「戦意昂揚」「銃後の節倹」「増産体制確立」……。戦時体制下、国策プロパガンダを担ったプロダクションが存在した。報道技術研究会――広告界の錚々たるメンバーが集い、革新的な技術とシステムを生み出した。この仕事師集団の全貌を解明し、戦前から戦後を貫く広告技術の潮流を探る。
目次
・ 報道技術研究会という存在
・ 広告の1920~30年代
・ 「報道」と報研の胎動
・ 太平洋報道展をめぐって
・ 太平洋戦争下の報研
・ 「報道」の戦後
・ 「仕事師」たちの栄光と悲惨
「撃ちてし止まむ」 ──太平洋戦争と広告の技術者たち
by 難波功士
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『「撃ちてし止まむ」 ──太平洋戦争と広告の技術者たち』難波功士 著
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森永製菓広告課にいた人間たちが中心となって、昭和15年に報道技術研究会が結成されました。はじめから内閣情報部とは緊密な関係を持っていた彼らは、企業の活動のかたわらプロパガンダ活動を始めました。主なクライアントは、内閣情報局と大政翼賛会。彼らの他にも様々なグループが国の下請けとなって宣伝活動を行いましたが、この報道技術研究会は腕も実績もピカイチでした。腕さえ良ければ、売り込むのが商品でも思想でも基本は同じなのです。ポスター一枚にも、画家・図案家・文案家などがよってたかって「良いもの」を作ろうとしました。注文はどんどん増え、映画・歌・建築・工芸など各種の才能が結集します。出版・ポスター・壁新聞・移動展示展などで大忙しです。
意外にも、政府や軍のしめつけは(検閲や物資の配給を除けば)それほど厳しくなく、報道技術研究会は自由に仕事ができました。おそらく軍人や官僚は宣伝プロダクションのプロ集団を管理するノウハウを持っていなくて「丸投げ」するしかなかったのでしょう。さらに報研のテクニックが、当時としては新しいメディアミックスの手法であったことも「管理」を難しくしたのでしょう。