ネルケ無方

禅の教義のひとつに、「不立文字」がある。文字や言葉による教義ではなく、体験によって伝えるものこそ真髄とする教えだ。だから経典も念仏も拠りどころとしない。
経典はいわば実践の脚注に過ぎない。たとえて言うなら、山登りをするために必要な地図。じーっと地図を眺めるよりも、山に入って自分で道を求めるというのが禅のスタンスである。
道元禅師は「只管打坐」(ただ坐る)を重視し、不立文字を極めた人だったが、とことん言葉を使って仏法を追求する人でもあった。それは、彼が53歳で亡くなるまでに書き続けた、膨大な著作に残されている。
後世になってから道元禅師の言葉は「修証義」などにまとめられ、まるでお経のように扱われるようになった。しかし私は崇高な教義としてではなく、生の体験としての道元禅師の言葉が好きだ。「不立文字」とは一見矛盾しているが、そこに私は惹かれる。
道元禅師の言葉は缶詰ではない。生の体験の表現だから、それは常に変化し続ける。『永平広録』から『永平清規』、そして最後の大作『正法眼蔵』までに、様々な発展を遂げている。結局、最後まで結論を出していない。しかし、それこそが仏教なのではないか。
道元禅師は信仰を持った宗教家でありながら、絶えず問い直している。以前自身が書いたものに疑問を持ち、また新しいものを生み出し、それにも疑問を持つのだ。
・・・ その教えは理屈のみに終わらず、とても実践的なのだ。道元禅師は、とにかく日常生活を大事にする。
そして、「坐る」という実践。 ・・・ 「何のために坐るのか。何のためでもない。ただ坐る」と説いている。
・・・ 道元禅師はこういう人だと、一言ではなかなか言えない。100人が見たら、100人の違う道元禅師が見えてくるだろう。
当時、中国へ渡れるのはエリート中のエリートで、帰国したら出世をするのが普通だった。ところが道元禅師は、日本に帰っても出世せず、深い山の中に入ってしまう。そこで、のちの永平寺を開く。出世しようと思えばいくらでもできたはずなのに、一切しようとしなかった。我が道をとことん突き詰めた。出世しよう、金儲けしよう、禅宗を大きくしよう、という考えがまったくなかったところも、道元禅師の魅力と言えよう。

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