈します。
     相(サンスクリットでnimitta)とは、ヨーロッパ語いう表象(Vorstellung)、観念(idea)の相当する語です。たとえば、憎みということを例にとってみますと、憎い人の「影像」(感覚表象)、憎いという「思い」(情緒表象)、憎いという「言葉」(言語表象)とが心の中に生じます。そして私たちはこの三つの表象に、すなわち「相」に翻弄されて憎むという煩悩を起こし、自ら苦しみ、ときには相手に暴言を吐いて相手をも苦しめます。
     憎むということだけではありません。静かに心の内を観察してみると、一日の間にもう無量無数の相が心の中に生じ、そしてふきすさみ、それら相のいわば嵐に心は揺れ動き、散乱し、それが苦しみや悩みとなって結果していることに気づきます。
     ところで、これまで述べた「心」はいわば「結果」として具体的に現れた表層的な心です。ではそのような相に掻き乱される結果としての表層的な心のありようをもたらす「原因」はなにか。換言すれば「A有ればB有り」というときの、「A」とはなにか。
    これに対して、<唯識>は、それは、
      「阿頼耶識の中の種子」
    であると答えます。そして、具体的に現れた表層的な心を「現行」とよび、
     「種子が現行を生じる」(種子生現行)
    と言います。これが阿頼耶識縁起の一部を形成する因果の過程です。この過程における原因としてのAは種子であり、結果としてのBは現行です。(種子については第3講で詳説しましたのでそこを参照して下さい)
    さらに、阿頼耶識縁起を形成するもう一つの部分は
     「現行が種子を熏じる」(現行熏種子)
    という過程です。たしかに、他人を憎んで心が爽やかになる人はいません。逆に心は重くなります。それは、憎むという表層の心ありようが、深層の心である阿頼耶識の中にその影響を与えるからである、すなわち「現行が種子を熏じる」からであると<唯識>は説くのです。この過程を「A有ればB有り」という縁起の理にあてはめてみると、原因としてAは現行であり、結果としてのBは種子です。
     以上まとめると、阿頼耶識縁起とは、深層心(阿頼耶識。阿頼耶識の中の種子)と表層心(現行。具体的には眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識)とが相互に因となり果となって、その因果相続の流れが、個々人の、一人一宇宙の生命の相続をもたらしているという考えです。
     ところで、表層心の束縛を相縛というのに対して、深層心の束縛を「麁重縛」といいます。麁重とは、相縛によって束縛された表層心によって阿頼耶識に熏じられ、植えつけられた種子、それも、憎しみや貪りといった煩悩を生じる汚れた種子をいいます。深層の阿頼耶識がそのような汚れた種子で束縛されているというのが麁重縛の意味です。
    現代でいうストレスも麁重の一種です。本当に私たちの心の深層には、さまざまのストレスがたまり、それによって深層から束縛され、自由自在に振る舞うことができません。
    このよう、私たちの心は、表層的にも深層的にも、がんじがらめに縛られた状態であることを、静かに心の中に住して観察してみましょう。ときにはヨーガを組み、禅定を修して心の奥底をさぐってみましよう。いままで気が付かなかった一人一宇宙の心の様相が見えてくるでしょう。

    ● 無分別智の火
    では、このよう表層的にも深層的にもがんじがらめに縛られた状態から脱却するためには、どのようにすればよいのか、これをまた、「A有ればB有り、A無ければB無し」という縁起の理に則して考えてみます。
    この縁起の定義の後半の「A無ければB無し」という理に則して考えてみると、相縛が無ければ麁重縛はなく、麁重縛が無ければ相縛は無いことになります。この二つのうち、普段、表層心の世界のみに生きる私たちは、深層心を統御して麁重縛を直接無くすことはできません。したがって、まず私たちがなすべきことは、統御できる表層心の相縛の相を無くすことです。それにはどうすればよいのでしょうか。
    前の第一講で、「唯識思想とは、ただ、ただであることを知り、ただ、ただに生きることを目指す思想である」と述べました。それは言葉を換えていえば、 
     「無分別智の火を燃やして生きる」
    ことであると<唯識>は説きます。
    無分別智とは「ものごとを分別しない心」です。「あの人を自分が憎み」という表層の相縛のありようでいえば、憎い「あの人」と憎む「自分」と憎むという「行為」との三つを分別しないことです(三つを分別しないことから、三輪清浄の無分別智といいます)。換言すれば、「他」であるあの人と「自」である自分とを分別して「自他対立」の世界に生きるのではなく、自他一如、自他不二の世界に生きることです。
    でもこのように生きることは難しい。でも、難しいとあきらめてしまっては一人一宇宙の世界を変革することはできません。「無分別智はいわば火となって、阿頼耶識の中に潜む自他対立を生む汚れた種子を焼尽してくれるのだ」と阿頼耶識縁起の理を信じて、たとえば、もし、憎い人がいたら、その人に、「憎い、憎い、憎い」と何百回も叫んでみてはいかがでしょうか。分別することなく、相手になりきり、なりきってみるならば、憎いと思う気持ちがなくなってしまうかもしれません。
    「三輪清淨の無分別智」がはたらく場は、日常生活の中のどこにでもあります、たとえば、料理をする、掃除をするときにも、ただ、ただ、それになりきり、なりきって行動するときに、そこに無分別智が働くことになります。道を歩くときでも起こすことができます。重い荷物を持って歩いているときでも、それになりきって歩けば、重くはありません。だれかに、重いでしょう、と声をかけられたとたんに、重くなります。自分と重いものとを区別し、二元対立の世界となるからからです。
    とにかく、まずは、表層において、対象になりきり、行為になりきって相の束縛から脱却し、その自他対立がなくなった表層心のありようが、阿頼耶識縁起の理に則して、深層心の束縛を徐々になくしていくことになり、最後には表層的にも深層的にも心が浄化されて、自由自在な状態になっていきます。
    阿頼耶識縁起説は、まさにそれを日常生活の中に活かすことができる実践的な教えです。

    ● 正しい教えをくり返し聞くこと(正聞熏習)
    <唯識>には、もう一つ、表層心と深層心との縁起的関係についての重要な教説があります。
     表層的な相縛は深層の阿頼耶識にある「汚れた種子」(雑染の種子)から生じますが、阿頼耶識の中には、もう一種類、「清らかな種子」(清浄の種子)が潜んでいます。その典型が、前回の第3講で述べた「仏陀(覚者)になる可能力としての種子」です。このような素晴らしい種子に栄養を与え、成育せしめ、そして発芽させるにはどうしたらよいのか。
     この問いに対して、<唯識>は、
     「正しい教えを正しくくり返し聞く」という表層心でのありようが、深層に熏じつけられて、そのような素晴らしい種子を育むと考えるのです。これを「正聞熏習」といいます。
    「正しい教えを正しく聞く」―――これは、原始仏教から「聞法」と言われて、重要な修行法の一つとして説かれてきましたが、<唯識>はその機構と効用とを表層心と深層心との関係で捉えるに至ったのです。しかも、教えは真理の世界から流れ出たもの(法界等流の法)であるといいます。たしかに、釈尊が説かれる縁起・無我・空・無常・涅槃などの教えは、如実に真理を証した智慧に裏付けされた教えです。そこには疑う余地がありません。だから、真理から流れ出たものといっても過言ではありません。
    もちろん、「唯識」という教えは、釈尊によって直接説かれたものではありません。しかし、釈尊と同じく「真理」に至り真理を証した先師・先哲たちによって唱えられた、真理に裏付けされた教説、それが「唯識」思想でありと、私は最近、確証し、強く確信するようになりました。
     では真理とはなにか。これについてはいずれ触れてみたいと思います。

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  6. shinichi Post author

    末那識について

    ●自意識について
    今回は、阿頼耶識とならんで重要な末那識について考えてみます。
    まず、その説明に入るまえに、よく言われる「自意識」ということを考えてみます。
    「あの人は自意識が強い」とか、「自分は自意識過剰である」などと、「自意識」という言葉がよく用いられます。この自意識は、たとえば、英語のself-conciousnessの訳語として用いられ、自意識に関する研究は、欧米においても、心理学などの分野で盛んに行われています。
     今回は、<唯識>における、いわゆる“自意識”とも言える「末那識」を考えるのですが、その検討に入る前に、もう少し、自意識につて考察してみましょう。
    まず、自意識とは総じて「自分についての意識」と定義することができるでしょう。
    では、このように定義されることができる具体的な事例を考えてみます。まず、
    一番にあげられるのが、「自分の容姿や言動を気にする」という事例です。いま「気にする」と表現しましたが、より正確には、「他人に比べて、自分の容姿や言動は劣っているから恥ずかしい」という気持ちが生じるのです。この羞恥心が起こる背景には「他人と自分とを区別し分別する心」があります。そのような分別心は、幼児から大人に成長するなかで、だんだんと強まってきて、最も強まった時期が思春期であるといえるのではないでしょうか。誰しもが経験する若者時代の羞恥心という自意識です。
     思春期だけではありません。大人になっても私たちはいつも種々のありよう(容姿・能力・地位・財産など)において他人と自分とを比較して、「あの人に比べて自分は劣っている、あるいは、勝っている」と考え、そして心が動揺します。
    以上は他人との関係で生じる自意識ですが、これを「対他的自意識」と呼んでおきます。これに加えて、もう一種類の自意識があります。それは、たとえば「自分は自分で、なぜ他人ではないのか」「なぜ自分は昨日の自分と同じ自分なのか」という疑問の中にある「自分」を意識するという自意識です。さらには「自分とは何者か」いう問いかけの中の「自分」も、この種の自意識に相当するといえるでしょう。
    このような自意識は、あきらかに前者の対他的自意識と違います。なぜなら、他人と関係なく、一つの独立した個の存在を凝視し、その中にひたることによって、言葉で設定された自分であるからです。いま、これを「対自的自意識」と名づけておきましょう。
     この対他的自意識と対自的自意識との二つは、前者は「感じられた自分」「情緒的な自分」であり、後者は「言葉で設定された自分」「知的な自分」であるともいうことができるかもしれません。

    ○自我執着心について
    ここで<唯識>の説く末那識の説明に入っていきます。「末那識とは自分を意識する識」です。でもこの「意識」という語を用いての末那識の定義は間違っています。なぜなら、末那識とは、深層にはたらく心であって、欧米でいう自意識の意識と、また<唯識>が説く八識中の意識とは本質的に相違するからです。自意識の意識は、私たちの種々の認識作用(感覚・知覚・思考など)の総称としての意識、あるいは、心の経験内容の総体、であるのに対して、<唯識>の説く意識は、第二講で述べたように、八識の中の一つで、「言葉を発する」「すべてのものを認識対象とする」「感覚とともにはたらいて感覚を鮮明にする」という特別のはたらきを有する心のことをいいます。
    したがって、「末那識とは自分を意識する識」と、安易に意識という語を用いて定義することはできません。そこで、「末那識とは自我執着心である」と定義することにします。
    「自我執着心」(自分にこだわり執着する心)―――この語に注目してみましょう。この執着心はどのような形で現われるのでしょうか。一つは、前述した対他的自意識の中での「自分」への執着として現われきます。人前であがる、恥ずかしく思う、これらの出来事の裏には、かならず自我執着心がはたらいていることは容易に分かります。「感じられた自分」に執着がなければ、アガルことも恥ずかしがることもないからです。また他人と自分とを比べて、優劣を考える。たとえば、容姿が、能力が、地位が、劣っている、勝っていると考え、「自分」を卑下する、あるいは自慢する、これも、「考えられた自分」「言葉で設定された自分」への執着であるというこも、容易に分かります。よくよく考えると、容姿は親から与えられたものであるのに、あたかも自分が造ったように、「自分の顔は綺麗だ」と自慢します。あるいは、肩書きにすぎないのに「自分は社長だ、部長だ」と威張ります。
    さらには、前述した対他的自意識の中での「自分」も執着の対象となります。もちろん「なぜ自分は自分であって他人ではないのか」「自分とはなにものか」と知的に追求していく中での自分は、執着の対象とは言われないかもしれません。しかし、「自分はいま生きている、でもいずれ死んでいく。死ぬのが恐い」と思う中の「自分」は、あきらかに執着された自分です。この「自分」へ執着がなければ、死ぬことも恐くなくなります。
    いま、いくつかの自我執着心をあげましたが、私たちは、もう毎日毎日、生活のなかで種々の形で自分に執着して生きていっています。

    ●「倶生の我執」と「分別の我執」
    <唯識>では、自分への執着を「我執」とよび、「倶生の我執」と「分別の我執」とのに二分します。前者は生まれたと同時にもっている我執、すなわち先天的な自我執着心であり、後者は生まれてから以後、社会や環境や教育など外部から情報として与えれられ身についた我執、すなわち後天的な自我執着心です。
     いま問題としている末那識は、この二種のうちの「倶生の我執」の中にふくまれます。
    この二つの我執は、すでに述べました次の二つの自分への執着であるといえます。
    ①「感じられた自分」への執着
    ②「言葉で設定された自分」への執着
    このうち①は、前述した「人前であがる、恥ずかしいと思う」という出来事の裏ではたらく執着心です。さらには、まだ「自分」という言葉を覚えていない幼児にもある自分への執着も、この種の執着といえるでしょう。たとえば、生まれたからすぐに母親のお乳を吸う、泣き癖がつく、などもそのためであるといえるのではないでしょうか。
    ②は、「自分」という言葉でもって、もうがっちりと堅固に存在すると考えられた「自分」への執着です。
     いずれにしても私たちは程度の差はあれ、いろいろの種類の自我執着心を起こして日々生きているといっても過言ではありません。自分を中心にすえてくり返し考え行動し、そのありようは、深層に影響を与えてまずます自分を重くしていっています。(「第四講 阿頼耶識縁起について」を参照して下さい)
     では、なぜこのようにいつも自分中心的な生き方にならざるを得ないのか。この疑問に対して<唯識>は、それは、
     「心の深層に末那識がはたらいている」
    からであると答えます。末那識という深層的な自我執着心がつねに渦巻いているから、それが波紋して、表層が自分中心のありようにならざるを得ないと考えるのです。
     ここで、末那識を詳しく検討してみましょう。末那識の末那はmanas の音写です。したがって意識の意と同じ語です。でも、それを意と訳すと意識と同じ表現になりますので、manasを音写して末那と訳すのです。この原語としては、世親の『唯識三十頌』のなかに、
    「末那と名付けられる識」(mano nAma vijJAnam)という表現がありますが、普通は末那識という訳で統一されています。
     この末那識が表層の眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識と、そして深層の阿頼耶識と相違する点は、次の二つです。
    ①恒審思量である。
    ②我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩とつねに相応する。
     manasは「考える」という動詞manから派生した名詞ですので、思量と意訳され、末那識は別名「思量識」ともいわれます。ただ、この識の思量のありかたが、他の七識のそれと違うのは、「恒審思量」すなわち「恒に審びらかに考える」という点です。このうち「恒に考える」とは、寝ても覚めても、いな、生死輪廻するかぎり、いつも自分、自分と考えていることです。「審びらかに考える」とは、執拗に、ねばっこく、考えていることです。 

    ● 末那識の対象
    では、末那識はなにを対象として「自分」と考えていうのでしょうか。そこを<唯識>は
     「末那識は阿頼耶識を縁じて我と為す」
     と説きます。すなわち、末那識は深層にはたらく根本心である阿頼耶識を認識対象として、「自分、自分」と考えているのです。末那識のこのようなはたらきは深層で展開されているのですから、表層の世界にのみに生きている私たちには理解しがたものです。
    そこで、理解しやすい表層での自我意識すなわち第六意識が「自分」と考える対象を考えてみますと、たとえば、「自分の顔」「自分の身体」「自分の心」あるいは「自分の地位」云々ともう無数の挙げることができます。しかしここに列記した「顔」「身体」「心」「地位」などは、究極の自我執着心の対象ではない、真の究極的な根源的な執着の対象は、「阿頼耶識」であるということを、<唯識>を打ち出したし人びとは、ヨーガという実践を通して発見したのです。
    ヨーガを組み、己の心の奥に沈潜しない限りこのことは分かりません。でも、表層でその存在に気づいている「顔」や「身体」や「地位」や、その他、もろもろののものは真の執着の対象ではなかったのだ、ということだけでもこの<唯識>の教説から学ぶことができます。

    ● 末那識が自我執着心と言われうる理由
    では、最後に、末那識はなぜ「自我執着心」と「執着」という語を付していうことができるのでしょうか。それは前述したように、末那識の第二番目の特徴である、
     「我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩と恒に相応している」からです。
    我癡とは「自我についてのおろかさ」、我見とは「自我は存在するとみる見解」、我慢とは「自分を他人とを比較して傲る、あるいは卑下する心」、我愛とは「自分への愛着」です。いずれも「自分」といものへの、しかも、本来的には存在しない自分への「癡・見・慢・愛」という汚れた煩悩です。この四つの汚れた煩悩をともなっていることから、末那識は別名、
     「染汚意」(kliSTa-manas)
    ともよばれます。染汚(汚れた)とよばれる点に注目してみましょう。すでにくり返し述べてきましたが、私たちは、いつも、いつも、自分を中心にすえて考え行動しています。その汚れたありようは、他人を傷つけ、自分をも苦しめます。
    「あの人は憎い。でも憎いと思ってはいけない。でも会えばついまた憎んでしまう。この憎しみの心を生じる根源には、いつも深層で汚れた末那識がはたらいているからだ。よし、この末那識の汚れを少しでも薄めていこう!」
    という気持ちが起こる。これが<唯識>の説く末那識から学びとることの一つであるといえるのではないでしょうか。
     前に末那識は倶生の我執であると述べました。このもって生まれた自分への執着心は、
    「他人と自分とを区別する心」であると換言することができます。この根強い自他区別心のはたらきを少しでも弱めるにつれて、我他彼此と対立して生きている世界が徐々に変ってくるのだ、ということを末那識という教説は私たちに訴えているのです。(末那識を転じて平等性智を得るーーーこれにつては後に述べます)

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  7. shinichi Post author

    三性について(その一・遍計所執性)

    ●言葉で考える
    今回から阿頼耶識とならんで<唯識>の代表的な思想である「三性」について考えてみます。三性の原語svabhAvaですので、詳しくは「三自性」と訳されますが、以下、言い習わされている「三性」という表現で統一していきます。
    三性とは遍計所執性と依他起性と円成実性の三つですが、今回は、最初の遍計所執性について検討してみましょう。
     この遍計所執性を考えるにあたり、問題となるのは「言葉」です。私たちは、なにか「もの」を設定するときは、かならず言葉を用います。たとえば、鏡の前に立ってそこに写るものを見て、「自分の顔だ」と考えます。そこに「自分」と「顔」という二つの「もの」が設定されました。だまって、ただ、じっと写る鏡像に見入っているだけでは、そこには「自分」も「顔」もありません。それが「自分の顔だ」と言葉で考えて捉えたときに、その「なにものでもなかったもの」が「自分」と「顔」という二つに成ってしまいます。名前のないものが、名前のあるものに変貌してしまいます。
     しかし、すでに、静かに観察し確認しましたように、自分というのは、言葉の響きがあるだけなのです。自分だけではありません。
      言葉で語られ、考えられた「もの」
    はすべて実体として存在するものではありません。
     このことを遍計所執性の原語を分析することで、もうすこし詳しく検討してみましょう。原語はparikalpitaで、pari-は「あまねく」「広く」「すべてにわたって」「完全に」などを意味する接頭語、kalpitaは「考える」という動詞kLpの過去分詞ですので、遍計所執性の原語parikalpita-svabhAvaは、「あまねく考えられたもののありよう」というのが原意です。
    このうち、漢訳の遍計に相当する「あまねく考えられた」ということを分析してみましょう。

    ●時間的なすべて
    まず、「あまねく考えられた」とは、時間的にも空間的にも、すべてにわたるということです。このうち、時間的には、過去と現在と未来との三時にわたって考えられるということです。
    たしかに、私たちはそうであって、「過去」を追憶しては後悔します。そして「あの時はよかったのに今はだめだ」と過去を思い出して現在を憂います。また未来をくよくよと考えて不安を抱きます。未来における一番の不安は「自分は死んだらどうなるのだろうか」という恐れです。
     このよう、私たちは、過去・現在・未来にわたって「すべての時間」を、そしてその時に起こった、あるいは起こるであろうことを考えるのです。
     しかし、ここでも静かに観察し思惟してみましょう。過去はもう過ぎ去ったのですから、存在しません。未来も未だ来ていなのですから存在しません。したがって「過去」と「過去のことやもの」、そして「未来」と「未来のことやもの」はいずれも非存在、すなわち「無」なのです。では「現在」はどうでしょうか。現在とは「現に在る」というのですから、これこそは、存在する、すなわち「有」であるのだ、と主張できそうです。でも、真の意味での現在は一刹那ですので、一刹那に在るものを私たちは到底把握することはできません。「今、現在は何時何分である」といっても、その現在は、数秒にわたる現在であって、真の意味での現在ではありません。現在とは、言葉の響きがあるだけなのです。
     このように、私たちは過去・現在・未来にわたって「あまねく考える」のですが、そのように「考えられた」ものやことはすべて非存在であり、やはり言葉の響きがあるだけなのです。
    ●空間的すべて 
    次に空間的に「あまねく考えられた」ということを分析してみましょう。空間的という場合に問題となるのは、「内」と「外」という言葉です。私たちは、自己の「内」に心があり、「外」に、広大な宇宙からはじまって、ないし、地球が、自然が、事物が、さらには、事物を構成する分子・原子・素粒子があると考えます。しかし、これらの宇宙ないし素粒子などの「もの」は、心の外に厳として実体として存在するのでしょうか。結論からいうと、そうではありません。「140億年前にビックバンで生じた広大な宇宙は、いまも、膨張をつづけている」といいます。でもそのような“広大な宇宙”は、情報として与えられ、各人の心の中で、いわば“考えられた宇宙”です。したがって抽象的な宇宙です。具体的な宇宙は、私たち各人がその中に住し、決して抜け出すことができない“一人一宇宙”です。夏の夜空を眺めましょう。星々が輝く広大な宇宙が広がっています。その広大な宇宙は、各人の心の内にある影像です。(術語を使っていえば、阿頼耶識の種子から現行した相分です)。その“影像”に“広大な宇宙”という言葉を付与して、しかもそれが自己を離れて存在すると思い込んでしまうのです。
     対象を宇宙から、身近な眼の前の、たとえばコップに話題を移しましょう。人に、「そのコップはあなたの外にありますか」と聞くと、その人は、かならず「私の外にあります」と答えます。しかし、この人は、素朴実在論に毒されて、無反省に無思慮に、単純に「外にある」と言ったまでのことです。少し考えてみると、その人自身は、自分の外に抜け出たことはいまだかってないのですから、コップが本当に外にあることを知っていないのですから、もしも、「外」という言葉を使うならば「コップは外にあると推測します」、あるいは「コップは外にあるかもしれません」と答えるべきです。
     これに関して、<唯識>は、コップといったものは外界には存在しないと断定します。コップから、ふたたび視野を広げてみましょう。
     「三界唯心、心外無別法」
    という有名は文句がありますが、欲界・色界・無色界の三界は唯だ心であり、心の外に別法(別の実体的存在)は無い、という主張です。欲界の最下層の地獄を考えてみましょう。「地獄は死んでからそこに落ちる世界ではない、すべて心が作りだしものである」と<唯識>は主張するのです。地獄はとにかく、人間でありながら地獄や餓鬼にも似た醜く恐ろしい心を起こしてこともあります。
    ここで、私に「憎い人」がいるということを検討してみましょう。私がある人を憎むとき、そのような「憎い人」が自分の外に厳として存在すると素朴に考えます。しかし本当にそうでしょうか。ここで、「憎い人」というものが私の中に出来上がる過程を静かに考えてみましょう。
    まず、私の心の中に、ある人の影像が生じます。その影像に対して私が「(憎いという)気持ちで色づけし、そして「憎い人」という言葉を付与して、憎い人が決定的に出来上るのです。このように、他人は憎くも憎くもないまったくの中性的存在であるのに、私の方から一方的に、「思い」と「「言葉」とを付与して「憎い人」というものを心というキャンパスの上に描き出したのです。あるのは「思い」と「言葉」だけである、この事実に気づくことが大切です。これが理解できたら、前述の「三界唯心、心外無別法」が、より事実として納得できるようになるでしょう。

    ●「所執」について
    以上、遍計所執性のなかの「遍計」について考察してきましたが、この遍計よりも、むしろ注目すべきは「所執」ということ、すなわち「執着される」ということです。原語parikalpitaには所執にあたる語はありません。しかし、この語を付加した玄奘訳は見事な訳であると思います(ちなみに真諦は分別性とのみ訳しています)。遍計だけでは、すなわち、「自分」存在する、外界に「もの」はあると考えるだけでは、別段問題がありません。問題は、そのように考えられた「自分」や「もの」に執着するところに、いろいろの苦が生じるとくことです。一番問題のある執着の対象は、すでにくり返し述べてきましたように「自分」です。しかし、考えられた「自分」がすべて否定されるべきものではありません。「自分は、迷っている。よし迷うから抜けでて悟りに至ろう」と思う自分は必要です。しかし、「自分は社長だ、上司だ」と思って部下を見下すような「自分」は否定されるべきです。
    また、少欲知足という精神で衣食住を享受するのは問題はありませんが、便利と快適という価値観でもって身の周りの道具や事物への欲望を増大させること、そして、金銭に代表される財産などという「物」に執着すること、さらには、物質的でないもの、たとえば、地位や名誉、さらには、宗教や民族といった「もの」に執着するところに大きな問題が生じることになります。特に最後の「宗教」や「民族」への執われは、宗教紛争や民族紛争、そして戦争という人類が犯す最大の愚行までを引き起こすことになるのです。

    ●遍計所執性は都無である
    最後に遍計所執性の存在の度合い(存在性)について考えみます。三性の存在性は術語で次のように定義されます。
     遍計所執性―――都無
     依他起性―――仮有
     円成実性―――実有
    依他起性と円成実性との存在性については後に言及することにして、いまは、遍計所執性の存在(言葉で考えられて存在)の度合いが「都無」、すなわち、「すべて、まったく、いかなる意味でも無である、非存在である」というのです。
    この指摘はおそろしい。なぜなら、私たちは、ほとんどの時間、言葉であれこれと考え、それにいわば翻弄されて生きているといっても過言ではありません。つまり、私たちは、まったく存在しないもの、非存在のものに執着して生きているのです。何と愚かな生き方ではないでしょうか。そのように非存在の中に生きているからこそ、一日、一月、一年、生きたとしても、「ああ、生きてよかった」と満足することができないのです。
    「たしかに、生きているぞ」という充実感を味うことできるためには、時には、遍計所執性の世界から、まずは、依他起性の生(なま)の世界に帰る必要があります。それへの道がヨーガ、あるいは禅を修することです。吐く息、吸う息になりきり、なりきってみましょう。息という他なるものにまかせきって、自分を放捨し、空間も時間も、内も外も、物も心も消し去ってみましょう。そこになにが現れてくるでしょうか。
     とにかく、遍計所執性というこの一語から、このように、私たちは多くを学ぶことができます。

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  8. shinichi Post author

    三性について(その二・依他起性と円成実性)

    ●他に依って起こる存在
    今回は三性の中の依他起性について考えてみましょう。
    依他起性の依他起の原語はpara-tantra(パラタントラ)で「他に依る」という意味ですが、玄奘三藏はそれに「起」を付して依他起、すなわち「他に依って起こる」と訳しました。
    三性とは、前に述べましたように、ある一つの「もの」の三つの存在のありようを意味しますが、このうちの依他起性とは、私たちの存在の基本的なありようが「“自分”に依るのではなく“他”に依っている」ということを意味しています。
    たとえば、私たちは、自分で生まれてこようと思って生まれて来たのではなく、気がついてみたらこの世に生を受けていたのです。厳密にいうと、この世に投げ出されたのです。精子と卵子とが合体し、それから、遺伝子の働きによって胎児になり、ないし、六十兆の細胞からなるこの身体が形成されるまでの過程においても、すべて“自分”以外の“他の力”が働いたのです。
    そして、歳をとりたくないと思っても、無常の力によって、日々、身体は衰えて、死に向かって進んでいきます。
    身近な事柄に、たとえば、鏡に映る顔を例にとってみましょう。写った顔を黙ってじっと見入っている限り、それは「自分」でも「顔」でも「自分の顔」でもありません。言葉でもってそれを「自分の顔である」と言ったとたんに、それは「自分の顔」になってしまいます。この言葉で捉えて「もの」のありようが前回の遍計所執性です。
    これに対して言葉で把握される以前の「もの」の存在のありようが依他起性、すなわち「他に依って起こったありようをしたもの」です。「他に依って起こった」ということは「“自分”から起こった、“自分の力”で生起した」ということではないということです。たしかに、眼を開いて鏡の前に立てば、鏡の中に影像が生じざるをえません。「よし、こんどは見ないぞ」と私が思って眼を開いても、影像は私の思いとは無関係に生じます。このように鏡の中の影像は、たしかに他の力に依って起こったのです。
     影像だけではありません。<唯識>が説く識、すなわち、「心」全体が依他起というありようをしています。朝、私は目を覚ます。すると、私の意志と無関係に、この「一人一宇宙」の心がいわばビックバン的に展開します。生じます。この「一人一宇宙」の世界は、もう、無量無数の縁によって生じたのです。いま「縁」という言葉を使いましたが、依他起は、それまでの「縁起」を言い換えた新しい造語です。依他起とは「他によって起こる」、縁起とは「縁によって起こる」ということですので、「縁」とは「他」、すなわち「“自分”以外の他の力」ということになります。
    静かに考えてみますと、いま、ここに、こうして生きている“自分”という存在の中には「“自分”の力で生じ来たり、そして存在しているもの」はなに一つありません。この私の“いのち”も、あの三十六億年前に地球のどこかで生じた根源的な生命体から脈々と流れ来たった“いのち”の一つのほとばしりです。この身体は、多くの器官や骨や神経や、ないし、六十兆の細胞から成り立っています。私がこうして、いまここに立っているのは、大地があり、地球があり、太陽があり、ないしは宇宙の涯があるからです。
    このように観察と思惟を広げていくと、前に、「いま、ここに、こうして生きている“自分”という存在」と言いましたが、この中の“自分”という存在は、もう消え去ってしまいます。すでに、くり返し述べましたように、“自分”というのは、言葉の響きがあるだけなのです。“自分”というのは、思いと言葉とのよって作り出した、まったく存在しないもの(都無)なのです。

    ●幻の如き存在
    依他起性を考えるにあたり、もう一つ重要なことは、依他起性は「如幻有」、すなわち「幻の如き存在」であるということです。「幻」とは魔術のトリックによって表された出来事です。実際には存在しないのに存在するが如くに見える「もの」です。
     心が依他起性であり、依他起性は「幻の如き存在」であるということは、心が作りだす世界が「幻の如き存在」であるということです。それは、魔術のトリックによって表された出来事のように、一見、有るよう思えるが、実際には無いということです。
     私たちは、“自分”の周りに展開する物事が「有りて有る」「実際に存在する」「実体としてある」と思って、それら物事に執着し、そして自ら苦しみ、あるいは、他者をも苦しめることになります。たとえば、“自分”を設定して、「自分の力でこの財産を得たのだ」と考えて、その財産に執着して守る、あるいは、それを失って悲しむ。でも財産は幻の如き存在であって、有るようで無く、無いようで有る、という、そのような存在である、さらに、“自分”とは、思いと言葉とによって作りだされた、まったく存在しないものである、ということに気づくならば、“自分”、あるいは“自分のもの”という思いの束縛から解き放されて、少しは軽く自由な人生を送ることができるようになるのではないでしょうか。
     私は、「唯心如夢」と「放下着」という言葉が好きです。「一切は唯だ心であり、しかもそれは夢の如きである。だから一切を放下して執着するなかれ」という生き方は、たしかに難しい。しかし、<唯識>の三性説から真摯になにかを学ぼうとするならば、一番重要なことは、しばらくでもいい、遍計所執性の世界から依他起性の世界に帰り行こうとする気持ちを起こすことです。
    ここで前回に述べた、三性の存在性をもう一度記してみます。
     遍計所執性―――都無
     依他起性―――仮有
     円成実性―――実有
    依他起性の仮有という存在性は、今回では「如幻有」と言い換えています。
    この三性の存在性の教えは、先ずは、まったく存在性のない遍計所執性の世界から抜け出て、仮にある、幻の如き世界に帰り行き、そして、真実に存在する円成実性の世界に最終的に辿り着くことを私たちに勧めているといえるでしょう。

    ●完成された存在
    つぎに三性の最後の円成実性について考えてみましょう。
    円成実の原語はpariniSpannaで、「完成された」という意味です。したがって、円成実性とは、遍計所執性から依他起性の世界に帰り、その依他起性の世界が完成されたありようであるということができます。では「完成された」というのは、具体的にはどのようなことでしょうか。
     遍計所執性の世界に住する人は、思いや言葉や煩悩に汚染された心で生きている人です。その世界から抜け出て、依他起性の世界に住する人は、心に思いや言葉がなくなりました。しかし、それは表層の心のありようがそのようになっただけで、深層の心、すなわち阿頼耶識には、いまだ思いや言葉や煩悩が生じる可能力(種子)が潜在しています。この深層の汚れを修行によって完全になくしきった人の心を円成実性といいます。円成実性に至るとは、仏に成ることです。修行を完成して、心が清淨になりきることです。
    そのところを、円成実性を別の語で置き換えて「円成実性とは一切諸法の真如である」といいます。
     ここで「真如」について検討してみましょう。この語の原語はtathatAで、「~のように、その如くに」(yathA—-tathA)という接続詞のtathAに接尾語tAを付して造った抽象名詞で、「その如くである」という意味です。
    私たちは、すでに述べたように、真ん中に“自分”を設定したエゴ心と言葉を用いた分別心とで、物事を「もとのありよう」から雲泥に相違する「もの」として認識しています。たとえば、チョークを手にして「これは何ですか」と聞くと、人は「それはチョークです」と答えます。しかしこれは正確な答えではなく「それはチョークである、と“自分”は思います」と答えるべきです。すなわち、事実判断にしてしても価値判断にしても、つねに“自分”というものを中心にすえて判断しているのです。しかもチョークという言葉を用いて判断しているのです。だからそのように判断された「もの」は、もとの「それそのもの」「あるがままにあるもの」「その如くであるもの」ではありません。
     判断される以前の、しかも完成された心で認識される「もの」、それを真如というのです。
    それは思いや言葉を離れたものですから、本来は「真如」ともいえないもの、不可思議なものです。各人が自ら証得しなければならないものです。
     それは、たしかに容易なことではありません。でも、そこに至る出発点はどこにでもあるということだけを確認しておきたい。それは、前述した「円成実性とは一切諸法の真如である」という中の「一切諸法の真如」すなわち「すべてのものの真如」という表現に注目しましょう。「ありとあらゆるもの」の「あるがままのありよう」といわれています。そして、真如も、一味・平等・遍在・清浄と定義されますから、真如は、たとえば、蝉に声の、川の流れの音の、雨の音の、あるいは、吐く息、吸う息の真如であり、どのような一つの事象から出発しても、同じ共通の真理に至ることができるのです。
     最後の例にあげた「吐く息、吸う息」になりきり、なりきってみましょう。すると、まずは、思いと言葉とから成り立つ遍計所執性の世界が消えて、もとの、生(なま)の依他起性の世界、最後の最後の究極の清浄な世界に帰り着くことができます。
     <唯識>が説く三性説から、私はこのような生き方を学び、その教えを実践しています。その実践を「ヨーガ」と総称することができますので、次回はヨーガについて解説します。

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  9. shinichi Post author

    「ヨーガ」について
    ●ヨーガとはなにか
     大法輪カルチャー講座の「唯識入門」も今回で最終講になりましたが、最後に<唯識>を考えるにあたり、重要な概念である「ヨーガ」について言及してみましょう。
     「ヨーガ」(漢訳で瑜伽)という修行の方法を発明したことは、インド人が人類に果たした大きな貢献の一つであったいっても過言ではありません。いま日本に禅宗という宗派がありますが、その「禅」というのも、あるいは、勉強三昧、道楽三昧と日常的に使われている「三昧」も、あるいは、天台の「摩訶止観」といわれる「止観」も、いずれもヨーガの一つです。
     ではヨーガとはなにか。広くインド一般でいえば、ヨーガとは、「解脱に到る道」ということができます。もっと内容的にいえば、「感覚器官を統御し、心を静め、精神を統一する方法」であると定義できます。
    仏教を開いた釈尊も六年間に亘る苦行の後、最終的にはヨーガを修して悟りを得ました。その後の仏教に於いてもヨーガの実践が重んじられ、特に唯識思想を打ち立てた派は「唯識瑜伽行派」と呼ばれるようにヨーガの実践を重要視し、その結果、阿頼耶識説あるいは三性説などの新しい教理を提唱したのです。ここでヨーガがどのようなものであるかをさらに詳しく考えてみましょう。
     まずヨーガを原語から分析してみます。ヨーガの原語yogaは、結合するという動詞yujから派生した名詞で、「結び付く」「結合する」というのが原意です。
     ではなにとなにとが結合するのか。それは次の二段階に亘る結合を意味します。
     先ずは「身体」と「心」との結合です。
      通常、私たちは自分という存在は身体(以下、身と略称します)と心とから成り立っていると考えます。だから身を美しくみせたい、身はいつまでも若くて強くありたい、と願います。そのときは「身」と、そう考える「心」とが分離しています。その二つの分離を一つに結び付ける、これがヨーガが目指す最初の目的です。
     その方法の一つが、例えば、吐く息・吸う息になりきり、なりきってみることです。息が自分か自分が息かというほどに、全エネルギーを息に集中し、集中し続ける。すると、そこに身と心とが結合されて、身でも心でもない非身非心の世界が現れてきます。このように身でも心でもない息を媒介として非身非心の世界に復帰します。これをすでに述べた三性(遍計所執性・依他起性・円成実性)でいえば、思いと言葉とから作りだされた虚妄の世界、すなわち遍計所執性の世界から、より生の世界、すなわち依他起性の世界に帰るゆくことです。 これがまずはヨーガが目指す第一の目的です。
     次ぎに目指すのは、そのように身心が結合したところに現われてくる「新たな心」と「真理」との結合です。すなわち、いわば個がその中に融解してしまうところの真理(真如)と結び付くことです。これによってヨーガの目的が完成するのです。
     yogaを結合ととらえて「結びつく」ことと定義しましたから、少し分かりにくい説明になりましたが、ここで、より分かりやすくするために、「結びつく」というのを、結びついて「新しいものに成る」、すなわち「成る」という表現で言い換えてみましょう。そこで、右の二つの過程を、もう一度、三性で考えてみますと、一人一宇宙が、その中で虚妄の遍計所執性の世界が滅して、生(なま)の依他起性に成り、そして最終的に真実の円成実性の世界に成る、と言うことができるでしょう。
     
    ●ヨーガを修する必要性
     ここで、なぜヨーガを修する必要があるのかを、考えてみましょう。
    その参考になるのが、初めて唯識思想を打ち出したとされる『解深密経』の中の次の一頌です。
     「衆生は相の為に縛られ、及び麁重の為に縛られる。
      要らず止観を勤修せよ。爾らば、乃ち解脱を得ん」
    「私たちは、表層心(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)は相のために束縛され、深層心(阿頼耶識)は麁重のために束縛されている。この二つの束縛から解脱するためには、かならず止観すなわちヨーガに修しなければならない。」というのが右の一頌の内容です。
     まず、止観についてですが、止とは静寂な心、観とは存在の真実のありよう・本性をみる心です。止の原語Zamathaは「止む・息む」を意味する動詞Zamに由来する名詞で、奢摩多と音写されます。また、観の原語vipaZyanAは「見る」を意味する動詞paZから派生した名詞で毘鉢舎那と音写されます。この二つは別々に存在するのではなく、一つの心の二つの面を表したものです。すなわち、心の静まった側面を止といい、その静まった心の観察するという側面を観という。たとえば、まったく波の立たない静かな水面は、同時にたとえば満月をそっくりそのまま映しだしているようなものです。
     次に、右の一頌にある「相による束縛」(相縛)と麁重による束縛(麁重縛)とについてですが、すでに第四講で述べたように、相による束縛とは、たとえば、憎みということを例にとってみると、憎い人の「影像」と、憎いという「思い」と、憎いという「言葉」という相に掻き乱されて憎むという煩悩を起こして、自ら苦しみ、相手をも苦しめるという束縛です。
    麁重による束縛とは、相によって束縛された表層心によって阿頼耶識に熏じつけられ、植えつけられた種子、たとえば、憎むといった煩悩を生じる汚れた種子によって深層の阿頼耶識が束縛されているという状態をいいます。
    本当に私たちは、表層的にも深層的にも、もうがんじがらめに束縛されて悩み苦しむ毎日を送っています。しかし、ヨーガすなわち止観を実践すれば、そのような状態から解放されると<唯識>は強調するのです。
    私たちは、物事をありのままに観ていません。たとえば、私たちの日常の心は、波立つ揺れ動き散乱しています。たらいの中の揺れる水面が上に輝く満月を、もう雲泥に違ったものとして映しだいているようなものです。でも、そのざわめく波を静めてみましょう。「明鏡止水」と言われるように、止水には、満月が、そっくりそのまま映しだされます。
    このまったく波一つない止水のように、定まった止寂した心、それが「止」の心です。そして、その同じ水が満月を映しだすはたらきに喩えられる心が「観」の心です。
    本当に私たちの日常の心は止水とほど遠い状態です。だから、たとえば、憎い人という存在の真相と、そのような存在が生じる原因を智ることができません。
    ここで、しばらくヨーガが修して、物事を、たとえば憎むという出来事を静かに観察し思惟してみましょう。私たちは、たとえば、ある人を憎むとします。その時、自分の外に「憎い人」が存在し、その人を前にすると、憎いという気持ちが生じと考えます。しかし、ここでしばらく心を静め、心の中に住して観察し、思惟し、「憎い人がいるから憎いという思いが生じるのか。それとも憎いという思いがあるから、その人は憎い人なるのか。」と自問してみましょう。静かにこの因果関係を観察すると、後者の「憎いという思いがあるから、その人は憎い人なる」という因果が正しいと気づきます。だから、続いて「もしも自分に思いがなければ、決して憎いという人はいない」ということに気づきます。
    しかし、日常の乱れた心(散乱心)ではこの因果の理、すなわち縁起の理に気づくことなく、単純に現前の人を「あの人は憎い」と語り思っています。しかし、右にみたように、静かな止の心で現前の人を如実に見、観の心で因果の理、縁起の理を観察してみましょう。
    すると、唯識、唯識所変、一切不離識、という<唯識>の教理が如実に理解するようになります。
    憎いという思いと憎いという言葉とに振り回されることは、前述した二つの束縛のうちの相縛です。この思いと言葉とをなくために、現前の人に(実際は心の中にある影像)なりきりなりきってみることです。無分別智でその人になりきり、なりきってみることです。すると、この無分別智がいわば火となって深層の阿頼耶識に潜む「憎い」という思いと言葉とを生じる可能力(種子)を焼尽する、すなわち麁重縛からも解脱することになるのです。
    このようにヨーガを修する以外には心を深層から清浄にする方法はないと、<唯識>の論書には多く語られています。ここでもう一度、右の一頌のなかの後半を記しておきましょう。
    「要らず止観を勤修せよ。爾らば乃ち解脱を得ん。」
    私たちに強く訴えかけて来る文句ではないでしょうか。

    ●生活全体がヨーガ
    以上はヨーガの原語とその内容である止観という観点からの考察でしたが、『瑜伽師地論』巻第三十八にヨーガ(瑜伽)として次の四種があげられています。
     (1)信
     (2)欲
     (3)精進
     (4)方便
     ここには信じる、欲する、精進する、方便(修行)する、の四種がヨーガであると説かれています。このことからヨーガすなわち瑜伽といえば静かに坐るということを想像しますが、決してそれだけではなく、縁起の理を信じる、悟りを欲する、悟りに向かって勇猛果敢に努力する、具体的にヨーガを実践する、という、いわば真理・真実を追い求める生活全体がヨーガであるということになります。
     その際の、最も肝要なことは、これまでくり返し述べてきましたが、「なりきり、なりきって」生活することです。現にあるのは、各人のこの一人一宇宙の中の「いま」というこの一刹那の時間、そして「ここ」という空間です。「いま」「ここ」になりきり、なりきっていく、これが広く仏道修行の肝要事であるといっても過言ではありません。
     <唯識>といえば、「唯だ識がある」と考えて、「識」すなわち心に注目しがちですが、それ以上に大切なことは、「唯」ということ、「唯だ」ということに注目すべきです。「なりきり、なりきって、唯だ、唯だ、に生きる」、難しいことですが、実践的<唯識>は、それを説き示そうとしているといえるのではないでしょうか。
    たしかに、唯識の教理は、長い歴史のなかで、複雑で難解な教えとなりました。でも、それが私たちに伝えようとしているのは、まことに簡潔な真実であり事実です。
    七回にわたったこの度の「唯識入門」の拙講を読まれた方のなかで、すこしでもそのことに気づかれた人がおられた、望外の喜びです。

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