紀田順一郎

予算の制約だけが低福祉の原因とは思えません。そこには貧困に対する社会的認識の未熟さ、前時代的な人間観の歪みが反映しているのではないでしょうか。現在の介護保険制度の運営を見ても、要介護・要支援の認定システムにも、弱者を社会的に救出すべきであるとする近代的な観念の著しい不足を窺わせるものがあります。そこから制度や予算の不足を近親者の犠牲や奉仕によって補おうという、為政者の「美風」発言が生まれます。
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永井荷風の『日和下駄』は明治から大正にかけての東京散歩記であり、都市論のはしりでもあるのですが、その中に山の手の貧家の風景が出てきます。初夏の美しい空と、青々とした若葉の下では貧家のブリキ屋根がいよいよ悲惨の色を増し、さらに「冬の雨降り灌ぐ夕暮なぞは破れた障子にうつる燈火の影、鳩鳴く墓場の枯木と共に色あせた冬の景色を造り出す」というのですが、ここに表れているのは極貧の暮しを “景物”として、美学的に眺めることをもってよしとする感覚です。貧しい暮しに対して同情が欠けているのではないが、貧困の構造には関心がないようです。同じ文章の中に探索の途中「恩賜財団済生会とやらいう札を下げた門口」を見る場面がありますが、この書きぶりから窺う限り、荷風は当時最も有名な社会福祉団体についての知識すらなかったことがわかります。

2 thoughts on “紀田順一郎

  1. shinichi Post author

    紀田順一郎 『東京の下層社会』

    紀田順一郎 書斎の四季 私の旧刊

    http://plus.harenet.ne.jp/~kida/topcontents/news/2010/020601/index.html

    Koda この本は昭和戦前までの都市下層の実態を探りながら、そこから焙り出しにされる日本の社会福祉思想の特異な性格や、政策上での限界を究明しようとしたものです。原著(1990)を出したのが20年前で、10年前に出た文庫(ちくま学芸文庫)がこのほど10刷に達しました。私の著書のなかでも、最も息の長い売れ行きを示しています。

     バブル時代にも行きつけの書店で店長さんに「なぜ売れるんでしょうかね」と尋ねてみたことがありますが、「お客さんは『貧乏というものは何となく気になるものですからね』といいながら買っていきますよ」という答えでした。いまなら、「タイムリーですねえ」といわれることでしょう。

     駆け足の近代化と富国強兵を国是とする日本の近代は、必然的に社会経済的な弱者――極貧階層を生み出しましたが、軍事優先の国家予算には本来の意味での福祉予算が実現される余地もなく、弱者は常に切り捨てられる運命にありました。明治初期から中期にかけての福祉施設のほとんどが、外国の宣教師をはじめとする教会関係者、団体等によってしか創設されなかったことを、もう一度考える必要があるでしょう。

     しかし、予算の制約だけが低福祉の原因とは思えません。そこには貧困に対する社会的認識の未熟さ、前時代的な人間観の歪みが反映しているのではないでしょうか。現在の高齢社会における介護保険制度の運営を見ても、要介護・要支援の認定システムにも、技術的な欠陥以前に弱者を社会的に救出すべきであるとする近代的な観念の著しい不足を窺わせるものがあります。そこから制度や予算の不足を近親者の犠牲や奉仕によって補おうという、為政者の「美風」発言が生まれます。

     もとより軽負担・高福祉の実現は容易なことではありませんが、それを通り越してモラルを強要するところに、日本的体質を見る思いがします。

     執筆の動機といえば、私が以前から都市下層社会に対する関心を抱いていたことにあります。それは遠く終戦直後のバラック住まいと食糧難の記憶に発する。朝夕通学・通勤のさい、否応なく目に入るのがスラム街の光景であったことです。高度成長期以後の世代には想像しにくいでしょうが、、1960年代ぐらいまでの各都市には、いたるところにスラム地区が存在していました。私が文筆生活の初期に『最暗黒の東京』の著者松原岩五郎に関する文章を発表したのも、そのような関心が働いたためであって、以来、いつかはまとまったものを書いてみたいと考えていました。

     永井荷風の『日和下駄』(一九一四)は明治から大正にかけての東京散歩記であり、都市論のはしりでもあるのですが、その中に山の手の貧家の風景が出てきます。初夏の美しい空と、青々とした若葉の下では貧家のブリキ屋根がいよいよ悲惨の色を増し、さらに「冬の雨降り灌ぐ夕暮なぞは破れた障子にうつる燈火の影、鳩鳴く墓場の枯木と共に色あせた冬の景色を造り出す」というのですが、ここに表れているのは極貧の暮しを “景物”として、美学的に眺めることをもってよしとする感覚です。貧しい暮しに対して同情が欠けているのではないが、貧困の構造には関心がないようです。同じ文章の中に探索の途中「恩賜財団済生会とやらいう札を下げた門口」を見る場面がありますが、この書きぶりから窺う限り、荷風は当時最も有名な社会福祉団体についての知識すらなかったことがわかります。

    ひとり荷風にとどまりませんい。多くの人々は都市下層階級の存在を単なる怠け者や落伍者ぐらいにしか認識してい なかったのではないでしょうか。せいぜい同情や慈善の対象でしかなかったのです。これが日本特有の勤勉主義のせいであるかどうかは議論の別れるところとしても、近代化に猛進する国家にとって、弱者切り捨て政策の格好の口実となったことは否定できないでしょう。かくて先進諸国より五十年も遅れているとされる低福祉のもと、信じられないような悲惨な出来事が相次いで起こったのです。

     もっとも、いかなる時代にも世間の風潮に抗する先駆者は存在するもので、明治中期という早い時代に、このような社会的な貧困を“発見”、世間に警鐘を鳴らしたジャーナリストやルポライターも存在した。『日本の下層社会』を著した横山源之助のことはすでによく知られているが、これに先だって『最暗黒の東京』(1893)という下層社会ルポを発表した松原岩五郎などは一般にあまり知られていないようです。

     このような隠れた文献の紹介も本書のねらいの一つです。書名の下層社会というのは、明治期から昭和戦前にいたるまで、都市の底辺に限界的な生活を営んでいた生業者や工場労働者、娼婦などを含んでいることを付記しておきます。

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