山本夏彦

  • (戦前という時代) 真の餓死者が出なかったのは、背後に売るべき米を蔵している農家が控えていたからである。
  • 新聞が八つざきと言えば同じく言い、冤罪だと言えば同じく言うのは別人ではない。全く同一の人物で最低の者どもだが、この世は最低の者どもの天下である。
  • 情報の時代というのは情報があり余って、並のひとなら途方にくれる時代ではなかろうか。
  • わが情報はいくらあっても肝心なことは書かない。それをかいつまんで言うのがジャーナリストの務めなのに、言ったためしがない。
  • むかしは軍と官が言うことを禁じたが、今は誰が禁じるのでもない、あたりをうかがってみずから禁じるのである。
  • 我々はある国に生れたのではない、ある国語のなかに生れたのだ、祖国とは国語だ、国語以外の何ものでもないというシオランの言葉を私は固く信じるものである。
  • 経験すれば人は利口になるというのは、迷信ではないのか。人は経験によって何かを増したろうか。
  • マジメ人間というものは、自分のことは棚にあげ、正論を吐くものである。
  • 人は分って自分に不都合なことなら、断じて分ろうとしないものだ。
  • 実社会は互いに矛盾し、複雑を極めている。それは他人を見るより自分を見れば分る。自己の内奥をのぞいてみれば、良心的だの純潔だのと言える道理がない。
  • 新しい本は古い本を読むのを邪魔するために出る、読むべき本があるとすればそれは古典で、十冊か二十冊である。
  • 古人が隠蔽したのはするだけのわけがあったのである。
  • 改まらないものには改まらない十分なわけがある。
  • 知るものは言わず、言うものは知らずと言います。
  • 私は近く新聞はつぶれると見ています。
  • 哲学が読者を失ったのはにせの難解のせいである。

2 thoughts on “山本夏彦

  1. shinichi Post author

    山本夏彦の本 ひとことで言う

    http://www.fujitana.net/yamamoto/04hitokotohyou/01hitokotohyou.html

    (戦前という時代) 真の餓死者が出なかったのは、背後に売るべき米を蔵している農家が控えていたからである。

    生れるのが自然なら死ぬのもまた自然なのに、こんなに死ににくくなった時代はない。

    煙があがる、火がないはずがないと記者は必ず言う。然り煙があがる、たとい自分がつけた火でも。

    論より証拠というのは昔のことで、今は証拠より論の時代だとは何度も言った。論じれば証拠なんかどうにでもなる。

    いくらいいと言われてもキチガイじゃあるまいし、新聞に求められて原稿料をもらってその紙上に新聞の悪口を書けるものではない。

    新聞が八つざきと言えば同じく言い、冤罪だと言えば同じく言うのは別人ではない。全く同一の人物で最低の者どもだが、この世は最低の者どもの天下である。

    情報の時代というのは情報があり余って、並のひとなら途方にくれる時代ではなかろうか。

    わが情報はいくらあっても肝心なことは書かない。それをかいつまんで言うのがジャーナリストの務めなのに、言ったためしがない。

    むかしは軍と官が言うことを禁じたが、今は誰が禁じるのでもない、あたりをうかがってみずから禁じるのである。

    つい戦前まで人前で脚を出し尻を出すくらいなら死ぬと言っていた女たちが、今は胸を出し脚を開く。

    男女を問わず人は衆をたのめば何でもする、何でも言う。一人では何もできない。

    今の栄耀栄華は「一炊の夢」だと知っているせいかもしれない。

    ある種の動物が全地球を覆うほどふえたためしはない。ふえればそのふえたことによって滅びる。

    世間には笑われておぼえることが山ほどあるのである。

    政治家が国を誤るのは俗受けをねらってパフォーマンスをやる時に多い。

    我々はある国に生れたのではない、ある国語のなかに生れたのだ、祖国とは国語だ、国語以外の何ものでもないというシオランの言葉を私は固く信じるものである。

    タダは客と芸人とドラマを限りなく堕落させる。

    漱石崇拝に抗して退屈が予想される長編を読むことがいかに苦痛かを書くのは勇気のいることである。敵は幾万である。

    マイコンのたぐいは操作すれども理解はせずで、子供ばかりでなく、大人も野蛮人に返ったのである。

    経験すれば人は利口になるというのは、迷信ではないのか。人は経験によって何かを増したろうか。

    マジメ人間というものは、自分のことは棚にあげ、正論を吐くものである。

    禁じられた遊びを遊んだことのない子は、動物としての感覚を欠く。

    人は分って自分に不都合なことなら、断じて分ろうとしないものだ。

    八百屋が若い衆を社員、おかみさんを専務と、本気で呼んだらおかしかろう。

    実社会は互いに矛盾し、複雑を極めている。それは他人を見るより自分を見れば分る。自己の内奥をのぞいてみれば、良心的だの純潔だのと言える道理がない。

    新しい本は古い本を読むのを邪魔するために出る、読むべき本があるとすればそれは古典で、十冊か二十冊である。

    古人が隠蔽したのはするだけのわけがあったのである。

    有能は何をしでかすか分らない。

    完璧を目ざしていつも完璧だから、ひょっとしたらしくじりはしまいかと手に汗をにぎるのである。

    哲学が読者を失ったのはにせの難解のせいである。

    自分に不都合なことなら承知しないのが人の常であり、したがって国の常である。

    改まらないものには改まらない十分なわけがある。

    物が盛んなときは衰えるときである。

    本というものは、自分で買うものである。いくら良書でも、読めと与えられたら、薬くさくなる。

    書評は多く八百長だから、まにうけるとびっくりすることがある。

    知るものは言わず、言うものは知らずと言います。

    私は近く新聞はつぶれると見ています。

    Reply
  2. shinichi Post author

    (sk)

    戦前という時代に 真の餓死者が出なかったというのは、事実誤認だ。

    近く新聞はつぶれない。書評は八百長ではない。改まらないわけはなくても改まらないものは多い。

    考えてみれば、いいかげんなことばかり。

    それでも山本夏彦はおもしろい。

    おもしろいからこそ危ないともいえる。

    それにしても小気味いい。読んで気持ちが良くなる。才能というかなんというか。。。

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