下村千秋

夕めしが済むと、灯はなし、もう寝るより外はなかった、主人と主婦と子供とは、炉端の屏風のかげに、ぼろ布を重ね縫ったような布団にくるまって寝た、私は、一枚のかけ布団をかけ、それへかしわにくるまって寝た。私は、寝ながら訊いて見た。
「こちらでは、お子さんは一人ですか?」
すると、主婦が、
「なアに、もう一人、今年十七になるのがあるのです」と答えた。
その娘は、今、どこにいるか、私はそれを訊いて見たかったが、ここではもうそれを訊くのが余りに残酷に思われて来た。で、黙っていると主人が、溜息をつくようにして言った。
「その娘こは、今、東京の方へ行ってます。この村からは、紡績へ出る娘がずいぶん多いですが、わしの娘は、五年の年期で、売り飛ばしてしまったです」
これには私は合槌も打てなかった。
僅か二三円の手附金で、一人の娘が売られて行くと、東京の新聞にはあったが、それは新聞のよたであった。いかに純朴な百姓といえども、それほど愚かではない。しかし、百円から三百円ぐらいの金で、一人の娘が、或いは私娼に、或いは公娼に売られて行く例はザラにあるのであった。私はその実例を、蟹田村の近くのある部落で見たのである。

4 thoughts on “下村千秋

  1. shinichi Post author

    その男は、木の瘤のような拳をふり上げながら、めし屋の主婦を相手に叫んでいるのだ。この地方の言葉を言っているので、私には解らない所が非常に多かったが、しかし大体は聞きとれた。
    「いいか、おかみさん、二年半育てた馬が只の三十五両だよ。それも、この七月に渡してその金がまだ入らねえだ。仕方ねえから、今日は、馬を取りかえして来べと思って出かけて行ったところが、それはかんべんしてくれろ、馬を持って行かれてしまっては、わし等親子四人が干ぼしになるだと言われただ。相手は馬車曳きだからな。そでも、五両札一枚出して、今年はこれで我慢してくれろ、と拝むだねえか、なア、おかみさん、そこでわしは言っただよ。ようし、こうなっちゃ、お互いさまだ。干ぼしになって死ぬ時ア一緒に死ぬべえ、と言って、その五両札へ二両のお釣りを置いて帰けえって来ただが、おかみさん、去年は豊年で、それでやっぱり飢饉と同じことだった。つまり、豊年飢饉てえ奴だというが、わしもこの年になって始めて聞いた。ばかりでねえ、始めて出会った。なアこういうことア一度起ったら毎年起って、それが年々悪くなるばかりだ。そうなりゃ、豊年もくそもねえじゃねえか。……そこへ持って来て、今年は飢饉の飢饉、これでは来年は、百姓奴等は、干ぼしになって飢え死んで野たれ死んで、それで足りなくて、首をくくって死ぬ、ということになるだア。べら棒め……なア! おかみさん、わしも一人の息子を満洲の兵隊へ出しているだが、こないだも手紙で言ってやっただ。国のために勇敢に戦って、いさぎよく戦死をしろ、とな。そうすりゃ。なアおかみさん、なんぼか一時金が下って、わしらの一家もこの冬ぐらいは生き伸びるだからな。娘を持ってるものは娘を売ることが出来るだが、わしは、息子しか持たねえから、そうして息子を売ろうと考えてるだよ……」
     その男は、これらの言葉を、土間の土に向って一つずつ叩きつけるように叫んだのであった。

    私のうしろに坐っていた老人が言った。
    「飢饉の上に、三日も吹雪いたら、この辺の百姓は、干ひ死んでしまうだ。天明年間の飢饉年には、三万人からの人が干死んで、生き残った者共は、人間の肉、そいつも十七八の娘の肉がうまいというで、それが干死ぬのを待って食ったという話だが、うっかりすると、今年もそんなことになるだ。明治三十五年と、大正二年の飢饉はわしもよく知ってるだが、どっちも今年ほどじゃなかった。今年のような飢饉が来るというのも、いよいよ世が末になった証拠だ」
    「だからさ、どうせ干死ぬなら、せめて一度でも、米のめしをげんなりするほど喰って見てえと思ってるだ」
    「一度でも喰くえりゃまだいいだ。岩手の山奥じゃ、茶碗一ぱいの米のめしを、家から家へ持ち廻して、目で見るだけで喜んでるちゅうだ。それほどだから、病人が出来ると、枕元へその米のめしを置いとけば、病気が直るとせえ言ってるちゅうだ。米を作る百姓が、米のめしを拝むことしか出来ねえとは、全く嘘のような話だよ」

    凶作地帯の暗黒は、只の暗黒ではないのだ。ということは、県当局者も充分御存じで、その一人は現にこう言ったのである。
    「もしこの青森県下に、只一人でも、餓死者を出したなら、それこそ聖代の恥辱である。われわれは絶対に、聖代を恥辱せしめてはならぬ!」

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  2. shinichi Post author

    昭和4年の大恐慌から世界中の経済が悪化し、社会は暗かった。そんななかでの凶作だったので、東北の惨状は目を覆うほどだったが、正確な報道はなされなかった。アメリカの経済は最悪で、昭和6年7月、失業者が800万人を突破したアメリカで、職を求める失業者たちの飢餓行進がホワイトハウスに押し掛けた。昭和7年になって、ニューヨーク他でも飢餓行進が行われた。アメリカの大恐慌はイギリス、オーストリアなど他の国へも波及し、どの国でも輸出は減退し、失業者が激増していた。

    昭和6年
    9月
    柳条湖事件(満州事変勃発)

    昭和7年
    1月
    朝鮮人李奉昌が天皇の馬車に爆弾を投げる(桜田門事件)
    上海で日本人僧侶が殺されたのをきっかけに、各所で日本人と中国人との衝突事件が起こる。日本海軍陸戦隊は軍事行動を布告。上海市内へ進入し攻撃を開始、上海事変が勃発
    2月
    前蔵相井上準之助が東京本郷で血盟団員小沼正に暗殺される(血盟団事件)
    上海戦線にて陸軍一等兵3名が爆弾筒を抱え相手陣地に突入し爆死(「爆弾三勇士」事件)
    3月
    日本軍が中国東北部に「満州国」の建国を宣言。清朝最後の皇帝溥儀が執政に就く。これ以降、中国では抗日感情が高まり、抗日集会や抗日デモが行われた。
    三井合名理事長團琢磨が血盟団員に暗殺される(血盟団事件)。血盟団盟主井上日召が自首
    4月
    上海の天長節祝賀式場に朝鮮独立党員・尹奉吉が爆弾を投げ、参列していた白川軍司令官らを死亡させた他、野村艦隊長、駐華公使・重光葵ら日本人幹部の殆どに重傷を負わせその場で逮捕された。
    5月
    上海事変: 米・英・仏・伊の調停で停戦協定が成立。
    仏大統領ポール・ドゥメール暗殺される。
    五・一五事件で、犬養毅首相が殺害される。
    7月
    日支紛争の実状調査にあたるリットン調査団が来日。
    8月
    ドイツでは国会選挙で、流血事件が続発するなど共産党と激しく争った結果、ヒトラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)は第1党の地位を獲得。
    9月
    日満議定書調印。
    リットン調査団が「リットン報告書」を日中両国政府に公布、日本の主張を退けた。日本は報告書を全面的拒否。

    この年の春には、天国に結ぶ恋心中事件があり、夏には、ジャン・ポール・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールが、ドゥ・マゴでレイモン・アロンから話を聞いたという。

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  3. shinichi Post author

    (sk)

    昭和7年の日本がこんなだったとは、山本夏彦のような人たちは書かない。東京がいかに豊かな大都会であったかを書き、暮らし向きがどれほど良かったかを書く。

    戦前が良かったなどというのは、嘘なのだ。

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