野沢清

江戸の賎民には穢多、非人、乞胸などがいますが、穢多頭が非人を支配し、非人頭が乞胸を支配するといった複雑な支配関係があります。
穢多は長吏とも呼ばれます。長吏というのは、本来は役人のことです。穢多を支配していたのは代々弾左衛門を名乗る人です。弾左衛門は帯刀を許された士分でした。江戸および関八州の穢多を支配していました。また、穢多以外の賎民、非人や乞胸も弾左衛門の支配下にありました。
非人とは簡単に言うと乞食のことです。身分的には穢多よりも下だったかも知れません。江戸の刑罰として非人の身分に落とされることがありました。心中未遂などの場合は非人にされたようです。非人を支配する頭が江戸には何人かいました。浅草・車善七、品川・松右衛門、深川・善三郎、代々木・久兵衛などです。その筆頭が車善七です。
乞胸は大道芸人のことです。寺社の門前で芸をしたり、大道あるいは門付けで芸をしたりして稼ぐ商売です。乞胸の商売は非人と変わらないと思われたのか、乞胸は非人頭の車善七の支配を受けたようです。そして乞胸頭は乞胸たちに鑑札を発行し銭を取っていました。
明治4年に解放令が出され穢多や非人も平民になりました。そのため、弾左衛門や車善七も失業してしまいました。穢多非人がいなくなったのですから、その頭も不要となったのです。弾左衛門は弾直樹と名前を変え、軍靴製造の会社を始めましたが、うまくいかなかったようです。車善七も長谷部善七と名前を変えましたが、その後の行方はよく分からないようです。ただし、救育所や養育院といった施設が作られ非人や乞食たちも収容されたようです。

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  1. shinichi Post author

    庚寅夜話 江戸の賎民
    by 野沢清
    http://www.ab.auone-net.jp/~koinyawa/senmin.html

    江戸の賎民

    江戸の賎民には穢多、非人、乞胸(大道芸人)などがいますが、穢多頭が非人を支配し、非人頭が乞胸を支配するといった複雑な支配関係があります。
    ここでは、江戸の賎民たちの全体像を整理してみたいと思います。

    穢多

    被差別賎民で一番有名なのが穢多です。彼らは死んだ牛馬の処理を独占的に行っていました。農民が死んだ牛馬を専門の捨て場に持って行くと、穢多がそれを回収し処理したようです。また、それに関連して革関係の仕事も営んでいました。革問屋、太鼓の革張替えや革細工などの商売です。
    刑場の人足や処刑の手伝い、不浄物の片付けなども穢多および非人の仕事でした。いわば、不浄な汚れ仕事をやらされていたのです。また、なぜか灯芯については彼らの独占販売で収益源だったようです。その他に、雪駄(せった)の製造もおこなっていたようです。
    穢多は、今の浅草今戸付近(浅草新町)の一ヶ所にまとまって住んでいました。250軒ほどの家があったそうです。分散して住むことは許されていませんでした。
    穢多は長吏とも呼ばれます。長吏というのは、本来は役人のことです。長吏(穢多)は警備や諜報活動を行ったとの説もありますが、江戸では刑場や牢屋以外の仕事はなかったようです。地方では番太と呼ばれる十手持ちの仕事を行ったとも言われていますが、これも江戸ではなかったようです。その他に地方では田畑の番、水の番、火の番などを行う番役を穢多が行うこともあったようです。

    弾左衛門

    穢多を支配していたのは代々弾左衛門を名乗る人です。弾左衛門は帯刀を許された士分でした。江戸および関八州の穢多を支配していました。また、穢多以外の賎民、非人や乞胸(大道芸人)も弾左衛門の支配下にありました。
    弾左衛門の役宅は現在の浅草今戸にあり、配下の穢多もその近くに住んでいました。
    穢多などの賎民の揉め事は町奉行では扱わないので、弾左衛門が奉行の役割を持って支配していました。

    非人

    非人とは簡単に言うと乞食のことです。身分的には穢多よりも下だったかも知れません。江戸の刑罰として非人の身分に落とされることがありました。心中未遂などの場合は非人にされたようです。
    髪型も特殊で平の非人は月代(さかやき)をそりますが髷を結うことは許されなかったようです。そのため、身なりだけでなく髪型を見れば直ぐに分かりました。(補足1)
    浅草の新吉原の近くに非人溜が在り、そこに多くの非人が住んでいたようですが、その他に江戸の町内に非人小屋があり、そうした所にも住んでいたようです。(補足2)非人は町内の清掃などを行い日勧進と称してして町内から銭を徴収していたようです。また、町内の祝儀、不祝儀では施しを受けていたようです。(補足3、4)
    他に仕事として紙屑拾いを行っており、集めた紙屑は浅草紙という再生紙として売られていました。新吉原の近くの山谷堀に紙洗橋がありますが、ここで再生紙を作るために紙を洗ったようです。他にも往来に出て雪駄(せった)直しのような商売もおこなっていました。
    また公儀の重要な仕事として、穢多と同じように刑場や牢屋の人足をさせられていました。浅草に非人溜があったのは、この近くに刑場があったからのようです。この刑場は後に小塚原に移っています。また、鈴ヶ森の刑場の近くにも品川の非人溜がありました。(補足5)
    その他に、どぶさらいや死体の片付けなどの汚れ仕事は非人の役目だったようです。
    非人たちは、芸能的な門付けも行っていました。中でも鳥追いは人気があり座敷に呼ばれて演ずることもあったようです。この鳥追いは新春の芸能で編笠を被って行いますが、一月の中旬以降は菅傘を被って門付けを行ったようです。

    車善七

    非人を支配する頭が江戸には何人かいました。浅草・車善七、品川・松右衛門、深川・善三郎、代々木・久兵衛が有名です。(補足6、7)その中の筆頭が車善七です。
    天保14年(1843)のそれぞれの非人頭配下の抱非人の人数は以下の通りです。
     浅草・車善七 3946人
     品川・松右衛門 984人
     深川・善三郎  441人
     代々木・久兵衛 272人
    江戸に地方から浮浪者が入り込み乞食などが増えると、これらを非人たちが狩り込み、新たに各非人頭の配下の抱非人としたようです。
    車善七の居宅は新吉原の裏にありました。そして、その近くに非人の収容施設である非人溜がありました。
    非人は穢多の頭である弾左衛門の支配を受けていました。車善七は弾左衛門の支配から抜け出そうとして北町奉行に訴え出たこともあるようですが、弾左衛門による非人支配は続いたようです。

    乞胸

    乞胸(ごうむね)は大道芸人のことです。寺社の門前で芸をしたり、大道あるいは門付けで芸をしたりして稼ぐ商売です。乞胸には、次の12種類があったとされています。
     綾取:お手玉、ジャグリングのような曲芸
     猿若:滑稽な道化芝居
     江戸万歳:三河万歳の真似をする物乞い
     辻放下:皿回しをしたりする曲芸
     操り:首から下げた仕掛けの操り人形
     浄瑠璃:浄瑠璃を語る
     説教:物語に節を付けて語る
     物真似:芝居役者の声色や鳥獣の鳴き真似
     仕方能:能の真似
     物語:古い合戦の話を読む
     講釈:古い戦の話を読み解説をする
     辻勧進:往来に出て通行人から銭を乞う。
    最後の辻勧進は乞食であり非人と変わらないので曖昧ですが、後に乞胸頭が提出した文書では、門付けや女太夫(鳥追)は非人だけが行うとあります。時代によって変化したのかもしれません。

    乞胸頭

    乞胸の商売は非人と変わらないと思われたのか、乞胸は非人頭の車善七の支配を受けたようです。そして乞胸頭は乞胸たちに鑑札を発行し銭を取っていました。
    乞胸頭は代々仁太夫を名乗って下谷山崎町(下谷万年町)に住んでいたようです。また、乞胸たちも、その近所に多く住んでいたようです。
    天保13年(1842)に仁太夫の提出した文書によると乞胸の人数は以下の通りです。
     下谷山崎町(万年町):478人 (現在の北上野、東上野あたり)
     深川海辺大工町  : 23人 (現在の江東区清澄)
     四谷天竜寺門外  : 18人 (現在の新宿4丁目)
     その他の町    :230人
    その後、仁太夫と乞胸は浅草新寺町(松葉町)龍光寺門前(現在の松が谷二丁目)に移動させられたようです。この時には鑑札の枚数も制限され五百枚までになりました。
    なお、乞胸たちは非人頭の支配は受けていますが、身分は非人ではなく町民だったようです。

    願人坊主

    坊主の格好をして門付けを行って稼いでいた人たちがいます。願人坊主(がんにんぼうず)と呼ばれていました。この人たちは、実質的には乞食なのですが様々な工夫をして門付けを行っていました。
    願人坊主は、一応は僧侶ということになっており鞍馬大蔵院か鞍馬円光院に所属していたようです。そのため寺社奉行の管轄になっており、町奉行からは扱いの難しい存在であったようです。
    また願人にも組織があり、惣触頭、組頭、組頭見習、目付、組年寄、組役、組役見習、平年寄、平願人という序列があったとされています。

    願人坊主

    代わりにお参りをするとして銭を乞うて歩いた商売です。実際には代参はしなかったようです。
    すたすた坊主
    素裸に注連縄を腰蓑ように巻きつけ、扇、幣、錫杖を持ってやって来た願人坊主です。「すたすたや、すたすたすたすた坊主の来る時は、世の中よいと申します。」などと言って銭を乞うて歩きました。(江戸商売図絵 三谷一馬)
    ちょぼくれ坊主
    竹に一文銭を四、五枚はさんだ銭錫杖を振り鳴らして来た願人坊主です。祭文風の唄をうたって銭を乞うて歩きました。(江戸商売図絵 三谷一馬)
    住吉踊り
    住吉踊りは願人坊主の踊りで長柄の傘のまわりで三、四人が唄いながら踊りました。「かっぽれ」は、この住吉踊りの一種のようです。
    わいわい天王
    紋付袴で天狗の面を被り「わいわい天王はさわぐがおすき」といって牛頭天王の張り札を撒いて、後から銭をもらって歩きました。(江戸あきない図譜 高橋幹夫)
    御行(おんぎょう)
    白い行衣を着た願人坊主です。寒参りの代行をするとして、天神様の絵を画いた紙を配って銭を貰って歩きました。子どもたちが「天神様くだせえ、まかしょまかしょ」と追いかけたところから「まかしょ」とも呼ばれました。(江戸商売図絵 三谷一馬)
    半田稲荷
    御行が町々で断られて変じた願人坊主。全身赤づくめで「疱瘡も軽い、はしかも軽い、信心なされ、葛西金町半田稲荷」と囃しながら踊り歩きました。(江戸商売図絵 三谷一馬)
    お天気御祈祷
    大体裸で、長雨になると四、五人で来て、一人がきたない番傘の先に紙切れをつけて、傘をさしながら「お天気快晴、お日和御きとう」と怒鳴って歩き、他の者が銭を貰いに廻りました。(江戸商売図絵 三谷一馬)
    節季候(せきぞろ)
    毎年十二月半ばになると、二、三人の乞食が編笠を赤、白、青の細く切った紙で飾り、白紙に松竹梅を描いた前垂をしてやってきます。小形の太鼓を打ったり、割竹をやかましくすり鳴らして「ェ節季ぞろぞろさっさとござれや」と店先で銭を乞います。いそがしい時なので、人々は銭を渡して追い払いました。(江戸商売図絵 三谷一馬)

    乞食の芸

    乞食(非人)も門付けして銭をもらって歩くのに工夫をしていました。次のような芸をして街を巡って歩く人たちがいました。
    庄助しょ
    竹箒を持って店の前通りを掃きながら「庄助しょ、掃除しょ、朝から晩まで掃除をしょしょ」と言いつつ銭を貰って歩きました。掃除をする形だけだったようです。(江戸商売図絵 三谷一馬)
    考え物
    幅一寸、長さ三、四寸の紙の上の方に僧を描き、下に一の字を書いてあるのを家々に投げ込み、帰りに「さきほど差し上げました考え物、一の字は真棒(辛抱)すれば十字(住持)になる、という意味で御座いまする」などと言って銭を乞う商売です。札を撒くので願人坊主だとされていますが、絵を見ると裸に半纏の姿で髷のない非人の髪形です。(江戸あきない図譜 高橋幹夫、彩色江戸物売図絵 三谷一馬)
    片身かわりの物貰い芝居
    「安政の頃、この乞食は衣装すべて藁細工にて巧を極め、半身は定九郎、半身は与市兵衛に扮して芝居をなすもの也」
    定九郎、与市兵衛は忠臣蔵の登場人物です。(彩色江戸物売図絵 三谷一馬)
    幽霊の物貰い
    安政の頃、杖をたよりに歩く足の不自由な物貰いがいました。「常に幽霊にふんして銭を乞う。あるとき小幡小平次、またお菊の幽霊等得意なり」だったようです。やはり絵を見ると髷のない非人の髪形です。(彩色江戸物売図絵 三谷一馬)
    千両箱の軽子
    千両箱を担いでやってきて「ただいま大坂の鴻の池から千両箱が着きました。奥蔵へ持ち込ませうわい。ヘイヘイ軽子賃は一貫と一文でござります。一貫はお預けに致しまして、只今一文だけ頂いて参ります。」と一文を貰って帰るという物貰いです。これも絵を見ると髷のない非人の髪形です。(彩色江戸物売図絵 三谷一馬)
    物まね
    松川鶴市という非人の物まねの大道芸が人気を博したことがあったそうです。歌舞伎役者の中村富十郎が「鶴市という非人、身振り・声色をいたし、人のクセを飲みこむのがうまく、あれは名人でございます。ぜひ見てくさいますよう、なにとぞお願い申し上げます」と舞台で披露したそうです。(江戸の大道芸人 中尾健次)

    ぐれ宿

    願人や乞胸などが住んでいた木賃宿がぐれ宿です。巡礼、日雇稼、人足などの宿泊も多かったようです。
    ぐれ宿には願人系と乞胸系の二種類があったようです。
    天保14年(1843)の時点で願人のぐれ宿は次のような場所にありました。
     神田橋本町   鞍馬大蔵院所属 28軒
     神田橋本町   鞍馬円光院所属 18軒
     下谷山崎町   鞍馬大蔵院所属  7軒
     芝新網町    鞍馬大蔵院所属  4軒
     芝新網町    鞍馬円光院所属 21軒
     四谷天竜寺門前 鞍馬大蔵院所属  2軒
     四谷天竜寺門前 鞍馬円光院所属  1軒
     元鮫ヶ橋北町  鞍馬円光院所属  2軒
    また、乞胸のぐれ宿は下記の三ヶ所に9軒あったようです。
     下谷山崎町
     四谷天竜寺門前
     深川海辺大工町

    その他の下層民

    旅芝居
    芝居は芸を見せる点では乞胸に似ています。そのため幕府公認の江戸四座以外の旅芝居は弾左衛門の支配を受けていたようですが、訴訟によりその支配を免れるようになりました。
    座頭
    盲人たちは琵琶法師、鍼灸、按摩などをして生活していましたが、独自の組織を持っていました。一般に彼らは座頭とも呼ばれますが、組織内では位があり偉い順に検校、別当、勾当、座頭となります。
    猿飼(猿回し)
    江戸の猿飼は弾左衛門の支配を受けていました。猿飼の頭としては長太夫、門太夫の二人が有名です。
    猿は馬を守るとして武士に喜ばれており、毎年江戸城で芸を披露していました。将軍まで列席し厩のお祓いをしたそうです。
    なお、浅草猿屋町という地名があったようです。場所は弾左衛門の役宅にも近い現在の浅草橋の辺りです。
    香具師(やし)
    香具師は寺社の境内などで、客寄せのため芸を見せて商売をします。そのため、乞胸と似ていますが、違いは薬などの販売が目的である点です。
    がまの油売りが有名ですが、反魂丹を売る居合抜、歯磨きを売る曲鞠、のど飴を売る覗きカラクリなどもあったようです
    虚無僧(こむそう)
    虚無僧はおもに失業した武士、つまり浪人が行った職業です。深編笠(天蓋)に着流し姿で、尺八を吹いて門付けをするので願人坊主にも似ているのですが、普化宗に属する僧ということになっていました。

    明治の貧民

    乞食の人数
    明治2年(1869)に弾左衛門が非人頭に命じて乞食の人数の調査をしています。ここでの乞食とは、非人、乞胸、願人坊主などだと思われますが、合計で約4400人です。
    江戸市中
     非人     700人 車善七配下
     乞胸     500人 仁太夫配下
     神田橋本町  550人 ぐれ宿
     下谷万年町  180人 ぐれ宿
     市中場末裏店 900人
     往来の野非人 750人
    品川
     非人     200人 松右衛門配下
     野非人、乞食 160人
    深川
     非人      56人 非人頭見習・佐助配下
     霊巌寺裏   138人
     西大工町裏   30人
    代々木
     非人      79人 久兵衛配下
     野非人    100人
    木下川(きねかわ)現在の東墨田三丁目
     非人       8人
     野非人     30人
    解放令
    明治4年に解放令が出され穢多や非人も平民になりました。そのため、穢多頭の弾左衛門や非人頭の車善七も失業してしまいました。穢多非人がいなくなったのですから、その頭も不要となったのです。
    弾左衛門は弾直樹と名前を変え、軍靴製造の会社を始めましたが、うまくいかなかったようです。でも、そのせいか浅草あたりには今でも靴関係の会社が多くあります。
    車善七も長谷部善七と名前を変えましたが、その後の行方はよく分からないようです。ただし、救育所や養育院といった施設が作られ非人や乞食たちも収容されたようです。
    紙屑拾い
    紙屑拾いは江戸時代には非人たちの商売でしたが、明治になってからも貧しい人たちの商売でした。
    明治11年に警視庁から紙屑拾いの鑑札が500枚発行されています。
     下谷万年町 300枚 ぐれ宿
     浅草松葉町 100枚 乞胸街
     天竜寺門前 100枚 ぐれ宿
    貧民街
    ぐれ宿のあったような場所が、明治になって貧民街を形成していました。こうした町には、ぐれ宿や棟割長屋に貧しい人々が多く集まって暮らしていました。
    職業は人力車夫、日雇、左官手伝い、土方手伝い、荷車引きなどの他、伝統的な願人坊主、住吉踊りなどもあったようです。また、紙屑拾い、ガラス壊れ買いなども行っていました。
    三大貧民街として有名になったのが、次の三ヶ所です。いずれもぐれ宿のあった場所です。
     下谷万年町
     四谷鮫ヶ橋
     芝新網町
    その他にも貧民の多く住む場所はありました。
     神田橋本町
     浅草松葉町
     麻布谷町、箪笥町
     四谷天竜寺門前
     本所花町、小梅業平町
     深川富川町、霊岸町
    こうした場所は震災や戦災に焼かれ、現在ではその痕跡もほとんどなくなっています。
    江戸の願人坊主や乞食たちは様々な工夫をした門付け芸をして世の中を渡っていました。そこには案外と豊かな芸能文化があります。
    門付けは戦後もあったようですが、高度成長とともに失われていきました。なにか寂しい気もします。

    補足

    1.非人の髷
    「守貞謾稿」に、実際には髷を結っている非人も多く、その場合は手拭いを被っていたとあります。

    2.非人小屋
    「守貞謾稿」に浅草見附以南、新橋以北に非人小屋が143戸あったとあります。

    3.小屋者と松右衛門
    「絵本江戸風俗往来」に市中の非人について次のように説明しています。
    さて小屋者(非人)という者は、市中往来道路上に於いて死人または犬猫を始め、獣類の死物ある時は早々取片付け、或いは日々来たる物貰い乞食の取締をなし、すべて道路上の穢なきようを専一にし、不浄物は一切小屋者にて始末をなすの掛りなり。
    しかるに市民・小屋者の間に於いて双方相互に不心得の事ある時は、松右衛門(品川の非人頭)支配地なれば、松右衛門出てこれを始末し、その他の者の配下の町なれば、その者その中間に入りて双方に誤りなく程よくその始末を全うするの任なり。
    故に市民方に祝事・家土蔵の建築・子弟の祝い・婚儀・葬儀を始め、家業の外に外聞高きことある時は必ず松右衛門来たりて、乞食物貰等の始末をし、その妨げなきよう取り締まるなり。しかるに松右衛門自身来たるにあらず。すべて松右衛門は代人のみ市中に来たるなり。

    4.非人の勧進
    「絵本江戸風俗往来」で鈴木棠三が次のような解説を付けています。
    物貰いすなわち市中の民家で慶弔の事がある場合、非人が銭や物を貰いに出る。それには分担区劃がきまっていて、支配頭は五町以内、小屋頭は三町以内、平の非人は一町以内を範囲とし、役徳勧進場と称した。だから車善七または松右衛門が江戸全市を縄張りにしているわけではないのである。貰いの額は百文一升だったという。勧進のときの非人は勿論松右衛門自身が来るのではなく、手下が三人連れで木綿羽織姿で、「おめでとう」とか、葬式には、「お供に参りました」といって来る。これがいると乞胸とかかぶり乞食を追い払うのに都合がよいので、町家ではむしろ便利がよかった。

    5.刑場での非人と穢多の分担
    「守貞謾稿」に次のようにあります。
    引き廻し刑罪等、すべて警固は非人なり。獄門にかけ、磔の槍は穢多なり。

    6.非人頭の担当エリア
    「守貞謾稿」に非人頭の担当エリアについて次のように書いてあります。
     車善七  新橋以北、千住大橋以南
     松右衛門 新橋以南、六郷川以北
     善三郎  本所深川
     久兵衛  城西

    7.非人頭
    「絵本江戸風俗往来」での鈴木棠三の解説によれば次のような非人頭がいたそうです。
     浅草の車善七:非人全体の支配、浅草の溜を支配
     品川の松右衛門:品川の溜を支配、品川御仕置場の雑役
     中橋の次郎兵衛:南番所(南町奉行所)の仮牢の囚人を扱う
     四日市の新四郎:北番所(北町奉行所)の仮牢の囚人を扱う
     谷の者長兵衛:伝馬町の牢の雑役
     千住の市兵衛:千住御仕置場の雑役
     深川の善四郎:浅草女溜を支配
     浅茅ヶ原の惣左衛門:斬罪人の死体片付け
     代々木の久兵衛:遊撃的に他の非人の応援に当たる
    ただし、この中で「谷の者」というのは長吏(穢多)のことです。他にもこの中には非人ではなく長吏がいるかもしれません。

    参考文献
    「弾左衛門とその時代」塩見鮮一郎 河出文庫
    「江戸の非人頭 車善七」塩見鮮一郎 河出文庫
    「乞胸 江戸の辻芸人」塩見鮮一郎 河出書房新社
    「江戸の弾左衛門」中尾健次 三一新書
    「江戸の大道芸人」中尾健次 三一新書
    「江戸のお裁き-驚きの法律と裁判」河合敦 角川学芸出版
    「江戸あきない図譜」高橋幹夫 ちくま文庫
    「彩色江戸物売図絵」三谷一馬 中公文庫
    「江戸商売図絵」三谷一馬 中公文庫
    「近世風俗志(守貞謾稿)」喜田川守貞著、宇佐美英機校訂 岩波文庫
    「絵本江戸風俗往来」菊池貴一郎著、鈴木棠三編 東洋文庫
    「捕物の話 鳶魚江戸文庫1」三田村鳶魚著、朝倉治彦編 中公文庫
    「江戸の戯作絵本」小池正胤他編 教養文庫
    「明治東京下層生活誌」中川清編 岩波文庫
    「貧民の帝都」塩見鮮一郎 文春新書
    「身分差別社会の真実」斎藤洋一 講談社現代新書
    「私家版差別語辞典」上原善広 新潮選書
    「日本民衆文化の原郷」沖浦和光 文春文庫
    「異形にされた人たち」塩見鮮一郎 河出文庫
    「寛政度文政度御尋乞胸身分書」
    http://www.asahi-net.or.jp/~mg5s-hsgw/tkburaku/siryou/goumune.html

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