社会の断面

 テクノロジーの進化によって生まれた社会の断面について考えてきたが、こうした断面が真っ先に現れるのは、テクノロジーの利用が進んでいる社会だ。社会体制が違った国であっても社会の断面は同じように現れるから、進んだ社会がどう対応しているかをよく見て参考にするのがいい。
 社会が変化に対応できるかどうかも大事だが、個人が変化にどうついてゆくかということにも目を向けてゆきたい。
 教育現場では、テクノロジーに囲まれて育っている子どもたちに、何も知らない大人たちが、テクノロジーを教える。そんなある意味滑稽な状況が、あたりまえのように見られる。
 会社では、テクノロジーを使うことが日常になっている部下を前にして、テクノロジーをあまり利用したことのない上司が、テクノロジーについての決定をくだす。決定の意味のなさを部下たちが指摘しても、上司には何がおかしいのかがわからない。
 変化があまりにも速いため、個人がそれについていけない。社会もついてゆけない。法律もついていけていないし、倫理はもちろんついていけていない。
 テクノロジーの進化による社会の変化を放っておけば、混乱すら生まれず、「変化の先端にいる人たちだけが変化を享受し、変化に気づかない人たちが失い続ける」というアンフェアな状態が定着してしまう。
 テクノロジーのアセスメントにもっと真剣にならないと、社会は変な方向に向かってしまう。いや、アセスしようとしまいと、変な方向に向かうことに変わりはあるまい。
 ここまで書いてきた社会の断面の兆候は、テクノロジーが進化する前から見られていた。だが、その頃と今とでは決定的に違うことがある。それは戻れるかどうか、つまり不可逆的かどうかということだ。もう戻れない。もう元のようにはならない。そう思うと、見えてきた社会の断面がずっしりと重たく感じられるのではないだろうか。

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