高橋万見子、野島淳、佐藤武嗣、宮地ゆう

政治家と官僚が未分化だった藩閥政治から本格的な政党政治へと統治の形が変わると、官僚機構は、政党を支える組織として機能し始める。初期の官僚に代わって中軸となっていったのが、大学で外国の法科体系を学んだ「学士官僚」だ。ただ彼らは、政治任用を多用し横断的な人事で政官融合を狙う政党と結びついた。
このため、癒着体質も生じた。二大政党制へと移行し、政党間の綱引きが強まるにつれ、対立政党の息がかかった官僚を排除するのが慣行となる。政権交代のたびに100人単位で官僚が入れ替わる時代がしばらく続いた。
昭和初期になると、大正デモクラシー下で高等教育を受けた世代が現れ、政党との協働関係を否定して「官僚政治」の道を開いていく。「革新派」と呼ばれた彼らは、やがて政党の弱体化とともに軍部の台頭を許し、日本は戦争へと導かれていった。

2 thoughts on “高橋万見子、野島淳、佐藤武嗣、宮地ゆう

  1. shinichi Post author

    700年に及ぶ武家専制から近代化の道へと乗りだした明治政府の実務を担ったのは、伊藤博文ら西洋の学問に通じた新知識人だった。
伊藤は海外視察から戻るとすぐに内閣や省庁、官僚制度を整備した。国会が開設されるのはそれから4年後の1890年だから、この時点で、すでに「官僚主導」は始まっていたといえる。

    政治家と官僚が未分化だった藩閥政治から本格的な政党政治へと統治の形が変わると、官僚機構は、政党を支える組織として機能し始める。初期の官僚に代わって中軸となっていったのが、大学で外国の法科体系を学んだ「学士官僚」だ。ただ彼らは、政治任用を多用し横断的な人事で政官融合を狙う政党と結びついた。

    このため、癒着体質も生じた。二大政党制へと移行し、政党間の綱引きが強まるにつれ、対立政党の息がかかった官僚を排除するのが慣行となる。政権交代のたびに100人単位で官僚が入れ替わる時代がしばらく続いた。

    昭和初期になると、大正デモクラシー下で高等教育を受けた世代が現れ、政党との協働関係を否定して「官僚政治」の道を開いていく。「革新派」と呼ばれた彼らは、やがて政党の弱体化とともに軍部の台頭を許し、日本は戦争へと導かれていった。

    だが戦後、連合国軍総司令部(GHQ)が戦争責任の対象としたのは、主として政治家だった。
官僚機構は実質的な権限を有していたが、政治に利用された存在とみなされ、むしろ政治から守られるべきものとして、組織ごと温存された。「公務員制度」と名を変えつつ、結果的には戦前の官僚制度が戦後へと引き継がれた。

    西洋式の法学が役所運営上の基本的な教養であるために法律職が優位に立つ、「法科万能」と呼ばれる世界があった。官僚たちは、文書作りと役所内部での調整に明け暮れた。
他方、理科系出身の技術官僚たちは、公共事業や薬事行政をはじめとする分野で独立王国を形成した。

    このシステムは、55年体制による自民党一党支配のもと、一段と強固になった。
抜本的な公務員制度改革が叫ばれ出したのは、1996年の「橋本行革」以降だ。バブル崩壊後の、景気対策や高齢化を原因とする社会保障費の増大が、国家財政を圧迫した。「小さな政府」論も浮上し、行政のスリム化が叫ばれるようになっていた。

    霞が関を舞台にした不祥事も多発。天下り問題なども浮上して、国民の公務員に対する不信感が募ったことも、改革機運を後押しした。行政改革大綱や公務員制度改革大綱などができ、公務員の再就職規制や民間人登用の促進、能力評価の導入などが唱えられた。

    2008年、福田政権のもとで国家公務員制度改革基本法が成立する。与野党による修正協議を経て、幹部職員を一元管理するため内閣に人事権を集中させるといった基本的な改革の方向性が打ち出され、これが今回の改革のもとにもなっている。

    現在、鳩山政権で官邸や政務三役に入っている議員の中には、橋本行革以降の時代に中央官庁で仕事をし、内側から改革することの難しさを感じて政界へと転じた官僚出身者が多い。彼らが、今の改革の原動力になっている面もある。

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