藤垣裕子

従来、専門家と一般市民との間の関係は、専門家は知識をもつもの、一般市民は知識をもたざるもの(知識が欠如している)という形で語られてきた。このモデルは、専門家から市民への一方的な知識の流れを仮定している。つまり、専門家のみが権威ある知識をもっており、それに基づいた選択肢を作り上げ、住民の側に「受容せよ」と求める。知識が欠如しているので、専門家と行政の決めた最適な意思決定あるいは科学技術を一方的に受容せよ、ということになる。日本の原子力発電をめぐる多くの専門家からの発言がこの欠如モデルに基づいていることは否めない。「科学者や行政などリスクのプロによる科学的評価を一般の人々が受け入れない。受容できないのは一般のひとびとに「知識がない」(無知である)せいである」という論調の報告書は多く書かれてきた。
しかし、無知とは、単に知識の欠如を意味するだけでなく、専門知とは異なる多数の判断基準をもつことを指す。科学的専門知のもつ科学的合理性とは別の価値観をふくむ。そして、無知とは、単に知識の欠如を意味するだけでなく、文化的、政治的闘争の結果でもある。

科学・技術に関連した社会的・政治的問題が発生したときに未来を選択する意思決定の場は、行政と専門家のコミュニティに閉じられていてはならない。現代の科学・技術に関連した社会的・政治的問題は、利害関係者(stakeholders)が多様で、市民も賛成派と反対派にわかれ、かつ一国のなかの支配者-被支配者あるいは加害者-被害者図式の枠には収まりきれず、国境を越え、他国との外交も関係する。したがって、未来を選択する意思決定の場は、多様な利害関係者(専門家、行政関係者、地域住民、関連企業ほか)に開かれた「公共空間」である必要がでてくる。

One thought on “藤垣裕子

  1. shinichi Post author

    ローカルナレッジと専門知

    by 藤垣裕子

    in 知識/情報の哲学

    岩波講座 哲学04
    知識/情報の哲学
     II 知の脈動とネットワーク
      1 ローカルナレッジと専門知(藤垣裕子)
       六 科学技術と民主主義および科学コミュニケーションの課題へ

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