3 thoughts on “海東諸国紀

  1. shinichi Post author

    海東諸国紀

    https://ja.wikipedia.org/wiki/海東諸国紀

    『海東諸国紀』(해동제국기)は、李氏朝鮮領議政(宰相)申叔舟が日本国と琉球国について記述した漢文書籍の歴史書。1471年(成宗2年)刊行された。 これに1501年(燕山君7年)、琉球語の対訳集である「語音翻訳」が付け加えられ現在の体裁となった。

    1443年(世宗25年)朝鮮通信使書状官として日本に赴いた後、成宗の命を受けて作成したもので、日本の皇室や国王(武家政権の最高権力者)、地名、国情、交聘往来の沿革、使臣館待遇接待の節目などを記録している。「語音翻訳」は1500年(燕山君6年)に来訪した琉球使節から、宣慰使成希顔が聞き書きし、翌年に兵曹判書李季仝の進言で付け加えられた。

    海東諸国全図、西海道九州図、壱岐島図、対馬島図、琉球国図、朝鮮三浦(薺浦、富山浦、塩浦)図などの地図が冒頭に掲げられている。本文は「日本国紀」、「琉球国紀」、「朝聘応接紀」に分かれ、それぞれの歴史、地理、支配者、言語などを詳細に記す。また当時朝鮮を訪れていた日本の地方支配者(大名)使節の接遇方法も詳細に記されている。日本史、琉球史の重要資料であるだけでなく、日本語史、琉球語史でも見逃せない資料を提供している。

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    嘉吉元年(1441年)
    6月24日 – 嘉吉の乱。播磨守護・赤松満祐が将軍・足利義教を自邸に招いて殺害し、領国の播磨へ逃れる。

    嘉吉2年(1442年)
    6月、幕府管領の細川持之が辞職し、畠山持国が就任する。11月、足利義勝が7代将軍に就任する。

    嘉吉3年(1443年)
    9月、禁闕の変。後南朝と見られる一派が、襲撃した内裏から三種の神器を強奪。

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  2. shinichi Post author

    朝鮮通信使

    https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮通信使

    とは、室町時代から江戸時代にかけて李氏朝鮮から日本へ派遣された外交使節団である。正式名称を朝鮮聘礼使と言う。その名の通り江戸幕府はこれを事実上の朝貢使節として扱っていた。

    朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼であった。1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ばからしばらく途絶え、安土桃山時代に李氏朝鮮から秀吉に向けても派遣された。しかし、その後の文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)によって日朝間が国交断絶となったために中断されて、江戸時代に再開された。

    広義の意味では、室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。「朝鮮通信使」という表現は研究者による学術用語であり、史料上には「信使」・「朝鮮信使」として現れる。また江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節と同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現をもっぱら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。

    江戸幕府の外交政策において、朝鮮は琉球王国と並んで正式な国交のある通信国とされていた。その他の中国の明や清、ポルトガル(南蛮)、オランダ・イギリス(紅毛)といった国々は貿商国と定義されており、貿易は行いつつも幕末まで正式の外交関係はなかった。このため朝鮮通信使は江戸幕府の威信を示す機会であるとともに、文化交流のきっかけにもなった。

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