関東に移住した筆者は六月になって驚いたものである。なんと関東には梅雨が無かったからである。有るのは、ただどんよりと曇った日々が続くだけで、しかもたまに降るだけの凡そ雨とは思えない小雨が散見せられただけだったからだ。しかしそれは貧乏学生にとって随分と助かった。下宿の窓の隙間から雨粒に襲われなくて済んだからである。よくよく生活してみると、関東にはほとんど台風らしき台風はやってきたことがなく、梅雨もなく、これでは大自然から学ぶ所の精神の昂揚や深い洞察や諦観といった哲学性は、獲得仕得ないと感じたものである。
侘び然び幽玄のこころ
─西洋哲学を超える上位意識─
by 森上逍遥
https://www.morigamishoyo.com/books/9784434201424/
第1章 日本人を決定付けた梅雨
「しろしかねー」
筆者が幼い時よりしばしば聞かされた言葉である。「しろしい」の変化した語である。それは、梅雨の時のみに用いられた季節限定の言葉である。筆者が生まれ育った九州は、関東などでは全く思いもしない程の量の雨が降る地域である。ただの普段の雨も関東の人が出遭うと豪雨という驚きになる程に、雨に対する本州の人たちとの感覚の差は埋め難いものがある。経験的には本州の人たちも台風を知っているのだが、毎年当たり前の様にその暴風雨に晒される九州人にとって、それは日常の一コマであり受け入れなければならない「定め」でもあるのだ。その度に川は氾濫し田畑は荒れるのである。
だが、筆者はそんな台風が嫌いではなかった。学校が休みになるからばかりではない。その荒れ狂う大自然の猛威に晒されていることが、何故か心地良かったからである。海は荒れ狂い小さな船を呑み込んでいく。その様な時に船に乗れば、巨大な波の中にすっぽりと船影は隠れ、自分の目線の数メートルも上から、その荒れ狂った波が襲ってくるのである。それは当時の筆者にとって生きているという強い実感が持てる「生かされた精神」の満ちる時であった。幼い時より一度としてそれを怖いと感じたことはなかった。
台風一過と言うが、その時の海辺は砂浜を抉えぐり取られ、寒々とした光景へと変わっている。しかしそれも日と共にすぐに元に戻り、また綺麗な浜辺が出現する。何事もなかったかの様にまた平穏な日常が始まるのである。この循環を一つの法則と理解する人としない人の知性の差は大きい。自然を介して輪廻無常を学び取らない人は愚者と呼ばれても仕方がない。
この台風の時に「しろしい」とは誰も口にしない。それは、梅雨の時にのみに用いられる言葉であるのだ。ところが、後に関東に移住した筆者は六月になって驚いたものである。なんと関東には梅雨が無かったからである。有るのは、ただどんよりと曇った日々が続くだけで、しかもたまに降るだけの凡そ雨とは思えない小雨が散見せられただけだったからだ。しかしそれは貧乏学生にとって随分と助かった。下宿の窓の隙間から雨粒に襲われなくて済んだからである。よくよく生活してみると、関東にはほとんど台風らしき台風はやってきたことがなく、梅雨もなく、これでは大自然から学ぶ所の精神の昂揚や深い洞察や諦観といった哲学性は、獲得仕得ないと感じたものである。
(sk)
九州の人間には「わびさび」がわかり、関東の人間には「わびさび」がわからないということらしい。
九州の人間には「大自然から学ぶ所の精神の昂揚や深い洞察や諦観といった哲学性」があり、関東の人間にはそれが獲得しえないという。
だから東京人である私の「わびさび」の理解が、この大先生のご理解とは大きく違うのも致し方ない。
「わびさび」については、私は Leonard Koren の
という説明がもっとも真髄を突いていると思っており、やはり Leonard Koren の
という文章もとても気に入っている。
これを日本人が書けなかったのは大変残念なことだが、Leonard Koren はこれらのことを京都で日本人から学んだそうだから、日本人な中にも似たような考えをする人たちがいるのは間違いない。
京都の台風や梅雨が、九州のようなものとも思えず、そうか、この大先生はきっと九州に存在する「わびさび」のことをお書きになったのだと合点した。