たとい享楽を目的とするトルコ風呂の類があるとしても、それは特別の場合で、西洋人の日常生活にあみこまれているわけでない。西洋風呂があの構造である以上は、西洋人風呂の味を解せずと言っていいわけである。
東洋の風呂の伝統が、シナやインドでどうなっているかは知らないが、とにかく日本では栄えている。もちろん日本の風呂の趣味も最初はシナから教わったもので、それまでは川へ行って水浴をやっていたに相違あるまい。しかしたまたま唐の詩人の感興が日本人の性質のうちにうまく生きて、もう何世紀かの間、乞食をのぞいたあらゆる日本人の内に深くしみ込んでいる。風呂桶がいかにきたなかろうと、日本人は風呂で用事をたすのではない、楽しむのである。それもあくどいデカダン趣味としてではなく、日常必須の、米の飯と同じ意味の、天真な享楽としてである。
温泉の滑らかな湯に肌をひたしている女の美しさなどは、日本人でなければ好くわからないかも知れない。湯のしみ込んだ檜ひのきの肌の美しさなどもそうであろう。
西洋の風呂は、流し場を造って、あの湯槽ゆぶねに湯が一杯張れるようになおしさえすればいいのである。この改良にはさほどの手間はかからない。それをやらないのだから西洋人は湯の趣味を持たないとしか思えない。
古寺巡礼
by 和辻哲郎
http://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49891_41902.html
(sk)
和辻哲郎の「古寺巡礼」を読んで、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」を読んだときに感じたのと同じことを感じた。
どちらも素晴らしい本であり、どちらも大好きなのだが、こと日本のこととなると、どちらもバランスを失う。
日本が特別であるということを言わんがために、「西洋では」という話を持ってきて、そこでつまずいている。
明治から昭和にかけての日本の文化人が持っていた鬱屈したコンプレックスは、今の私たちにはわからない。
Kindle で ¥0.- だったので、ついダウンロードして読んだのだが、期待以上に面白かった。年をとったのかな。