石井威望

かつての日本人は、「もの真似」に対してそれほどコンプレックスを抱いてはいなかった。例えば、職人の世界に代表される技術の現場では、昔から必ずグループで仕事をしてきた。そこでは、一人が何か新しい技術をマスターすると、みんなが真似をした。教える際も手取り足取りではなく、「習うよりは慣れろ」、あるいは「見て盗め」と突き放して技術を覚えさせた。つまり、学ぶということは、徹底して「真似る」ことだったのである。
芸事などでも、古くから「守・破・離」という一つの発展段階説があった。まず、伝統的な古いやり方を、そのとおりに守って徹底して学ぶ。そして基本技術を十分にマスターした上で、次の段階として古い伝統的なものを破り、やがては学んだものと離れて、まったく独創的な方式を確立し、新たな流派を形成していった。
このように、日本人には、徹底して「真似る」=「学ぶ」姿勢こそが独創性を発揮する大前提であるとする歴史があったのである。それを「真似る」=「独創性の欠如」と勘違いするようになったのは、「守・破・離」の「破」と「離」の識別が明確にされていなかったからではないだろうか。
独創性とは、本来、時間軸の上で非常にきわどいバランスを保って成立するものである。言い換えれば、独創性とは時間との関数関係で成立するのだ。例えば、今の世に、ニュートンが再び現れて、「万有引力の法則」を主張しても、だれも相手にしないだろう。発表当時は独創的だったアイディアも、永遠にそうあり続けることはできない宿命にある。
これは、「守・破・離」においても同じである。「破」と「離」の間には、実は大きな隔たりがあり、「破」の段階で文字どおり破門されて挫折してしまうのか、それとも「立派」するようになるのか、その分かれ目はその時代の尺度にかかっている。時代の方が先に新しい評価尺度に変わってしまったとき、破門された者が、破門を申し渡した者よりも栄えていくという歴史的な事例は山ほどあるのだ。

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