エビデンスという言葉がまかり通る社会

 医者たちはエビデンス(evidence)という言葉を好んで使う。エビデンスがあるからその治療法がいい、エビデンスがあるからその薬を投与する、エビデンスがあるからその検査方法は正しいなどなど、医者たちが都合よく使う。
 科学的根拠がある、つまり実験や調査などの研究結果から導かれた裏付けがあるということのようだが、責任逃れに使われたり、患者や家族の思考を停止させるために使われたりもする。
 医学という人体を扱う領域に絶対はないし、割り切れることは限りなく少ない。ある治療法がいい場合もあるし、悪い場合もある。ある薬の効果がある場合もあるし、ない場合もある。だからエビデンスは絶対ではないのだが、エビデンスという言葉には「だから正しい」というニュアンスが付きまとう。
 医者たちがエビデンスと口にしているうちはいい。医者でない人が医療情報を発信し、どうでもいいことをエビデンスと言っていたりする。こうなると、エビデンスという言葉は「ペテン」と同義語だ。
 エビデンスという言葉は、医学を離れても使われる。根拠はこうだ、証拠はここにある、裏付けはこれだなどという調子で、エビデンスが使われる。
 「新聞に書いてあることは正しい」とか「テレビで言っていることは正しい」と信じ込まされてきた人たちが、短絡的に「ウェブページに書いてあったから正しい」というノリでインターネット上の情報に接して騙される。
 進化しているのはテクノロジーだけではない。騙しのテクニックも進化している。エビデンスだからと言われても、無条件で信じてはいけない。
 ここでもうひとつ、どうしても考えておきたいことがある。「エビデンスが正しいものなのか、間違っているものなのか」ということよりも、ずっと重要なことだ。エビデンス、エビデンスと言うあまり、言葉から揺らぎが消えてしまう。そのことが気にかかってしょうがない。
 「エビデンスはこれだ!」というあまり、「これ」以外の可能性を消してしまう。言葉の意味で言えば、「これだ!」と言われた以外の意味が消えてしまう。第2・第3の意味がなくなってしまうのだ。
 また、エビデンスという言葉には、標準を外れたものが見えてこないという側面もある。個人差を認めない傲慢さがあるのだ。
 エビデンスという言葉で裏付けられた情報ほど、空虚なものはない。人が10人いれば、10通りの意味があり、10通りの数値があり、10通りの説明があるというのに、エビデンスとして与えられるのは、ひとつだけの意味、ひとつだけの数値、ひとつだけの説明。それは本当にエビデンスなのだろうか。
 インターネット検索で見つかるエビデンスは、何かが余分で、何かが欠けていることが多い。インターネット上のエビデンスを素直に受け入れるのは危険だ。そして、社会にまん延しているエビデンスは疑ってかかろう。

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