産経新聞

関大尉は命令を受けた際「ぜひ、私にやらせてください」と承諾したとされるが、報道班員だった同盟通信の小野田政特派員は、出撃を控えた関大尉とのやり取りを回想録「神風特攻隊出撃の日」の中でこう記す。
「関は腹立たしげにこういった。『報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて』『ぼくは最愛のKAのために行くんだ。命令とあらば止むをえない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!』」
関大尉は当時、新婚5カ月。KAは海軍用語で妻を指し、その言葉からは苦渋に満ちた決断が伝わる。
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特攻隊員が愛する者を守り、国の行く末を案じる気持ちが行動の芯であったのはまぎれもない事実だが、美辞麗句で片付ける前に、生への執着を断ち切るまでの想像を絶する努力と決断があったことは想像に難くない。
ところが、軍神とあがめられた特攻隊員に対する賛美は敗戦とともに影を潜め、遺族を取り巻く環境も一変した。
関大尉の母、サカエさんも、「軍神の母」からいつしか「戦争協力者の母」という批判を浴びせられる。
訪れる人もなく、衣類を闇米に代え、草餅を作って売り歩いた。晩年は西条市の小学校に住み込みで働き、昭和28年、還暦を前に亡くなる。意識が混濁する床で、「行男の墓を建ててください」とつぶやいて息を引きとったという。
サカエさんが亡くなった際、戦時中は「軍神の母」につきまとっていた新聞記者が、「そんなもの記事になりますか。軍神がなんですか」と吐き捨てるように言ったという。

One thought on “産経新聞

  1. shinichi Post author

    23歳特攻隊員「日本はおしまい」「妻を守るために死ぬ」無念と絶望…母は「戦争協力者」と貶められ

    産経新聞

    http://www.sankei.com/politics/news/141023/plt1410230005-n1.html

    旧日本海軍の「神風特別攻撃隊」が初めての攻撃を実行してから、10月25日で70年を迎える。特攻隊戦没者慰霊顕彰会によると、特攻による戦死者数は6418人。彼らは何を思い、その後の日本人に何を託したのか-? 元特攻隊員の言葉などから英霊の思いに迫る。(編集委員 宮本雅史)

     毎年10月25日、愛媛県西条市の楢本神社で、「神風特攻敷島隊並びに愛媛県特攻戦没者追悼式典」が開かれ、今年で40回を数える。

     敷島隊は昭和19年10月20日、フィリピンのマバラカット飛行場で、海軍兵学校70期の関行男大尉=当時(23)、戦死後に中佐=を指揮官に5人で編成。25日、レイテ沖海戦で敵空母群に突撃し、護衛空母セント・ローを撃沈するなど戦果を挙げた。

     当時の新聞は朝刊1面で「身を捨てて国を救わんとする皇軍の精粋である」と報じた。

     

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