予期された答えしか存在しない社会

 情報とコミュニケーションのテクノロジーが進化し社会の隅々にまで入り込んでいった結果、「決められた手順」に則ってあらゆる手続きが決められ、システム管理や画面操作がしやすいように社会のなかの事象がデザインされるようになった。
 画面のデザインにあわないようなことは省略され、事象は単純化される。アプリケーションで、氏名の欄に長い名前が入力できないとか、出生地の欄に国名がどうやっても入力できないというようなことが起きた時、アプリケーションの制約に現実を合わせようとする。
 Stefanopoulos-Papadimitriouさんが アプリケーションのなかでは Stefanopoulos-Papadimitrさんになってしまったり、満州国で生まれた人が アプリケーションのなかでは中華人民共和国で生まれたことになっていたりする。アプリケーションのなかで予期された答えしか入力できないというのは我慢できるかもしれないが、遅かれ早かれ、社会でもまた制限された答えしか存在できないようになってしまう。
 「好き」と「嫌い」のあいだのニュアンスは消え、「どちらかといえば好き」は「好き」になり、「少しだけ嫌い」は「嫌い」になる。「雨の日には好き」は「好き」になり、「落ち込んだ時には嫌い」は「嫌い」になる。システムが「好き」と「嫌い」しか受け付けないように、社会もまた単純化された答えしか受け付けなくなる。
 情報とコミュニケーションのシステムや AI のなかでニュアンスが省かれるのは仕方がないとしても、社会からニュアンスが消えるのは、色彩が消え、白と黒としか存在しなくなるかのようで、悲しい。
 進化した情報とコミュニケーションのテクノロジーに慣れ切ってしまった人間が、事物から否定性を取り除き、何もかもを平らで滑らかなものに変えてしまうのは、仕方のないことなのかもしれない。
 ここまで書いて、私は非論理的なことを書きたい誘惑に駆られている。それは「情報とコミュニケーションのシステムや AI がどんなに多くのデータを集めたからといって、データなしの人間の直感と比べていつも優れているとは限らない」ということだ。より少ない情報がより大きな効果をもたらしたりするように、より少ないデータと直感とが正解に導いてくれることだってある。間違っているのだろうが、そう信じたい。

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