Gerald M. Edelman, Giulio Tononi

Such a memory has properties that allow perception to alter recall and recall to alter perception. It has no fixed capacity limit, since it actually generates “information” by construction. It is robust, dynamic, associative, and adaptive. If our view of memory is correct, in higher organisms every act of perception is, to some degree, an act of creation, and every act of memory is, to some degree, an act of imagination. Biological memory is thus creative and not strictly replicative. It is one of the essential bases of consciousness, to the mechanisms of which we now turn.

3 thoughts on “Gerald M. Edelman, Giulio Tononi

  1. shinichi Post author

    A Universe of Consciousness: How Matter Becomes Imagination

    by Gerald M. Edelman, Giulio Tononi

    (2000)

    **

    Building a Picture of the Brain

    by Gerald Maurice Edelman

    in The Brain

    Edited by Gerald Maurice Edelman and Jean-Pierre Changeux

    (2001)

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  2. shinichi Post author

    254~256 備忘録 「脳神経科医 オリバー・サックス」

    さくらの読書スイッチ

    http://book-sakura.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-b8e1.html

    再構築される記憶、再生される記憶

    過去の記憶が脳に貯えられているという考え方には多少ニュアンスのちがいがあるし、それほど機械的に解釈されているわけでもないが、精神分析の分野にはつきもので、優れた自伝を書いた作家たちもそう考えてきた。フロイトが好んだ心のイメージは、何層にもわたって過去が埋もれている(だが、いつ古い地層が意識の上にまで上昇してくるかわからない)考古学調査の現場だった。プルーストの人生のイメージは「瞬間の集積」だった。「その後に起こったすべてのことと無関係」で、心のなかの食料庫にしまわれたジャムの壜のような「密封された」思い出である(記憶について考えた偉人はプルーストだけではない。記憶の不思議さを考えながら、結局、記憶とは「何なのか」わからずじまいになった思想家は、少なくともアウグスティヌスにまでさかのぼる)。

    記憶は記録あるいは貯蔵庫であるという考え方はよく知られていて、わかりやすいので、つい鵜呑みにしてしまい、こうした考え方がどんな問題をはらんでいるかに気づかない。ところがいっぽうでは、「ふつうの」記憶、毎日の記憶が固定されたものにはほど遠いという、まったく反対の経験を誰もがしている。記憶は思い出すたびに、欠けたり、変化したり、修正されたりしている。証人がふたりいれば必ず言うことがちがうし、どんな物語も記憶も同じままではいない。物語はくりかえされるたびに変化していく。1920年代から30年代、語り継がれる物語や映画の記憶などを考察したフレデリック・パートレットは、「記憶」というまとまったものはなく、「思い出す」という動的なプロセスがあるだけだと確信した。彼は『想起の心理学』という優れた著作のなかでも、決して記憶という名詞を使わず、思い出すという動詞を使うほど気を使っている。彼はつぎのように書いている。

    思い出すということは、生命のない固定された無数の断片的な痕跡を再活性化することではない。それは想像的な再構築、あるいは構築であって、過去の反応や経験の活動的な総体に対する自分の姿勢をもとに、ふつうはイメージや言葉というかたちで現われる際立った細部をつくりあげていくことだ。したがって、どれほど機械的な反復であっても、ほんとうに正確であるはずはないし、たいして重要でもない。
     
    現在、バートレットの結論に対する強力な支持者が現われている。ジェラルド・エーデルマンの神経学研究の成果や、脳とはつねに変化のプロセスにある偏在的な活動システムであって、すべてはつねに改訂され修正されているという見方は、パートレットの結論と一致する。エーデルマンが考える心には、カメラも機械的な働きもない。すべての記憶は関連づけ、一般化し、再分類するプロセスである。こうした見方をすれば、固定された記憶も、現在の色づけのない「純粋な」過去も存在し得ない。パートレットと同じくエーデルマンも、つねに動的なプロセスが働いているのであって、記憶とは再生ではなく再構築であると考えている。

    しかし、記憶にはこうした見方が通用しない異例なかたち、あるいは病理的なかたちがあるのではないか。たとえば、ルリアの「記憶術者」にみられる一見したところでは再生可能な不変の記憶、固定し硬直した過去の「人工的記憶」に似たものがあるのではないだろうか。口承文化にみられるきわめて正確で記録的な記憶、何世代も何世代も忠実に伝えられる部族の全歴史、神話、叙事詩はどうか。本や音楽、絵、言葉をまるごと暗記し、何年もたってから文字どおりわずかなちがいもなく再生する、限られた面で特殊な才能を示す知的発達障碍者たち「イディオ・サヴァン」の能力はどうなのだろう。心的外傷(トラウマ)を負って何年も何十年もたってから、どんな細部もそのままに、何度もくりかえしてよみがえる辛い記憶、フロイドが「反復脅迫」と言った記憶はどうなのか。時の経過にもびくともしない神経症的な、あるいはヒステリー的な記憶はどうか。これらの記憶では、再構築ではなく非常に大きな再生の力が働いているように思われる。ここでは固着、あるいは化石化、石化といった要素が働き、再分類や見直しという通常のプロセスと切り離されているのではないか。

    二種類の概念を考える必要があるのかもしれない。動的で、つねに見直され、新しいかたちで提示される記憶もあるが、同時にもとのかたちで存在し、その後の経験のなかで何度も何度もなぞられ、書き直されてもなおそのままのかたちで存在する記憶もある。

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  3. shinichi Post author

    (sk)

    どの意識(act of perception)も、ある程度までは、創造(creation)によってもたらされる。

    どの記憶(act of memory)も、ある程度までは、想像(imagination)によってもたらされる。

    「意識と知識」のことを、そして「記憶と知識」のことを、もう一度考えたくなった。

    **

    「記憶が曖昧で」とか、「記憶にございません」というのは、たぶん嘘ではないのだろう。

    Reply

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