岡本太郎

「伝統、伝統」と鬼の首でも取ったような気になっているこの言葉自体、トラディションの翻訳として明治後半に作られた新造語にすぎません。しかも伝統主義者たちは権威的にいろいろ挙げてはいるが、しかしそれらが新しい日本の血肉に決定的な爪あとを立ててはいないのです。いわゆる伝統とされているものの内容も様式も、大層にかつぎあげればあげるほど、かえって新鮮さを失い、新しい世代とは無縁になりつつあることは、さまざまの实例に即してお話してきたとおりです。まったく、日本には伝統そのものがないんじゃないかと疑いたくなる。
伝統という言葉が明治時代に作られたように、内容も明治官僚によって急ごしらえされた。圧倒的な西洋化に対抗するものとして、またその近代的体系に対応して。

4 thoughts on “岡本太郎

  1. shinichi Post author

    日本の伝統

    by 岡本太郎

    伝統論の新しい展開

    つねに主張しているとおり、私は、「伝統」を、古い形骸をうち破ることによって、かえってその内容—人間の生命力と可能性を強烈にうちひらき、展開させる、その原動力と考えたい。この言葉を極めて革命的な意味でつかうのです。

    因襲と伝統はちがう、伝統はわれわれの生活の中に、仕事の中に生きて来るものでなければならない。現在の生き甲斐から過去を有効的に捉え、価値として再評価する。そのときに現在の問題として浮かび上がってくるのです。古いものは常に新しい時代に見かえされることによって、つまり、否定的肯定によって価値づけられる。そして伝統になる。従って伝統は過去ではなくて現在のものだといえます。

    だが今まで「伝統」は、もっぱら封建モラル、閉鎖的な職人ギルド制の中で、むしろ因襲的に捉えられて来ました。今日でもほとんど、アカデミックな権威の側の、地位をまもる自己防衛の道具になって、保守的な役割を果たしています。その不毛なペダンチスムに対する憤りから私は『日本の伝統』を書いたのです。それは私の情熱であり、一つの芸術活動だった。

    ところで、私の激しい革命的伝統観に対して、当然強烈な反対がある かと思ったら、意外にも、反対側が、大へんもっともな意見だ、という調子で妥協して来たのには驚きました。そこで気がついたことですが、日本では騒ぎたてる割に、实は強力に貫いた伝統観というものはないんじゃないか。

    「伝統、伝統」と鬼の首でも取ったような気になっているこの言葉自体、トラディションの翻訳として明治後半に作られた新造語にすぎません。しかも伝統主義者たちは権威的にいろいろ挙げてはいるが、しかしそれらが新しい日本の血肉に決定的な爪あとを立ててはいないのです。いわゆる伝統とされているものの内容も様式も、大層にかつぎあげればあげるほど、かえって新鮮さを失い、新しい世代とは無縁になりつつあることは、さまざまの实例に即してお話してきたとおりです。まったく、日本には伝統そのものがないんじゃないかと疑いたくなる。

    伝統という言葉が明治時代に作られたように、内容も明治官僚によって急ごしらえされた。圧倒的な西洋化に対抗するものとして、またその近代的体系に対応して。

    たとえば西洋には美術史がある、こっちにもなくちゃ、というわけで、向こうの形をしき写して、それらしきものを作り上げた。アプリケーションに過ぎません。廃仏棄釈の明治初期にほとんど捨て去られて顧みられなかったお寺や仏像などが、西欧文化史のギリシャ・ローマの彫刻にあたる、というわけで突然、日本芸術の根源みたいにまつり上げられた。それなら桃山期はさしずめルネッサンスだ。これはウマイ・・・・・・。ひどく便宜的で、そこに一貫した世界観、伝統観が貫かれているわけではない。ただ当てはめて並べた、よく考えてみれば、まったく三題話みたいなものなのです。

    あわてて形式だけをぺダンチックにつなぎ合わしたものでも、しかし文部省がバックアップして権威になると、教材として、無批判に、ウムをいわさず国民に押しつけてしまう。何のこったかよくわからないけれど、結構なもんだ、そうきまってるんだから。・・・・・・まことに味気ない。だがこの国では、学者、芸術家、文化人、すべてが官僚的雰囲気の中で安住しているので、一ぺん決まってしまったことはまた、どうにもならないのです。

    だが、人工的に制定されたスジが権威づらしても、伝統としての本当の力を持たないのは当然です。古いものに惰性的であるくせに、日本人が意外にも伝統に対して消極的なのは、そのせいでしょう。いわゆる「伝統」は大衆の生活とは無関係、そのもり上がりなしに作り上げられたのです。官僚の選定したものだけが権威的伝統だなんて、そんな屈辱的な、ナンセンスはありません。

    ところで、具体的に問題をとり上げてみましょう。

    たとえば次のようなことはどう考えたらいいのだろう。

    ――画家として進もうとする。芸大などという官学コースは勿論、ほとんど全部の画学生がまずその第一歩はギリシャ彫刻の石膏像をコピーすることからはじめます。やがて油絵具を使って、西欧 19 世紀的アカデミスムを習得する。情熱をもって日夜真剣に考えるのは、ゴッホであり、ピカソです。絵描きには浮世絵や雪舟よりも、ギリシャ・ローマの西欧系の伝統の方が、現实の関心になっている。とすると、これはいったいどういうことか。

    文学だって、源氏物語が日本の誇りだとか、新古今だとか俳諧だとかいいますが、誰がそれを本当に熱愛し、感動し、それによって人格形成をされるのだろうか。それよりもスタンダール、ヴァレリー、ドストエフスキー、サルトルでも、カフカでも、フォークナーでも構わない。多少のインテリなら、若い日、むしろそういうものに夢中になり、自分の魂がひらかれ、性格が形作られ、創作意欲が生まれる、そういう経験を持たなかったものはいないと思うのです。音楽でも、ベートーヴェンやショパンよりも第何世常磐津文字兵衛の方がぴんとくる、なんていう若者は珍しい。

    してみると、どっちがわれわれの伝統なんだろう。

    むしろわれわれは、近代文化を生んだ西欧によって育てられている。洋服を着て、電車に乗って暮らしている事实だってそうだし、ものを喋るにしても、その論理のたて方、もののつかまえ方、すべてがそうです。子供の時から教育され、身にそなわった西欧近代的なシステムによって、われわれは判断し、生活し、世界観を組み立てているのです。

    私は別だんそれが正しいとか、また逆にゆがんでいるとか言っているのではありません。ただ、それが事实だということ。つまりとかく大層らしく言われるほど、われわれは純血な伝統を負っているのではないということを正視してほしいのです。

    もし伝統というものが、私が先ほど言ったように現代に生き、価値づけられるものだとするならば、ここでわれわれにとっての伝統の問題はすっかり様相を変えてしまうでしょう。

    **

    このように伝統の意味をまったく新しい観点から掴みとることは、豊かな財宝をかかえながらひたすら卑屈になっている日本現代文化を、その袋小路からひき出し、明朗に、逞しく世界におし進めて行く緊急な課題であると思います。

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    伝統とは何か。それを問うことは己の存在の根源を掘り起こし、つかみとる作業です。とかく人は伝統を過去のものとして懐かしみ、味わうことで終わってしまいます。私はそれには大反対です。伝統―それはむしろ対決すべき己の敵であり、また己自身でもある。そういう激しい精神で捉えかえすべきだと考えます。

    過去といっても、過ぎ去り、すべて終わったものではない。自分の責任において創造的に見かえすできだモメントなのです。自分の全存在で挑み、新しくひらくものです。過去は自分が創るのです。ちょっと異様な発現に聞こえるかもしれませんが。そのようにして瞬間瞬間に創られて行く過去だけが、生きて、伝統になるのだと私は思っています。

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    だが嘆いたって、はじまらないのです。今さら焼けてしまったことを嘆いたり、それをみんなが嘆かないってことを嘆いたりするよりも、もっと緊急で、本質的な問題があるはずです。

    自分が法隆寺になればよいのです。

    失われたものが大きいなら、ならばこそ、それよりもっとすぐれたものを作る。そう決意すればなんでもない。そしてそれを伝統におしあげたらよいのです。

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    現在はあらゆる様相で主張している。無数の実験があり、表現があり、真面目んもの、インチキもある。明日、あさってふるい捨てられるものも、また逞しく永らえるだろうものも、勿論まじっている。それが現在なのだ。その中で何が本当に伝統として残るのか、そんなことは現代人、その時代に生きているものには、全く解るはずはないのである。それは次につづく時代のものに問わなければならない。しかし問う必要はない。現在は未来に残るものとして価値があるのではなく、すべて現在に賭けた実験である。それらはすべて必要で、存在理由がある。今日に意義のある実験は、われわれにとっての価値だ。誰が実験を残るものとしてやるだろうか。失われたも構わない、それが現在だ。そして更にそのとき問題をひらき、次の実験の土台になればそれでもよい。もしそこから伝統として次代に受けつがれるものがあったとしたら、それは他の無駄になった無数の実験に支えられ、その条件、土台の上にあるはずだ。後の世なんか考慮して作られるものに、、残ったためしがない。もし伝統といものが、私が先ほど言ったように現在に生き、価値づけられるものだとするならば、ここでわれわれにとって伝統の問題はすっかり様相を変えてしまうだろう。それは何も日本の過去にあったものだけにはかかわらない、と考えた方が現実的ではないか。なにもケチケチ狭く自分の承けつぐべき遺産を限定する必要はない。どうして日本の伝統というと、奈良の仏像だとか、茶の湯、能、源氏物語というような、もう現実的には効力をうしなっている、今日の生活とは無関係なようなものばかりを考えなければならないのだろう。そういう狭い意味の日本の顔だけがわれわれの伝統じゃないのだ。ギリシャだろうがゴシックだろうが、またマヤでもアフリカでも、世界中、人類文化の優れた遺産のすべて、ーその中のどれをとってどれを取らないか、それあ自由だ。われわれが見聞きし、存在を知り得、何らかの形で感動を覚え、刺激を与えられ、新しい自分を形成した、自分にとっての現実の根、そういうものこそ正しい伝統といえるだろう。

    このように現代に生きている人間が、激しく共感し、それによって現在的に問題を推し進めていく。そのときはじて、不当に忘れ去られた過去が生かされ、伝統になる、と私は信じている。過去によって現在があるのではない。逆に現在があって、はじめて過去があるのだ、というふうに考えるべきだ。そういう手続きを、とかく人は見誤っている。だれでもが、自分の現在、その生命力と情熱から過去をつかむ。それが伝統だ。

    われわれは現代の文化芸術にひろい大きな視野をもっている。その最尖端の問題を口にする。今日の芸術が果たさなければならない役割も知っています。だが純粋な形でそういうものを結晶させ生み出すには、あまりにも生涯の多い、雑ぱくな世界に生きていることも確かです。たとえどんなすばらしい夢を描いたとしても、―それは自由だし、結構だ。だがわれわれが毎日生きていながら皮膚の表面に感じとっているものは、隣のおかみさんのツラであったり、小便臭い横丁であったり、そいうわけです。

    そういうものに対する憎しみとか哀れみ、滑稽、―この何ともいえない、ライスカレーの中にお汁粉とチーズとチャーシューメンをごちゃごちゃにかきまわしたような、そいうすべてをひっくるめたものがわが風土なのです。

    それはここでしか通じない。つまり、あまりにも日本的であり、一定の場所の、その瞬間におけるローカリティ、まったく局部的な特殊現象であるにすぎません。雄大な、無限に豊かな過去の昇華された世界に対して、それは実際つまらないし、バカバカしいともいえるでしょう。

    そういう特殊な現実、世界にたいしは何の関係もない、芸術・文化の地層とはおよそかけ離れた環境、その条件と日々にわれわれは対決しているし、いなければならない。いかにその局地的な現実がナンセンスで、チマチマしたやりきれないものであっても、これを中傷し、捨て去ることはできないのです。その悩み、悲しみ、苦しみ、喜び、それは一人一人にあたえられたのっぴきならない事態であり、また一つの共同体、民族にはめられた枠になっています。

    もしわれわれが世界に向かって創造しようとする時には、このパティキュラーな現実にまともにぶつかり、そこを通して実現しなければ嘘だ。事実、不可能なのです。この特殊性、不利な条件こそ逆に可能性への鍵です。だが多くの作家は、この困難な矛盾の道をむしろ軽蔑し、避けてしまう。モダーニスト、にせものが栄えるゆえんです。

    **

    私の言いたいことは、現在、すべての実験が可能であるということだ。当然、それは危険だ。だから悪いんじゃない。危険だからこそ、やる。生甲斐なのだ。己の責任に於いて決断し、実行すること、それが直ちに芸術にかかわってくるのである。

    ところが何処へ行っても、自分自身は棚に上げて、美しいものとか、完成したもの、味のあるもの、公認されたものが芸術であるように錯覚している。

    自分達のもり上がりがなくて、爛熟した文化の上ずみだけを、小器用に、美・芸術として受け入れてしまう。その受け入れ方の要領のよさだけが、一種の民族的な素質として久しく身についてしまってないか。

    結構なものはいつでも、外国から貴族階級、上層指導階級に受け入れられ、その高みから国民に恵みくだされた。生活からもり上がり、創り出されるのではなく、外から、また上から与えられる。そういうものだけが、つまり文化・芸術だという考え方が日本人一般の常識になっている。前にいった地方文化意識の卑下感は、こういうところに伝統的に根ざしているのだ。民族の第二の天性にさえなっている。が、かつてそうであったということが、これからもそうでなければならないという理由には絶対にならない。今日われわれの対決している問題、世界は、過去のそれとは全く異質であり、はるかにひろく、きびしい。われわれの精神も当然それに対応して変わって行かなければならないのだ。
    伝統と創造というこの二つの不思議な魅力。そして両者は強烈に相反撥する。その対極的な緊張感の中に、私は芸術家としていきる充実感をおぼえるのだ。

    伝統なしの創造はない。しかしまた創造ぬきの伝統はないというのが信念である。だから私は激しく発言するのだ。どうして、伝統を信奉する人達―社会の指導層にある二と達がほとんどそうである―が純粋な創造の営みをはばもうするのか。

    今日の「実験」、明日には、価値として残るか残らないか解らない。それはどうでもいい。しかし、今これをやらなければ、明日はないのだ、そういう情熱と責任において、やる。「実験」というのはそういうものだ。己とすべてをかけて実験しなければならない、その純粋な戦いと苦しみ。

    すべての文化活動に、伝統の問題が強力にかかわる。人間のあらゆる歴史的行為が伝統になる。現在のすべては、過去の宿命を負うているし、また未来に向かって投げられている。たとえいかに過去と断絶しているとしても、断絶という行為を契機として過去を荷い、それ自体たま直ちに伝統になるのである。

    珍しいもの、変わったもの、るまりエキゾチックな対象として見る場合と、自分に無いもの、知らされなかったものに対する新鮮な感動と。この二つは混同されやすいが、まったく別種の精神状況なのだ。

    彼(外国人)らに指摘され再認識し、親しく見られてきたものでも、あらためて新しい角度から眺めれば、別個の感動がおこる。彼らと同じように、おそらくそこに近代的な美を発見して感動するかもしれない。しかし、それは決して彼らが見る場合と同じプロセスを通過することはないだろう。新しく掴み取るためには、そこに到るまでの永い歴史、ありあまる類似の形式、つまりわれわれがふだんの生活において、もおう沢山というほど押しつけられ、絶望し、そして否定してきた、それらのすべてを処理し、通り越して、そこに達しなければならないのだ。つまり新鮮さはない。

    さらにいえば、われわれに新鮮であり有効であるためには、それは、かえって切り捨てることによってしか生きてこない。つまり「日本美」としてではなく、逆にそういう観念を無効にすうるものとして出てくるのだ。

    外国人のプロセスと正反対である。表と裏からそれにぶち当たっているのだ。つまり彼らが外側からそれを掴めば、われわれは内側から、なのである。したがってわれわれが甘い気分でジャポニカ調にひっかかったら全く不毛でありバカバカしい。このことは、今までの事実が証明している。

    だから、彼らのいう良さがたとえ事実であったとしても、手続きに関するかぎりまったく逆であり否定すべきではないか。
    日本人の立っている場所、その出発点のあやまりをはっきりとここで認めなければならない。他から見出され、押しつけられる価値を後生大事に守るのではなく、むしろ逞しく否定し、切り捨てて彼我に対して異質であるものにかけてゆくべきである。いわゆるパターンを否定し常に新しく前進し、創造してゆくのだ。これこそ近代造形の精神なのである。

    たとえば西洋には美術史がある、こっちにもなくちゃ、という訳で、向こうの形をしき写して、それらしきものを作り上げた。アプリケーションにすぎない。廃仏毀釈の明治初期にほとんどすて去られて顧みられなかったお寺や仏像などが、西欧文化史のギリシャ・ローマの彫刻にあたる、という訳で突然日本芸術の根源みたいにまつりあげられた。そんあら桃山器はさしずめルネッサンスだ。これはウマイ。…ひどく便宜的で、そこに一貫した世界観、芸術観が貫かれているわけではない。ただ当てはめて、並べた、よく考えてみれば、まったく三題噺みたいなものだ。あわてて形式だけをペダンティックにつあんぎ合わせたものでも、しかし文部省が公認して権威になると、教材として、無批判に、ウムをいわさず国民に押しつけてしまう。何のこったかよくわからないけれど、結構なもんだ、そうきまってるんだから。…まことに味気ない。だがこの国では、学者、芸術家、文化人、すべてが官僚的雰囲気のなかで安住しているので、一遍決まってしまったことはまた、どうにもならないのである。

    だが、人工的に制定されたスジが権威づらしても、伝統としての本当の力をもたないのは当然だ。古いものに惰性的であるくせに、日本人が意外にも伝統に対して消極的なのはそのせいだ。「伝統」は大衆の生活とは無関係、そのもり上がりなしに作り上げられたのだ。官僚が制定したものだけが権威的伝統だなんて、そんな屈辱的な、ナンセンスはない。それでは、われわれ自身にとっての伝統とはいったい何だろう。

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  2. shinichi Post author

    縄文土器論-四次元との対話

    by 岡本太郎

    縄文式文化のたくましい、魔術的、神秘的な力が、地底の熱と光のように、歴史の深みから私たちを照らし、あたためる。このような過去を持った民族の情熱、生命力が枯れつくすことはありえないはずだ。民族への信頼感である。

    **

    我々が伝統と考えるものは己の外にあるのではない。それは必ず自己×過去である。己というものを土台にし、常にそれを通して過去を見るのだ。そして我々は決して正直に見ているのではない。己のテンペラメントに符合させ、都合のよい面だけを取り上げる。いいかえれば意識、無意識に、己の与えられた市を正当化する為の努力が全面的にはたらくのである。私はそれが悪いと云うのではない。実際に、自己を外にして成立つ伝統というものは決してあり得ないからである。

    伝統とは何らかの形に於いてそれに己を賭すものであり、主体的にあるものである。だからこの場合自己は最も積極的な動機である。自己が先鋭化すればするほど却って断絶の相貌を呈し、そこに伝統はより激しく、豊かに弁証法的に受け継がれる。ところで所謂伝統主義者達は自己を賭けるのではに。伝統という既成の観念によりかかえい、却って己を消し去る。そして恰も不動不変の伝統という権威があるかのように振舞うのである。っこには大きなごまかしがある。伝統の実体が何であるかは、実は彼ら相互の間でも個々の功利性が働いて全く混乱しているのだ。しかし彼らは「伝統」という錦の御旗をかかげ、それを狡猾に利用して新しい時代の動き、つまり真に伝統を推し進めるものに対して必ず反動的に働くのである。「わび」「さび」「渋み」等の封建的な奴隷的諦めの気分を基底とする「味」の世界を有効な伝統の如く主張し、蒙昧にも芸術の新鮮な動向を否定しようとするのはまさにそれである。

    繰り返して云うが、伝統というものは決して単純な過去ではなく、却って現在的なものである。そして不動不変ではない。むしろ常に変貌し、瞬時も同一ではない。動的にこれを把握しない限り、主体的に生かし、押し進めることは出来ないのである。

    時代遅れの伝統意識にこだわって縄文式を異質なもの、無縁なものと考える必要はみじんもない。それが我々の直系の祖先によってつくられたものであろうが無かろうが、何の意味もなさないのである。とかく封建的意識、習慣から血統といものを神秘化し、絶対的な因子であるかのように考えるのは全くナンセンスだ。我々の血統は複雑な混血であり、直系の祖先をもとめることなど不可能である。

    むしろ、あの原始的逞しさ、純粋さ、つまり人間に於ける根源的情熱を今日我々のものとし取り上げて、豪快、不敵な表情を持つ新しい伝統をうち建つべきである。それこそ日本に於けるアヴァンギャルドの大きな課題ではないだろうか。

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    我々が伝統と考えるものは己の外にあるのではない。それは必ず自己×過去である。己というものを土台にし、常にそれを通して過去を見るのだ。そして我々は決して正直に見ているのではない。己のテンペラメントに符合させ、都合のよい面だけを取り上げる。云い変えれば意識、無意識に、己の与えられた市を正当化する為の努力が全面的にはたらくのである。私はそれが悪いと云うのではない。実施に、自己を外にして成立つ伝統というものは決してあり得ないからである。

    伝統とは何らかの形に於いてそれに己を賭すものであり、主体的にあるものである。だからこの場合自己は最も積極的な動機である。自己が先鋭化すればするほど却って断絶の相貌を呈し、そこに殿津はyり激しく、豊かに弁証法的に受け継がれる。ところで所謂伝統主義者達は自己を賭けるものではない。伝統という既成の観念によりかかり、却って己を消し去る。そして恰も不動不変の伝統という権威があるかのように振る舞うのである。ここには大きなごまかしがある。伝統の実体が何であるのかは、実は彼ら相互の間でも個々の功利性が働いて全く混乱しているのだ。しかし彼らは「伝統」という錦の御旗をかかげ、それを狡猾に利用して新しい時代の動き、つまり真に伝統を推し進めるものに対して必ず反動的に働くのである。「わび」「さび」「渋み」等の封建的な奴隷的諦めの気分を基底とする「味」の世界を有効な伝統の如く主張し、蒙昧にも芸術の新鮮な動向を否定しようとするのは、まさにそれである。

    繰り返して云うが、伝統とうものは決して展純な過去ではなく、却って現在的なものである。そして不動不変ではない。むしろ常に変貌し、瞬時も同一ではない。動的にこれを把握しない限り、主体的に生かし、推し進めるっことは出来ないのである。

    時代遅れの伝統意識にこだわって縄文式を異質なもの、無縁なものと考える必要はみじんもない。それが我々の直系の祖先によって作られたものであとうが無かろうが、何の意味もなさないのである。とかく封建的意識、習慣から血統というものを神秘化し、絶対的な因子であるかのように考えるのは全くナンセンスだ。我々の血液は複雑な混血であり、直系の祖先を求めることなど不可能である。

    むしろ、あの原始的逞しさ、純粋さ、つまり人間に於ける根源的情熱を今日我々のものとし取り上げて、豪傑、不敵な表情を持つ新しい伝統をうち建つべきである。それこそ日本に於けるアヴァンギャルドの大きな課題ではないだろうか。

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  3. shinichi Post author

    青春ピカソ

    by 岡本太郎

    既成の権威は己の地位を護るために現状維持をねがい、保守的となり、自動的に反動の立場をとる。もり上がって来る新しい力はそれを無慈悲に打ち倒さなければならないのだ。だからこそ若い世代は常に公認の画壇や批評家からは危険視され、いかがわしいものとして悪罵される。それはむしろ必須の条件である。一方にとっての芸術は他方にとっては運命的に非芸術なのだ。この相互否定の契機が深刻であればある程、却って激しく芸術は弁証法的発展を遂げるのである。だから、ますます嫌悪の戦慄を与えるような革命的な仕事が要請せれる訳なのである。
     芸術は自然科学とは異なり、連続的な発展をたどるようりも断絶によて想像的に飛躍する。この発展形式は非連続の連続なのである。神は斃されなければならない。ピカソの権威が新しい芸術家によって妥当されることは芸術史の要請である。全世界に於いて、未だにそれがあし遂げられていないということ、そこにこそ現代芸術の不幸な停滞があり、最大の危機があるのだ。

    いったい芸術に於いて単に眺めるという立場があり得るであろうか。真の鑑賞とはどうじに創るということでなければならない。観ることと創ることは同時にある。これは私の芸術論の重要なポイントであり、最も近代的な芸術の技術の根底として取り上げ、既に他の場所で十分に展開した問題である。だがここでは到底その全幅にふれる余裕はないので、鑑賞が如何に創造的であり得るかということを一言説明するに止めたい。
     創るとは決してキャンバスに向かって筆をとり、絵の具を塗ることだけではない。それは全く形式的で素朴な考え方だ。己の世界観に新しいホリゾンを内開くことが実はクリエートなのである。真に芸術作品に対した場合、鑑賞者は己の精神の中に何らかのセンセーションによって、新たに何ものかが加えられる。というよりも己れ自身に己が加えるのであるが。精神は創造的昂揚によって一種のメタモルフォーゼを敢行する。だから芸術作品と対決する以前と以後の鑑賞者の世界観、平たく云えば物の観方自体が質的に飛躍するのである。つまり創造であって、そのような創造のばなしには芸術、並びに芸術鑑賞は成り立ち得ないのである。だからこそ観るということは同時に創ることなのだ。対する作品となる。そしてもし作者以上積極的に対決を挑むならば、鑑賞者は何らかの形に於て創作家を乗り越えるのである。つまりピカソ芸術はただに讃仰するばかりでは鑑賞自体が成り立たないのだ。

    (ピカソ曰く)「芸術家の作品が問題なんではない。芸術家自体のあり方なのだ。たとえセザンヌが彼の林檎を十層倍も美しく描いたとしても、もし彼がジャック・ミエール・ブランシュ(現代の著名な官展派画家)の如き生活をしていたとしたなら私には少しも興味がないだろう。我々にとって重大なのはセザンヌの懐疑、教訓であり、またゴッホの苦悩である。即ち芸術家のドラマなのだ。あとの全ては虚偽である。」

    もし芸術が単に爛熟した文化の上にのみ咲く花であるとすれば、以上のような機械論が成り立たないでもない。しかし芸術に於いては最悪の条件こそ最大の飛躍の契機となるということを私は信じるのである。散文的な現実生活の矛盾苦悩は勿論精神をいためつける。しかしそれでよいのだ。最も逞しく、繊細な精神は己を制約し痛めつける物質と激しく対決する。その猛烈なぶつかりあいによって生じる火花にこと、私は真に人間的な生命と、芸術の姿を見るのである。

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  4. shinichi Post author

    原色の呪文

    by 岡本太郎

    運命に生きる

    勤勉で、無邪気で、好奇心の強い日本民族は、その後さまざまの文化を学びとり、見事に自分のものにした。あらゆる文化形式の、歴史的にもくいちがういくつもの層がぶつかりあい、積み重なっている。まことに奇妙な、世界でも稀にみる複合文化だ。

    **

    その惰性と混乱の渦の下で、しかし、マギレもなく生きている、日本独特の、きよらかな生命感がある。
    一見もろくて、非論理的であり、今日の世界に通用しにくいが、しかし、現代日本人の思考やモラルを深い底で動かしているのは、それなのである。

    **

    賭けとおし、つらぬいて運命を生きる。そのためにつまらぬ目にあい、不条理に痛めつけられても、それはむしろ、嬉しい条件として笑って貫きとおす人間でありたい。ふりかかってくる災いは、あたかも恋人を抱きいれるように受ける。人間のノーブレスだ。逃げない、はればれと立ち向かう。それが私のモットーである。これからも私は、あらゆるかたちをとって抵抗し続けるだろう。ここに打ち出されているのは、もちろん文字だけであるのだが、私の場合、言葉と行動はいつでも一体であり、生活全体である。今までの歩みをふりかえって慄然とするが、ますます決意は固いのである。

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