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民間情報教育局の本部は NHK の内部に設置し、日本の各所にラジオを普及させた。新聞では民間情報教育局が作成した『太平洋戦争史』と題する企画を連載させられている。この宣伝文書は、新聞連載が終了したのち、1946年に高山書院から刊行され、4月から各学校で教材と使用するように、各学校の教育長と学校長に宛ての「新学期授業実施に関する件」の中で命令が出された。社会人向けの教育には、『太平洋戦争史』を劇化したラジオ番組『眞相はかうだ』を十週間にわたって放送させた。民間情報教育局は放送と同時に視聴者からの質問を集め『質問箱』という番組を作成させた。
GHQは学校教育現場でのラジオ放送教育と校内放送を奨励して立ち入り監視と指導・勧告を行った。戦争末期から、コーデル・ハルは「日本人をアジア解放に殉じたと思わせてはならない」とルーズベルトに進言していた。米政府は、連合国軍の平和目的を伝え、外国人への尊敬を持たせ、外国人と交流を持つことが honor であるよう印象付けるように占領後の教育方針を組んでいた。
日本から連合国への敵対心をなくし、特に親米的な国に作り替える方針のもと、占領軍として進駐していたアメリカに対して好感を持つような世論誘導が行われ、その一例としてアメリカ軍の兵士が、ガムやチョコレート(これらの菓子代も占領経費として計上され、日本政府が負担していた)を食糧難に喘ぐ少年たちに与える事により、「無辜の民を殺戮した」残虐な日本軍と、「食べ物を恵んでくれた寛大なアメリカ軍」という図式を作り、親米感情の醸成を試みた。報復行為を避けるため、対日戦に参加した米兵は極力日本に駐屯させないようにした。特に沖縄県では、沖縄を日本から分断させるために、同種の世論操作が熱心に行われた。
また同時期にアメリカ映画の上映やラジオにおける英語講座の開設など、メディアを使ったキャンペーンを展開した。否定的なイメージを取り除くために「占領軍」を「進駐軍」と呼ばせた。
その一方で、占領軍兵士による強盗や強姦、殺人などの重大事件に対しては報道管制を敷いてこれを隠ぺいし、反連合国軍感情が起こることを防いだ。占領軍兵士による性犯罪を防ぐために占領軍兵士のための慰安所を各地につくった。

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  1. shinichi Post author

    文化・思想

    言論統制

    1945年10月8日に、SCAPは「自由の指令」を出し思想・言論規制法規の廃止を命令すると、翌日から朝日新聞、毎日新聞、讀賣報知、日本産業経済、東京新聞の在京5紙に対して事前検閲を開始した。GHQは言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書(SCAPIN-16)やプレスコード、ラジオコード(SCAPIN-43)等を発して民間検閲支隊などにより地方紙も含めた新聞、雑誌などあらゆる出版物、学術論文、放送、手紙、電信電話、映画などへの検閲を行った。それらに携わった日本人スタッフへの給与及びすべての経費は日本政府が負担し、『終戦処理費』あるいは『その他』経費として計上され、国民には秘匿された。

    連合国の批判、占領軍の政策への批判、極東国際軍事裁判を批判したもの、戦時中の連合軍の虐待行為、原爆に関する情報、占領軍兵士による殺人・強盗・強姦事件・売春、満州における日本人処遇への批判、欧米諸国における有色人種差別、冷戦の高まり、文学作品ですら飢餓の表現や戦災がもたらした死や破壊の悲しみの表現は禁じられるなど、報道・出版を許されない項目は多岐にわたった。報道規制は海外から日本に配信されたニュースにも及んだ。沖縄県の報道も禁じられていた。連合国への批判の禁忌は中世や近世にまで及び、ヨーロッパ近世の植民地支配について触れた記述も削除を命じた。

    第二次大戦後、連合国によって再植民地化されたアジア諸国各地で勃発した独立闘争も、報道を禁じられた。

    連合国の威信を傷つける記述はすべて削除された。占領軍の行進の写真に子犬が写っているだけでも発行禁止とされた。日本の雑誌や映画に性的表現を「自由化」するよう命じられる一方、アメリカのポルノグラフィについては言及するだけでも削除を命じられた。

    SCAPが日本国憲法を起草したこと、SCAPが作成に関与したことも、国民に知らせないよう命じられた。SCAPの憲法作成関与に対する批判も処分の対象となった。日本のメディアは「変な日本語」と言及することによって検閲を逃れた。

    また日本政府が占領軍に支払っている巨額の占領軍維持経費を報道することも許されなかった。1946年、GHQ検閲局はどうしても経費に触れなければならない場合は「終戦処理費」と呼ぶように命じ、1947年は「その他」経費とするよう命じた。

    また軍国主義的とされるもの、戦前・戦中の日本を擁護するもの、日本の価値観を肯定するもの、検閲が行われていることへの言及などは発行禁止や記述の削除、書き換えを行い、言論を統制。

    検閲指針に違反した社は廃刊や発行停止、記者等は解雇を命じられるか、米軍軍事法廷で裁判が行われ、有罪者は沖縄で強制重労働3~5年に処せられた。強制労働は主に占領軍基地づくりである。

    GHQによる検閲は秘匿される一方、日本政府による統制を廃止させ、言論の自由を強調した。新聞、ラジオ、雑誌の事前検閲は1948年7月までに廃止され、事後検閲に切り替わり、新聞、ラジオの事後検閲は1949年10月をもって廃止されたが、プレスコードによる言論統制は依然として存在した。事後検閲になってからは出版停止や回収などの経済的リスクを負うことを恐れ、記者、編集者や作家らはかえって用心するようになり、自己検閲が進んだ。が、ジャーナリズムの活動は広がりつつあった。こうして、戦後日本の世論に、大勢順応的な姿勢が形成されていった。

    伝統文化の排斥

    GHQは軍国主義思想の復活を防ぐという名目で剣道や歌舞伎、神道など伝統文化のうち「好戦的」あるいは「民族主義的」とされるもの(例:国家神道)について活動停止や組織解散や教則書籍の焚書などを行った。これらの措置の大部分は日本文化に対する無知、無理解を元にした措置であり、一部は占領中に、また主権回復後におおむね旧に復している。文学作品に日本神話について記述したものは検閲により削除された。

    占領当初は靖国神社を焼き払ってドッグレース場にする計画が立てられており、実行までにはGHQ内で賛否両論にわかれた。が、駐日ローマ法王庁・バチカン公使代理のブルーノ・ビッテル神父の反対で中止した。

    世論対策

    「戦争についての罪悪感と、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任を、日本人の心に植えつけるための宣伝計画」いわゆるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムが組まれたとする江藤淳らの主張がある。

    江藤によると、1945年10月2日にGHQは一般命令第四号において「各層の日本人に、彼らの敗北と戦争に関する罪、現在および将来の日本の苦難と窮乏に対する軍国主義者の責任、連合国の軍事占領の理由と目的を、周知徹底せしめること」と勧告したというが、史的実証が不十分なまま議論が続いている。

    郵便物、電報及び電話通話の検閲

    GHQは郵便局に検閲局を置き、市民の郵便物を検閲した。多いときで約8700人の日本人を動員し、郵便物の検閲を行わせた。学生が多かったとされる。日本人検閲官は事前に和文英訳のテストを受けレベルごとに振り分けられ、郵便局に集まった私信を英訳したうえで検閲局の許可を仰いだ。特に占領軍への批判や意見、米兵の動向のほか、復員、物価や食料難、公職追放のその後の動向、労働組合、企業の経営状態、政治や共産党の動きなどを翻訳対象とした。検閲の仕事については秘匿とされた。検閲官の給与も日本政府が負担するよう命じられた。

    1952年3月、「連合国占領軍の為す郵便物、電報及び電話通話の検閲に関する件を廃止する法律」が国会で可決、サンフランシスコ講和条約効力発生と同時に施行された。

    戦争花嫁

    当時の欧米諸国には厳格な有色人種差別があった。米軍では異人種間の結婚は禁止され、概ね白人と黒人からなる米兵は黄色人種である日本人女性に産ませた子供を認知する義務すらなかった。また排日移民法のために日本人妻子のアメリカ入国は不可能だった。

    1946年6月29日、GIフィアンセ法の制定により、日本人女性と占領軍兵士・軍属との結婚が可能になり、1947年には占領軍兵士との国際結婚の届け出数が822組を記録する。これで認められたのは米兵と日本人女性との姻戚関係のみ。

    1950年、米兵と日本人女性間の結婚禁止令が解かれる。GIフィアンセ法が改正され、占領軍兵士の妻子が人数制限なしに、アメリカに入国可能になる。

    焚書

    GHQの指令により東京大学文学部の教授陣数名が中心になり選抜した8,000冊弱の歴史関係の文献が没収された。

    宗教の自由

    第二次世界大戦まで禁止されていた新興宗教が解禁され、治安維持法により逮捕されていたこれらの宗教の開祖などの指導者も釈放された。神道指令により厳格な政教分離が指示された。この結果として文化財保護政策に空白が生じ、1949年に文化財保護法が制定されたが、保護対象の物の多くは、政教分離原則に抵触しかねないものばかりであった。

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