土屋由香

冷戦期のアメリカ政府は、映画・ラジオ・雑誌などのメディアから音楽家・芸術家まで動員して、世界中にアメリカの文化やライフスタイルを宣伝し、自国のイメージアップを図り親米感情を育てようとしたのです。アメリカ政府にとっては、アメリカの良いイメージを売り込むことが文化情報政策の目的だったかも知れないけれども、音楽にせよ芸術にせよ、文化というのは人間が担うものであり、自由な解釈の余地がある。そこで、文化やそれを担う人々は、必ずしもアメリカ政府の望み通りには動いてくれない場合もある。例えば1950年代にアメリカ政府は、アメリカが人種差別の国だというイメージを払拭するために黒人のジャズ・ミュージシャンをアジアやアフリカに派遣するのだけれども、現地の人々はアメリカの人種差別のことをちゃんと知っていて、むしろ差別と闘っている黒人の姿に共感を覚えたりする。これは、「差別の無い国」をアピールしようとしたアメリカ政府の意図からするとまったく逆効果ですよね。でも、黒人ミュージシャンたちが現地の人々に共感と好印象を残したとすれば、ある意味、海外文化情報政策は成功したとも言える。
日本社会の中には戦前から欧米化したいという意識が強くあったので、アメリカの海外文化情報政策を受け入れ易い素地があったのは確かです。しかし冷戦初期のアメリカにとって、日本は「放っておいても親米的」というほど安心の出来る状態ではありませんでした。6年半にわたるアメリカによる軍事占領への反発、安保条約をめぐる反米感情の高まり、原爆のトラウマ、アジアの非同盟諸国との協調願望など、アメリカにとっての不安材料はたくさんありました。しかも、日本はソビエト・中国・北朝鮮という社会主義圏と近接しており、アメリカにとっては「反共防波堤」として重要な戦略的位置を占めていたのです。是が非でも日本人の心をアメリカにつなぎとめておく必要がありました。そこでアメリカの国務省や情報庁(USIA)は、映画やラジオ・音楽・文学などあらゆるメディアを駆使してアメリカに関する情報普及に努めたのです。例えばアメリカ政府が「成功だった」と自負していた1950年代の海外文化情報政策のひとつとして、「核の平和利用」に関するドキュメンタリー映画上映があります。アメリカは原爆が日本人に大きな心身の傷を残したことを知っていましたから、それが親米感情を育てる上での弊害にならないように、アメリカが核の平和利用を進めていることを特に日本でアピールしようとしたのです。9本ものドキュメンタリー映画を日本全国で上映し、広島市長から「良い映画だった」という趣旨のコメントを引き出して、そのコメントをまた英語に訳して世界に宣伝しました。このような海外文化情報政策は、非常にプロパガンダ性の強いものだったと言えるでしょう。

5 thoughts on “土屋由香

  1. shinichi Post author

    土屋由香 教授 インタビュー

    愛媛大学法文学部グローバル・スタディーズコース

    http://www.e-cis.net/GSC/professors/tutiya/interview.html

    -はじめに、先生の研究を簡単に教えてください。

    私の専門は、アメリカ合衆国とアジア太平洋地域との関係です。中でも今、最も力を入れている研究は、冷戦初期(1950年代ごろ)におけるアメリカの海外文化情報政策です。海外文化情報政策とは、一般的に言うと、ある国の文化や生活様式に関する情報をテレビやラジオ(今ならインターネットもありますね)等のメディアを通して世界の人々に知らせ、その国についてより理解を深めてもらうということです。

    冷戦期の東西対立の下では、アメリカはソビエトと競って海外文化情報政策を展開しました。すなわち映画・ラジオ・雑誌などのメディアから音楽家・芸術家まで動員して世界中にアメリカの文化やライフスタイルを宣伝し、自国のイメージアップを図り親米感情を育てようとしたのです。それは限りなく「プロパガンダ」(情報操作)に近いものでしたが、アメリカ政府にとっては思いもよらぬ結果を生み出すこともあったのです。

    -思いもよらぬ結果とは、どのような結果なのでしょうか?

    アメリカ政府にとっては、アメリカの良いイメージを「売り込む」ことが文化情報政策の目的だったかも知れないけれども、音楽にせよ芸術にせよ「文化」というのは人間が担うものであり自由な解釈の余地がある。そこで、「文化」やそれを担う人々は、必ずしもアメリカ政府の望み通りには動いてくれない場合もある。

    例えば1950年代にアメリカ政府は、アメリカが人種差別の国だというイメージを払拭するために黒人のジャズ・ミュージシャンをアジアやアフリカに派遣するのだけれども、現地の人々はアメリカの人種差別のことをちゃんと知っていて、むしろ差別と闘っている黒人の姿に共感を覚えたりする。

    これは、「差別の無い国」をアピールしようとしたアメリカ政府の意図からするとまったく逆効果ですよね。でも、黒人ミュージシャンたちが現地の人々に共感と好印象を残したとすれば、ある意味、海外文化情報政策は成功したとも言える。そういった両義性・多面性があるのが文化情報政策の特徴なのです。

    -アメリカの文化情報政策といえば、日本はまさに大きな影響を受けていたのではないでしょうか?

    そうですね。日本社会の中には戦前から欧米化したいという意識が強くあったので、アメリカの海外文化情報政策を受け入れ易い素地があったのは確かです。

    しかし冷戦初期のアメリカにとって、日本は「放っておいても親米的」というほど安心の出来る状態ではありませんでした。6年半にわたるアメリカによる軍事占領への反発、安保条約をめぐる反米感情の高まり、原爆のトラウマ、アジアの非同盟諸国との協調願望など、アメリカにとっての不安材料はたくさんありました。しかも、日本はソビエト・中国・北朝鮮という社会主義圏と近接しており、アメリカにとっては「反共防波堤」として重要な戦略的位置を占めていたのです。是が非でも日本人の心をアメリカにつなぎとめておく必要がありました。

    そこでアメリカの国務省や情報庁(USIA)は、映画やラジオ・音楽・文学などあらゆるメディアを駆使してアメリカに関する情報普及に努めたのです。例えばアメリカ政府が「成功だった」と自負していた1950年代の海外文化情報政策のひとつとして、「核の平和利用」に関するドキュメンタリー映画上映があります。アメリカは原爆が日本人に大きな心身の傷を残したことを知っていましたから、それが親米感情を育てる上での弊害にならないように、アメリカが核の平和利用を進めていることを特に日本でアピールしようとしたのです。

    9本ものドキュメンタリー映画を日本全国で上映し、広島市長から「良い映画だった」という趣旨のコメントを引き出して、そのコメントをまた英語に訳して世界に宣伝しました。このような海外文化情報政策は、非常に「プロパガンダ」性の強いものだったと言えるでしょう。しかし、先に述べたジャズ・ミュージシャンの例のように、もっと双方向的な交流を生むケースもあったのです。

    -先生がこの研究をしようと思ったきっかけは何ですか?

    もともとアメリカの対日占領政策に興味がありました。「日本はアメリカに6年半も軍事占領されていたのに、どうしてこんなに親米的なのか?」という疑問があったんです。この素朴な疑問から現在の研究テーマに至るまでには、もちろんたくさんの本を読んだり、多くの先輩研究者から影響を受けたりしたのですが。

    特にアメリカのミネソタ大学の博士課程に進学してからは、アメリカの学問研究の学際性(「社会学」「政治学」「歴史学」など既成の縦割り学問分野の壁にこだわらず、使える材料や方法は何でも使って行こうとするスタイル)に感銘を受けました。そこから、政治や歴史と、音楽・映画・文学などは無関係ではなく、密接なつながりがあるのだという視点を学んだことが、研究の大きな転機ともなりました。

    -アメリカにはどれくらい滞在されたのですか?

    トータルで7年ぐらいですね。大学は日本でしたが、大学院の修士課程は東部のメリーランド大学で修めました。それから日本に帰国して、約7年間広島大学で研究助手をした後、ミネソタ大学で博士号を取り、愛媛大学の教員になりました。

    -学生生活は長かったんですね。

    実は、大学を出てから数年間は企業で働いていました。でも留学したい、勉強を続けたいという気持ちが強かったんです。また企業で働くことによって得たこと・分かったこともあったからこそ、もう一度勉強したいという理由もありましたね。

    -では、先生は学生時代、どんな学生さんでしたか?

    学部生時代は、アルバイトと旅行に命をかけてましたね。そのころは、留学はしたかったのですが、まさか学者になるなんてことは考えていませんでした。どちらかというと、企業でキャリアを積んで成功したいと思っていました。企業で挫折を経験したことがきっかけで留学することになりました。私が働いていたころは、今よりもっと大卒女性が企業で働くことが大変で、差別やセクハラも多かったですよ。

    -最後に、グローバル・スタディーズ・コースに入ろうと思う学生さんたちにメッセージをお願いします。

    世界で何が起きているのか、常にアンテナを高く張って、「井の中の蛙」にならないでほしいですね。土屋ゼミのモットーは”Open your eyes. Stay Curious. Be an independent thinker.”当たり前のことを疑ってみよう、何でも自分で考えてみよう、という姿勢を大切にしてほしいです。

    -ありがとうございました!

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  2. shinichi Post author

    冷戦期米国の対アジア広報・宣伝政策

    アジアと米国の関係はどう構築されてきたのか

    by 土屋由香

    http://www.ehime-u.ac.jp/research/infinity/detail.html?new_rec=5323

    第二次世界大戦後の冷戦期において,米国とソ連は軍事的・政治的な対立のみならず,文化・教育・ライフスタイルなどあらゆる分野において覇権を確立すべく競争しました。核兵器を実際に使用することがいかに壊滅的な結果を招くかということは,米ソ両国のリーダーたちにもわかっていました。そこで冷戦は,軍事以外のあらゆる手段を動員した「総力戦」となったのです。その中で,脱植民地化しつつあったアジア・アフリカの新興国の人々の「心」を勝ち取ることが,大きな重要性をもつようになって行きました。「文化冷戦」と呼ばれる,人々の「心やライフスタイルをめぐる戦い」が展開されたのです。

    私の研究は,「文化冷戦」の中で米国の国務省や陸軍省,そして1953年に設立された広報文化交流庁(USIA)が,アジアの人々の心をつかむためにどのような広報・宣伝戦略を展開したのかということに焦点を当てています。しかし,単なる「プロパガンダ」の研究ではありません。「文化冷戦」はトップダウン的な反共プロパガンダだけではなく,さまざまな局面で展開しました。その中には,芸術家や音楽家の国際交流,スポーツ選手の派遣,留学生のための奨学金制度など,相互交流的な要素も含まれていました。しかしその一方で,同じような政府組織・体制の下で,たとえば反米的な教育者の排除や戦争捕虜に対する反共教育など,きわめて強圧的な政策も行われました。相互理解と国際親善を目的とした交流活動と,力による弾圧とが表裏一体の関係で進行したのです。

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  3. shinichi Post author

    親米日本の構築
    by 土屋 由香
    (2009)

    占領する眼・占領する声: CIE/USIS映画とVOAラジオ
    by 土屋 由香, 吉見 俊哉
    (2012)

    文化冷戦の時代―アメリカとアジア
    by 貴志 俊彦, 土屋 由香
    (2009)

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  4. shinichi Post author

    (sk)

    人種差別の国だというイメージを払拭するために黒人のジャズ・ミュージシャンを派遣したら、現地の人々人種差別のことはもう知っていて、むしろ差別と闘っている黒人の姿に共感を覚えたりして、で、差別の無い国のアピールには失敗するのだけれど、ミュージシャンが好印象を残し、思惑は見事にはずれたのだけれど、結果はオールライト。

    アメリカは原爆が日本人に大きな心身の傷を残したことを知っていたから、原爆のことが親米感情を育てる上での弊害にならないように、アメリカが核の平和利用を進めていることを日本でアピールし、ドキュメンタリー映画を上映し、挙句の果て、日本にも核の平和利用を進めさせたら、福島であんなことが起きて、結果はベリーバッド。

    なにをしても思惑通りにはならない。意図した通りにことは運ばない。それが情報操作の難しいところなのだろう。

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