知識という言葉は仏教用語で、「知」と「識」は別々のものです。
明治時代になってから、英語のknowledgeかフランス語のconnaissanceを、仏教用語を転用して「知識」という単語を当てはめたために話が複雑になっちゃったみたいです。

子曰、学而不思則罔、思而不学則殆。
学ぶ事が「知」であるのは明快だと思うけど、じゃあ思うってどういうことかしら。多分これが「識」であって、Senseとして「知」を分類してるんじゃないかしら。ちょうど脳生理学で、海馬が情報を分類してるように。

2 thoughts on “

  1. shinichi Post author

    論理的思考能力とは?

    Posted by nabeodesuyo

    http://blog.livedoor.jp/nabeodesuyo/archives/50836263.html

    よく思うんだけど、論理性があるとは論理が含まれた形での知識をどれだけ持っているかであって、論理的思考能力というところにだけ焦点を当ててもあまり見えることは多くないと思う。僕は普段あまり話を上手く説明できなかったりして、自分論理性ないなーとか思っても、結局原因は単にその分野の背景知識がないことだったりすることが多い。実は知識を入れるという時にすでに論理でもって組み込むという過程を含んでいるのであって、俗に言う論理的思考能力とやらを発揮させるときも、結局対象となる知識でもってやり取りしているわけである。知識を持ってるだけのやつは駄目みたいな言説が一部にはささやかれているけど、それはトリビア的な知識(散在してどこがどこにあるのか位置づけられてない点のような知識)をいくら持ってても意味がないということであって、僕が言ってるのは学術のディシプリンを身につけるというように一つの知識体系をしっかり身につけておくというようなことを言ってる。「万能な論理的思考能力」というのを身につけることができて、どんな分野にも応用できるとする考えには限界があるのではないかな?

    まあ実務のかただともうちょっと違った意見が出てくるのかわからないが、よければ聞いてみたい。

    Comment
    ________________________________________
    1
    by kazutas

    大学時代に先生から「知識の量は質に転化する」と言われたことがあります。
    背景知識がない中で優れた考えって出てこないですよね。
    知らないからこそ斬新な考えが生まれることはあっても
    それを深く考察していく過程では知識がなければ無理だと思ってます。

    ________________________________________
    2
    by 野田一丁目

    私は反対に説明好きですね。(笑)全く畑違いの技術的背景を知らない話でも説明下手の技術者に変わって説明することが多かったですよ。
    でも致命的に理解力のない人って世の中には居るもので、最初に思い込んだことから一歩も譲らない人には説明出来なかったなあ。そういう人には「そういう事にしておきましょう」で済ますしかなかったです。あとヘンな所に喰い付いて来る人や枝葉末節に拘る人も苦手でした。

    ________________________________________
    3
    by nabeodesuyo

    >kazutas

    コメントありがとうございます。大学の学習の目的は一つの分野に対して体系化した知識を持つということです。社会科学では知らなくて斬新な考えが出ることはほとんどないでしょう。

    ________________________________________
    4
    by nabeodesuyo

    >野田一丁目さん

    お久しぶりです。実務の人とで意見が割れるかな、と思ってました。

    ただ「致命的に理解力のない人、最初に思い込んだことから一歩も譲らない人、ヘンな所に喰い付いて来る人や枝葉末節に拘る人」というのも結局、関連するところでの知識体系を持たないことが原因かと。また、関連する知識なくても一つの知識体系を身につけたことがある人は他の知らない分野に対しても勘所が良くなる気がします。ただ実務の世界、特に営業等ではもっと演繹的な思考の瞬発力が要請されるのかと。僕みたいな頭でっかちはお役に立たないかもですね。
    また労働のことに関しても書いていきます。

    ________________________________________
    5
    by 秋

    多分、解決のヒントは「知識」という言葉にあるのだと思います。
    知識という言葉は仏教用語で、「知」と「識」は別々のものです。なべさんが「知識」と言っているのは、ここでいう「知」の方で、「識」の方が「知」を論理につないでいく役割を担うのだと思います。
    明治時代になってから、英語のknowledgeかフランス語のconnaissanceを、仏教用語を転用して「知識」という単語を当てはめたために話が複雑になっちゃったみたいです。

    秋 

    ________________________________________
    6
    by nabeodesuyo

    >秋

    コメントありがとうございます。すみません、結局そこから論理的思考能力の話とどのように絡んでいくのですかね。 語源はともあれ「知」と「識」って分けて考える必要ありますかね?まあ僕も知識という言葉をベストフィットで使っていたとは思いませんけど。

    ________________________________________
    7
    by 秋

    ねえ、ナベさん、
    子曰、学而不思則罔、思而不学則殆。
    (子曰わく、学びて思わざれば則ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し。)
    ってどういう意味だと思いますか?
    質問はつまり思うことと学ぶこととはどう違うのかってこと。
    学ぶ事が「知」であるのは明快だと思うけど、じゃあ思うってどういうことかしら。多分これが「識」であって、Senseとして「知」を分類してるんじゃないかしら。ちょうど脳生理学で、海馬が情報を分類してるように。

    「識」の分類のしかたによって論理が生ずるのだと私は思ってます。「識」ってのは論理的思考そのものじゃなくて、筋道を立てていく働きをするもんだと思います。逆に言えば「識」の働きがなければ、その結果として論理的思考は生まれないと思います。かなりベルグソン的だけど・・・・
    秋 

    Reply
  2. shinichi Post author

    (sk)

    明治時代に作られた言葉のなかには、仏教用語を転用したものも多い。

    私たちが「意識」とか「意識」というときに、仏教での元の意味を考えても、あまり意味がない。

    Reply

Leave a Reply

Your email address will not be published. Required fields are marked *